2019年10月12日

李棟山隘勇線−2:大混山

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【写真説明】大混山山頂は古道入口から1時間強で辿り着く。隘勇線自体が同山山頂を抱合していたかどうか?は判らない。古道たる広い路線は頂上を巻くようにしながら北へ延びており、頂上へ至る道が進行方向左側に切ってある(左写真)。頂上は真っ平である(中央写真)。陸地測量部に敬意を表し大混山三等三角点の写真(右写真)を掲載しておく。こちらも百年古蹟である。(続く)
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2019年10月05日

李棟山隘勇線−1

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【写真説明】左写真は大混山古道入口に立つ指導標、2016年5月の踏査、それ程遠い過去の話ではないのだが、この入口にどのようにして辿り着いたのか?明瞭な記憶が無い。新竹県横山郷内湾、尖石を通過した後の順路を当時撮影した写真を手掛かりにしてみても印象に乏しい有様。中央写真は、古道入口から暫く続く竹林。右写真は大混山への稜線上の古道の一風景で幅広な路線である。本ブログの第一投稿記事「六亀特別警備道(扇平古道)−1」の中で、隘勇線を「物理的には山中百五十メートル幅で草木を払い、道路を通し鉄条網を張り巡らし。。。」と説明したが、当時はこの古道を含む稜線が丸裸にされたことが想起される。
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2019年09月28日

『水の古道』隆恩[土/川]−5:「永済義渡碑記」

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【写真説明】左写真は南投県名間郷濁水村福興宮にある「永濟義渡碑記」、中央写真は同県竹山鎮社寮里紫南宮にある同じく「永濟義渡碑記」、どちらも光緒5年(1879年)の銘を持ち、濁水渓北岸(右岸=福興宮)と南岸(左岸=紫南宮)間の義渡設営の顛末を記してある。碑文は殆ど同じであり、双つ乍ら国定古蹟である。前回投稿記事で述べた日本人に依る濁水橋竣工(昭和9年・1934年)を以て永済義渡は約四十年の役目を終える。右写真は、社寮紫南宮本堂前の賑わい。
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2019年09月21日

『水の古道』隆恩[土/川]−4:濁水橋

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【写真説明】左・中央写真は日本時代架橋の「濁水橋」の北岸(右岸)側に、獅頭山を背に起立する橋柱遺構。集集攔河堰沿いに集集橋を介した省道3号丙線脇にあり、今は歴史遺産として公園仕立てになっている。南岸(左岸)側橋柱は撤去されており、「吊橋頭」と云う地名だけが残る。右写真は橋柱上部に刻まれた銘。竣功年月も「濁水橋」と同じ面に刻まれていたが、今は殆ど判読不能な状態迄に破壊されている。下掲写真は、南岸吊橋頭に設けられた展望台から橋柱(同写真中央部に微かに写る)を含む北岸を望んだ。この展望台、集集攔河堰と濁水渓、加えて集集大山を始めとする日月潭を取り巻く山並みの絶好の眺望台だが、今は訪れる人も殆どない。そもそも展望台入口すら判り難くなっている。尚、獅頭山は吊橋遺構附近から700段近くの階段が設営されており頂上迄登れるが、今回筆者は遠慮した。
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2019年09月14日

『水の古道』隆恩[土/川]−3:隆恩圳幹線・南岸沈砂地

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【写真説明】左写真は、濁水渓南岸取水口から隆恩圳幹線に導水された後、その文字通り濁水が先ず通過する沈砂地はだだっ広い退屈な公園になっている。その公園の西端脇に福興宮と云う土地公があり、そこに隆恩圳の南圳と北圳への分岐点がある。中央写真は土地公敷地内から隆恩圳幹線を撮影、右写真は幹線が南圳(同写真右側水路)と北圳(同写真左側水路)へ分岐する様。但し、水門自体が日本時代のものか?は疑問。
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2019年09月07日

『水の古道』八奨渓義渡−7:道将圳−4

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【写真説明】【「道将圳−3」追記】その後機会あり再度嘉義市指定古蹟の芳草橋を探しに出掛けた。グーグル・マップで「芳草橋」を検索しても代わりに芳草公園と全家(ファミリーマート)芳草店が出て来るだけだが、「嘉義市 糯米橋」で検索すると見事に行き当たった。ところで、筆者自身は台湾内にはまだ五万と糯米橋は残存していると勝手に想像していたが、グーグル・マップで検索すると、嘉義市のものも含め全国で僅かに四箇所だけだ。これは驚きの発見、嘉義市がこの現代自動車道の下敷きになった小さな橋を古蹟扱いにするのも納得出来ると云うものだ。前回の調査時は、道将圳取水口から流れ出した所謂幹線に掛かる橋を取水口から二つだけ追い掛けた。暑い一日で徒歩で確認出来るのはそれが精一杯、最初の架橋が福安宮横の道将圳橋であり、二つ目が無名橋であった。糯米橋は、この無名橋より東側ワンブロックだけ離れた場所に別の道爺圳が走っており、そこに架橋されていた(左写真)。幹線は水が滔々と流れているが、こちらは水の流れ自体が無し。幹線に対する支線?糯米橋の部分は北側側面が僅かに確認出来るだけ(中央写真)、南側は完全にコンクリートに埋もれているが、嘉義市東区芳草里の誇りらしく色鮮やかな意匠に取り巻かれている(右写真)。(終り)
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2019年08月31日

『水の古道』八奨渓義渡−6

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【写真説明】八奨渓義渡公園内に小屋掛けしてある「八掌渓義渡記念碑」(左写真)は殊更日本式漢字の「記念碑」を充ててあり、中国式の「紀念碑」では無い。しかもこの碑は元々は別々に建立されたものを合体させたようにも思える。具体的には、石碑本体が道光年間の「八奨渓義渡碑記」であり、基部が日本時代の「八掌渓義渡鐵線橋(重修碑)」である。道光年間のものは、建立の期日がまだ明確に読める。他方日本時代のものは向かって右側に年号、左側に月日が銘記されているが、摩耗が激しく漸く紀元節年号になっているのが判る程度である(中央写真)。この基部は元々「八奨渓義渡碑記」のものであり、後年書き込まれた可能性もある。但し、基部裏側の銘はまだ鮮明である(右写真)。尚、日本時代の鉄線橋竣工は、初代が大正12年(1923年)、修復されたのが昭和15年(1940年)、今に残る記念碑は後者のものである。
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2019年08月24日

『水の古道』八奨渓義渡−5

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【写真説明】嘉義市の古刹彌陀禅寺山門前の駐車場横に設えられた仮称「八奨渓義渡」公園内に起立する事蹟は全部で四基、「八掌渓義渡記念碑」、「義民塔」、「義民神位碑」、「土地公像」、この内、日本時代建立のものは、前者二基である。左写真はその二基も含め、同写真右側に写る義民神位碑を含む三基が写り込んでいる。義民神位碑はレプリカだと思われる。右写真は、彌陀禅寺の駐車場から義渡公園への階段を登り切った場所に建つ渡しの絵が入った洒落た案内板(中・英文)と土地公像。土地公像は新しいがその土台は日本時代の神社の灯篭を拝借して来たように見える。
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2019年08月17日

『水の古道』八奨渓義渡−4

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【写真説明】彌陀映月橋途中から八掌渓右岸を望むと、その橋端より僅かばかり上流側の彌陀禅寺伽藍と共に二柱の直線のコンクリート製構造物が目に飛び込んで来る。刹那に日本時代の鉄線橋の橋柱を想起させるのだが、筆者の『台灣全覧』を見ると丁度同じ位置に二つ、記念碑が明記してある。それでも旧橋柱を利用し記念碑に仕立てた可能性もあるので、とにかく現場、彌陀禅寺迄出掛けてみた。二本の構造物は設計上は平凡そのもので、加えて一切の銘が無い。一体全体対岸の左岸には対になるべき橋柱は起立していない。それでこれら二本はやはり地図にあるように兎に角記念碑であろうと結論付けて彌陀禅寺を後にした。その後ネットを渉猟していたら、やはり、これら二本の構造物は日本時代竣工の鉄線橋の橋柱であることを確認した。その名も「八掌渓義渡鐵線橋」。現地にある鉄線橋に関わる事蹟は「奨」の字が「掌」に代わっている。何故右岸側に二柱あるのかは不明。左写真は八掌渓縁に建つ彌陀禅寺の山門と旧鉄線橋第一橋柱、中央写真は、彌陀禅寺山門脇に小高く設えられた筆者に依る仮称、八奨渓義渡公園から山門、橋柱越しに望む八掌渓と日本時代の鉄線橋に取って代わった忠義橋、右写真は義渡公園脇に起立する鉄線橋第二橋柱。幾ら何でも左岸から移動させて来たとは思えない。(続く)
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2019年08月10日

『水の古道』八奨渓義渡−3:道将圳−3

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【写真説明】道将圳取水口から取り込まれた八掌渓の水はごく普通の水路(左写真:「道将圳幹線」)を通り嘉義市街地に流れ込んで行く。取水口から忠実に水路を辿るのは住宅地の建て込みの関係で無理なので、少し回り道をして、シリーズ『台灣的古圳道』に掲載されている糯米(モチゴメ)橋をグーグルを利用し探した。グーグルが指したのはダイヤグラム上の福安宮(中央写真)横の小橋で、日本時代架橋の橋が下敷きになっているはずなのだが、見当たらず。代わりに発見したのは同橋の名前が「道爺圳橋」(右写真)であること。あれあれ、道将圳が何時の間に道爺圳に代わったのやら?と訝ったが、元々は道将圳は道爺圳と将軍圳の集合名詞なので、筆者が取水口から辿って来たのは幹線とは言え道爺圳だったらしい。いずれにしても、筆者が辿り着いたのは1864年(同治3年)架橋、今は嘉義市指定古蹟の芳草橋(又は草地尾橋、古名は、道爺橋、又は道爺圳橋!)では無いのは確かで、次回の機会に委ねることにした。(続く)
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2019年08月03日

『水の古道』八奨渓義渡−2:道将圳−2

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【写真説明】八掌渓右岸に位置する道将圳取水口を構成する構造物の二態。コンクリート製の奇妙な構造物は曲線を描き、加えて人が十分歩けるよう設計されており、実際今現在は錠の掛かった門がある。回廊に沿い草が生い茂っているのは古さを思わせるが、日本時代の竣工かどうかは判ら無い。何よりもまずこの構造物の機能が想像付かないのだが、筆者には優美なデザインを持つオブジェだ。筆者はこの奇妙な物体に遭遇し幸福を感じる始末。右写真は現代の取水堰。(続く)
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2019年07月27日

『水の古道』八奨渓義渡−1:道将圳−1

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【写真説明】嘉義市市街地南端、西側軍輝橋と忠義橋とに挟まれた八掌渓の両岸は親水公園として整備されている。これら二架橋は幹線自動車道であるが、その間八掌渓親水公園施設として彌陀映月橋が架けられている(左写真)。彌陀の由来は、この橋の北東、八掌渓右岸にある1752年(乾隆17年)建立、日本時代の嘉義八景の一つ、名刹彌陀禅寺である。中央写真は、親水公園内八掌渓左岸側から固定堰(と呼べるのかどうか?自信無し、『台灣全覧』には「道将圳攔水堰」)とその奥突端に位置する道将圳取水口付近(青いペンキ構造物)を望んだもの。同写真右に彌陀映月橋が写る。その道将圳取水口付近も公園仕立て(右写真)になっており、同写真中央に写るプレートに道将圳の紹介が記されている。以上の位置関係はこのダイヤグラムを参照にして欲しい。
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2019年07月20日

『水の古道』阿罩霧[土/川]−5

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【写真説明】左写真は阿罩霧圳新第一水門越しに旧水門を臨む。中央写真は第一水門南側の阿罩霧圳景観。同写真に写る簡易渡槽は日本時代のものか?更に阿罩霧圳を南に下ると、遊楽客を意識したと思われる手摺が現れ、その先に大きな水車が阿罩霧圳に掛かっている。曰く「下抄封支線水車/臺灣南投水利會/103.3」とあるので、観光用アトラクションとは思えず、灌漑を担う設備のように思えるが、2014年に竣功させたにしては何等かの機能を果たしているようには見えず。何処かで台湾一大きな水車とのキャッチフレーズを見たことがある。(終り)
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2019年07月13日

『水の古道』阿罩霧[土/川]−4

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【写真説明】烏渓治水工事竣功記念碑と省道3号線を隔て真向かいの象鼻路上に位置す阿罩霧圳第一水門、左写真右側が日本時代水門、左側に現代の水門がある。中央・右写真は日本時代水門を阿罩霧圳南側から撮影。下掲載写真は水門上の銘の拡大、並びに水門詳細。
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2019年07月06日

『水の古道』阿罩霧[土/川]−3

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【写真説明】左・中央写真は霧峰市街地南端、国道6号線高架下に佇む「烏渓治水工事竣功記念碑」。日本時代の記念碑石碑様式に拠っている。記念碑正面「烏渓治水工事竣功記念碑」の表題下に「昭和六年十月起工/昭和十四年十月竣功/工費金六百六萬圓餘」のプレート(右写真)が嵌め込まれ、背面には「昭和十四年關係地方民建立」のプレートが嵌め込まれているが、それらプレートの年号の部分はすべて削り落されている。
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2019年06月29日

『水の古道』阿罩霧[土/川]−2

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【写真説明】左写真は、台中市霧峰区区役所脇を走る民生路東側に沿う、嘗ての台湾五大家族の一つ、霧峰林家邸宅群の一部、一般に公開されている「霧峰林家宮保第園区」。中央写真は、その邸宅群の北側、同じ民生路路上にある、大正3年(1914年)設立の台湾基督長老教会霧峰教会の側面、既に百年を経た日本時代建築時の優雅なデザインがそのまま残っているが、古蹟指定にはなっていないようだ。偶々協会のトイレを拝借した際、気付いた。右写真は、同邸宅群南側に位置する霧峰区区役所脇、これも民生路路上の下水道マンホールに「阿罩霧」の文字を見付けた。これが阿罩霧山に続く「阿罩霧」との二度目の遭遇になった。暫くはこの下水道が阿罩霧圳の一部と勘違いしていた。
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2019年06月22日

『水の古道』阿罩霧[土/川]−1

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【写真説明】「阿罩霧」は現在の台中市霧峰区の古名である。阿罩霧山は同区東部にある朝陽科技大学の裏山で、この裏山一帯は農道がそのまま遊歩道になっており、地元の老若男女が専ら目指すのは、台湾小百岳の一座で二等三角点を持つ標高249bの阿罩霧山には非ず、福徳宮なる土地公が鎮座する近くに設けられた涼庁(左写真)、及び展望台である。この展望台の向かい側に平坦な山頂を持つ阿罩霧山が対座しその峰越しに台中市街地が拡がる(中央写真:三角点は平たい三つのピークの内、最も左側)。絶景である。他方、遊歩道上には阿罩霧山への指導標は一切無く、三角点迄辿り着くのはちょっとしたパズルである(右写真)。
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2019年06月15日

『水の古道』隘寮[土/川]−4

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【写真説明】本カテゴリーを閉じるに当たり、隘寮圳導水口水門二態を掲載した。これらが日本時代の遺構かと言うと、コンクリートの処理が素人目にも雑なのでそうではあるまい。(終り)
ラベル:台湾 古道
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2019年06月08日

『水の古道』隘寮[土/川]−3

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【写真説明】前回記事で紹介した日本時代架橋の小橋部分詳細三葉、昭和13年(1938年)作、精緻の一言。。。(続く)
ラベル:台湾 古道
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2019年06月01日

『水の古道』隘寮[土/川]−2

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【写真説明】左写真は水門橋から隘寮圳導水口側を望んだ。水門橋は戦後の架橋であるが、同写真中央に写る小橋は日本時代の架橋。日本時代に撮影された写真と比較すると、当時と変わらぬ姿で水を落とし続けているのが判る。中央写真は、左写真小橋右側に立つ屏東水利会に依る隘寮圳の由来を記した案内板。その由来はそのまま本文記事に翻訳した。その由来の中には日本、日本人、日本年号等日本時代に関わる記載は一切無し。右写真は水門橋から導水路下流側を望んだ。水車は観光用のアトラクションと思う。
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2019年05月25日

『水の古道』隘寮[土/川]−1

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【写真説明】屏東県内埔郷水門村の市街地内に隘寮圳の導水路が口を開けている。約1`のトンネルを経由した隘寮渓の水が豪快に落とされ市街地の真ん中を流れる。今も日本時代、昭和13年竣工のものがそっくり健在である。左写真はその導水路に掛けられた水門橋。導水路の両側は「水利休憩公園」として遊歩道が渡してある。その一部は導水口上部まで階段が付けられており、中央写真はその階段途中から望んだ水門村市街地と隘寮圳水門橋(同写真中央)。右写真は隘寮圳トンネル導水口から流れ落ちる水、恐ろしく鮮烈であり、整備のいい加減な公園仕立てとは対照的。
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ラベル:古道 台湾
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2019年05月18日

哈盆越嶺古道−6

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【写真説明】今回は哈盆越嶺古道カテゴリーを閉じるに当たり古道美三景を選んだ。。。(終り)
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2019年05月11日

哈盆越嶺古道−5

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【写真説明】「桶後越嶺古道−1」で書いたように、哈盆越嶺古道を表し誰かが「台湾のアマゾン」と呼んだ。同記事でその所以を南勢渓の渓谷美に在りと言い切ったのだが、実は自信が無い。かと言って他の所以を思い付かない。古道5〜6`と推察される地点にロープを結わえ付け南勢渓迄降りて行ける場所がある(左写真)。筆者の記憶する限り、歩道+古道上で実際川底に降り立てるのはここ一箇所だと思う。この点は、桶后渓川底すれすれに開削された桶後越嶺古道との大きな違いである。哈盆古道は南勢渓右岸沿いかなり高い地点に忠実に開削されている。鬱蒼と茂るオオタニワタリ(右写真)と組み合わされば、アマゾンのイメージか?(続く)
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2019年05月04日

哈盆越嶺古道−4

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【写真説明】今回掲載した三枚は「哈盆越嶺古道も日本時代は対タイヤル族管制の為の理蕃道として整備された」証左―一つは、平板な石を敷き詰め警備道を補強した路側石(左・中央写真)。もう一つはタイヤル族管制の為に警備道上に鉄線を渡し通電させていた碍子。碍子が樹木に取り込まれ年月を感じさせる。これらは嘗て日本人が整備した警備道(理蕃道)に残存する典型的な遺址である。(続く)
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2019年04月27日

哈盆越嶺古道−3

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【写真説明】カラモチ歩道の全長は福山村入口から2`乃至は3`程度のようで、後東側に伸びる部分は林務局設置の里程標が立つ哈盆古道となる。前回記事で述べたように、カラモチ駐在所は福山村からざっと5`と踏んだとすると、その跡地は歩道上で無く、古道上にあることになる。今回掲載した写真はその駐在所跡地らしき広場と石塁(左・中央写真)であるが、何の確証も無し。哈盆古道段5〜6`地点、丁度中間点になる(右写真)。コメントするのが遅くなったが、桶後古道と同じく、哈盆越嶺古道も日本時代は対タイヤル族管制の為の理蕃道として整備された。(続く)
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2019年04月20日

哈盆越嶺古道−2

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【写真説明】カラモチ歩道段の哈盆古道の景観を二枚選んだ(左・中央写真)。何故かこの段の古道脇の保護柵は黄色と緑の段々である。歩道上の指導標の材質も林務局のものとは異なる。恐らく福山村が自前で整理したのだろう。軈てカラモチ歩道と哈盆古道の分岐点に至る(右写真)が、前述したように歩道部分も古道である。指導標左側「福烏道路」とは福山村と烏来市街地を結ぶ幹線道路、西側古道起点、右側「哈盆露営地」とは林務局管理の古道東側起点、福山植物園の西側である。
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2019年04月13日

哈盆越嶺古道−1

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【写真説明】左写真は新北市烏来区福山村内で見掛けた「哈盆」と「阿玉」(前回投稿「桶後越嶺古道−5」で紹介済み)の記載がある看板。阿玉は同区孝義村の日本時代の旧名。但し、同看板に何故二つながら並んでいるのか?その由来は分からず。中央写真は村内に立つ観光用指導標。「福山植物園」の方向が古道入口である。左写真は同村内の福山1号橋の袂にある哈盆越嶺古道登山口付近の案内板。実際は卡拉莫基歩道の入口で同写真右奥に赤い鉄製の手摺が見えている。
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2019年04月06日

桶後越嶺古道−7

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【写真説明】古道として整備された起点(或いは終点)付近は種々建造物があったはずだが、今残っている写真はここに掲載した三枚のみ、吊橋を除いて撮影した対象(中央・右写真)が何であったか?皆目見当付かず。ここには日本時代の遺構と思えるような物もあり、そうであればカメラを向けたはずだが、復路を急いだと云う記憶も無いので、もう少し写真が残っていそうなものだ。手元の『台灣全覧』に依ると、この古道起点付近には以下の公共施設があることになっている。即ち;台湾電力保線所、苗圃管理員宿舎、林務局新竹林管理処烏来工作站招待所。日本時代、同地には「製脳会社仮泊所」があったことが、『烏来的山與人』(鄭安睎・許維真訳著、2009年10月出版、玉山社)に記載されている。「製脳」とは「樟脳」製造の事で、同書の記述から推察するに三井系の会社で、社員の宿泊施設があった。中央写真はその跡地か?右写真は保線所施設か?桶后渓の渓谷美を読者の方に存分に味わって貰おうと書き起こしたが、如何せん筆者の記憶が余りに乏しく、古道全線を走るようにして紹介するに留まってしまった。(終り)
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2019年03月30日

桶後越嶺古道−6

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【写真説明】桶後越嶺古道の烏来出入口が近くなると、川幅が拡がるに連れ、水深の深い鮮烈な淀みが現れる(左写真)。又、コンクリートの人工物も見え始める。柳杉植林帯を抜けて仕舞うと、第三渡渉点に出会い、古道起点(0`ー7`)(右写真)まで1`余り(中央写真)。。。(続く)
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2019年03月23日

桶後越嶺古道−5

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【写真説明】第二渡渉点を過ぎてから烏来側古道出入口に向かい3`程は、杉の植林中の路程となる。尤も『Tony的自然人文旅記』絵図からの推測であり、筆者の記憶には無く、自身の撮影した写真に残っていたのが、左写真。絵図には柳杉林と記されているが、柳杉をそのまま日本語サイトで検索すると、上位に出てくるのは、木材会社のサイトで、その中の一つをそのまま拾うと以下のような解説があり、どの木材会社のサイトも似たような説明が供されている:
「柳杉(リュウスギ/ヤナギスギ)は、ヒノキ科スギ亜科スギ属の常緑針葉樹です。第二次世界大戦後、中国にて日本のスギの苗を大規模に植林したものとされています。その為、中国・四川省原産ですが、日本のスギとDNAが同じとされており、色味、材質、肌触りなど、ほぼ日本のスギと同じ性質を持った材として知られています。」日本語の杉と漢語の杉の違いまで踏み込んでしまうと煩わしいので、この程度の説明に留めておく。中央写真は、その杉木立が続く古道右岸側に架かる第二吊橋とその脇に立つ指導標(3`−4`)。同指導標中に、三座、大礁渓山(標高1,161b)、小礁渓山(同1,147b)、烘爐地山(同1,166b)、に加え、阿玉山(同1,420b)は日本時代からよく登られてきた烏来地区の山々だが、標高こそ引くけれ、渓谷沿いに登山口があると云うことは、落差が大きいと云うことになるので、今後筆者がそれらの一座でも登る機会があるかどうか?自信無し。右写真は、第二吊橋を越えた先の古道景観。(続く)
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