2020年07月11日

虎頭埤−2

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【写真説明】前回記事虎頭埤風景区内外の日本時代遺物第2号として、新化神社の風景区外の遺構を紹介したが、今回は、風景区内にある同神社遺構を紹介する。正面ゲートをくぐり直ぐ左手にある。左写真は本殿への階段と思われる。中央写真は、現場の案内板に依ると「新化神社-神明避難所遺構」、詰り、祭神の防空壕である。右写真は同遺構の上部。その案内板の拙訳は以下の通り:

新化神社は、昭和18年(1943年)、第二次世界大戦(筆者註:大東亜戦争)末期に竣工された。日本時代に台湾各地に建立された神社の中で、同様の地下室遺構を有するものは、台湾神社(台北市円山付近)とこの新化神社のみである。驚くべきことに、日本でも類似の遺構は稀で、歴史遺産として保存する価値がある。新化神社の「地下室神明避難所」としてその構造が最も特殊な部分は、地形の高低差を利用し地下室を設け、その地下室と屋上を結ぶ階段を設営、地下室入口は切石割の土塀で囲み、屋上には洗い出し石材(筆者註:台湾国語では「洗石子」、天然石材の人造代替石材の一種)に依る欄干が敷設されている点である。

さて、ここで虎頭埤の所在地である新化の地名の起こりを、『臺灣地名研究』依り抜粋しておく:

大正九年大目降を、鄭氏時代に設けた堡名新化里に因み新化と改めた。シライヤ族タヴオカン社(蘭人のTavokang)のあった所で、西暦一六○○年代に和蘭人によって教化に着手され、次で明末鄭氏の時代には開化の地となり、清領の当初大目降荘(後の大穆降庄)と称した。大目降は即ちタヴオカンの蕃社名に宛てた近音訳字で、大目降は木岡(ボクコン)とも称した。後移民が漸く多く商民集中の区となり大目降街を形成する。 (続く)

【関連する記事】
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2020年07月04日

虎頭埤−1

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【写真説明】左写真は虎頭埤風景区の正面ゲート、虎頭埤の西端になる。そのゲートに向かい右側から南側に入り込む路地がありそこを伝い抜けると小さな街並みに出るが、そこに中央写真に写る大鳥居が立っている。その小さな街並みの風景に完全に同化している様に驚いた。嘗ての新化神社の入口になる。本殿に至るには風景区敷地内に入る、つまり入場料を支払う必要あり。大鳥居と本殿を繋ぐ旧参道の途中、詰り、風景区敷地内外を結ぶ敷地外側に太鼓橋が残っている。今回の投稿本文に虎頭埤並びに周辺の日本時代の遺物第1号を紹介してあるが、新化神社関連遺物はその第2号であり、風景区敷地内にも神社遺構は残る。
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2020年06月27日

苑裡圳−6

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【写真説明】左写真は前回投稿で紹介した涼み台から取水口を背にして撮影した苑裡圳。左側の民家を抜けた後の古圳脇に設営された構造物二体、主流の水を水圳両側の田園に配水させる分水路に設けられているのだが、残念ながらこれら二つの構造物の機能の相異は筆者では想像出来ない。初めて目にするものである。此処迄、走るような簡便な紹介になってしまったが、以上で苑裡圳の紹介は一旦終了する。(終り)
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2020年06月20日

苑裡圳−5

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【写真説明】前回の投稿記事に写真を掲載し家屋は、県道を背にして郷道の右側に立っていたが、その逆側の民家は苑裡圳に沿って建てられている。適当な路地(左写真)を選んで入り込んでみると、大木の袂に小さな公園仕立ての涼み台とも呼べる空間が設えてあり(中央写真)、その下を苑裡圳が流れていた。その流量と清烈さに、何時もながら感嘆する。既に百年を越えて基本的には当時構築した流配水のシステムを百年を経ても維持し続けて来た当時の業(わざ)に驚嘆するのだ。右写真は、台湾の、と言うべきか?、台湾でも、と言うべきか?古圳脇に設けられた古圳の水を洗濯、水浴び等直接生活水として利用する為の踊り場である。前述の涼み台脇の例。(続く)
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2020年06月13日

苑裡圳−4

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【写真説明】県道140号線から外れ暫く苑裡圳を追い掛ける為には、苗栗県郷道43号線に入る必要がある。県道から郷道に右折する際にその三叉路に立っている道路標識(左写真)の中の「水門」の二文字を見てあっ!と思った―ここにもある。日本時代の水インフラがそのまま地名になっている例がここにもあったと云う意味である。この標識から判断するに、当地の地籍は苗栗県苑裡鎮上館里水門庄と云うことになりそうだ。中央写真はその三叉路から郷道に少し入り込んだ道路脇の「水門」バス停。この付近の民家は古撲だ。右写真はその一例。(続く)
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2020年06月06日

苑裡圳−3

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【写真説明】この古水門を自身の畑に囲い込んだその民家は、もう一つ日本時代の古蹟も抱き込んで、家屋の一部と化している。礫岩、或いは鵞卵石と呼べる自然石で構築された堤防、正式には「火炎山堤防」である。左写真に写るのは、その堤防上での生姜(ショウガ)の乾燥風景である。その堤防は古水門から西側に延び、件の民家と横並びの数軒の家屋の裏側を横切っているが、そこで断たれている(中央写真)。他方、県道140号線北側には大安渓右岸沿いに堤防の堤防たる機能を残して伸びている(右写真)。何処まで日本時代の堤防でカバーされているか?は未確認。又、対岸の左岸側にも日本時代の堤防は残っていると思われるが、これも未確認。ここで想起するのは、日本時代の古蹟で最も数が多いのは測量基準点(殆どが三角点)と思われるが、延長と云う基準からすれば堤防に相異無いはずだが、珍奇な説だろうか?(続く)
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2020年05月30日

苑裡圳−2

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【写真説明】左写真は苗栗県県道140号線脇にある民家の畑奥に起立する、1914年(大正3年)構築の取水口水門、取水口側から見た構造物である。民家は苑裡圳の西側にあるので、苑裡鎮上舘里に属するはずだ。中央写真はその下部構造。右写真は、同じ水門をこの民家の裏側下にある苑裡圳に架けられた火炎橋上から撮影した。この古水門も前回掲載した現代の取水口水門と同じく4連である。この古水門を筆者が訪ねたのは2019年8月、その後2020年1月になり苗栗県県定古蹟に指定された。と謂うことは、前回の記事で紹介した民家のご主人の、現在の古水門が日本時代のオリジナルでは無く復元であるとのコメントの真偽ははっきりしないのだが、水利事業関連構造物が歴史建築と見做される民度の高さが重要だと思う。(続く)
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2020年05月23日

苑裡圳−1

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【写真説明】地図上には「苑裡圳入水口」と云う表記だが、現代の当該水圳への取水口は「進水門」、「排水門」、「制水門」から成る水門システム(左・下掲左写真)である。当然、素人の筆者には区別が付かない。中央写真は大覇尖山を源頭とする台湾第7位の流長を有する大安渓よりの取水路。右写真は所謂取水口と思われる4連の水門。
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2020年05月16日

火炎山古道−7:香茅古道

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【写真説明】火炎山主稜西側山裾にある香茅古道出入口を探し出すのは骨が折れた。火炎山主稜は東側苗栗県三義郷西湖村と西側同県苑裡鎮南勢里の境界を形成しているが、香茅古道出入口は南勢里の郷道46号線上、社ュ坑と云う小さな集落脇にある。この郷道に入り込むのに苦労した。ここに掲載した写真はその古道出入口附近の景観と古道の風貌である。
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2020年05月09日

火炎山古道−6

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【写真説明】雨が降り出したこともあり、前回掲載した写真に写る、火炎山頂上から続く小山を乗り越す登山道に入るのは止めにして、頂上下広場から直接下山する南鞍古道を辿った。軈て、この古道は、前述の別な登山道と合流するのだが、その合流地点に二つの古道名を明記した標示板が立っていた(左写真)。この標示板が火炎山中の登山道の一部が古道であるとの唯一の証左と云うことになる。中央・右写真は合流地点から下山口迄続く登山道=古道の景観。油桐の開花時期は嘸かし豪華な回廊になろうかと思いながら、初めての火炎山登山を終了した。(続く)
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2020年05月02日

火炎山古道−5

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【写真説明】大峡谷を過ぎると登山道は僅かに北東側に折れ、火炎山山頂下迄約1.5`強、登山口からだと3`強の距離となる。この間、筆者手元の市販地図『台灣全覧』に依ると、西側からの一本の古道、「香茅古道」が火炎山登山道と合流することになっているが、三叉路を特定出来ず。頂上下は気持ちの良い広場(左写真)になっており、ここから東側に下り登山口に迂回する別の登山道が付いており、「南鞍古道」と称されているようだ。広場か頂上迄は5分程、地籍三等三角点が埋定され、東側の眺望が効く(右写真)。頂上から更に同写真に写る小山越しに登山道は続いているのだが、これは「北鞍古道」の一部か?或いは、南鞍古道と北鞍古道間の連絡道なのか?判然としない。隔月誌『台灣山岳』ではこれら二本の古道は火炎山主稜を横断する越嶺道の扱いになっているが、市販地図『台灣全覧』では、東側のみの扱いだ。(続く)
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2020年04月25日

火炎山古道−4

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【写真説明】左・中央写真は、登山道途中の竹を利用したベンチと階段、礫岩の風景に馴染んだオブジェだと思う。右写真は、大峡谷(グランドキャニオン)、即ち、悪地地形の最高点へ至る最後の登り。今回も前回に引続き悪地地形のハイライト部分を大判写真で紹介する。「景観-10」が最高点からの俯瞰。丁度一週間前の04/17にその地点から登山者一人が撮影中に落下、死亡事故が発生した。
■火炎山悪地地形景観-6
■火炎山悪地地形景観-7
■火炎山悪地地形景観-8
■火炎山悪地地形景観-9
■火炎山悪地地形景観-10
(続く)
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2020年04月18日

火炎山古道−3

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【写真説明】火炎山南稜の登山道は悪地地形の核心部である、通称「大峡谷」(グランドキャニオン)の東側沿いに開削されており、当初はこの悪地地形西側を東側から望むことになる。望むと云うより覗き込むと云う表現がぴったりである。その悪地地形に遭遇するのは登山道口から凡そ500b過ぎの地点(左・中央写真)からである。その後は、煉瓦色のモザイクと紛う悪地地形を高度と角度を変えながら文字通り堪能することになる。右写真は悪地地形を構成する典型的な礫岩の例である。登山口からの距離が500bから2,000bに沿った範囲が火炎山悪地地形の核心部となる。今回は先ず1,500b附近迄の悪地地形景観を多少大判の写真で紹介する:
火炎山悪地地形景観-1
火炎山悪地地形景観-2
火炎山悪地地形景観-3
火炎山悪地地形景観-4
火炎山悪地地形景観-5
(続く)
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2020年04月11日

火炎山古道−2

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【写真説明】先ずは火炎山の核心たる悪地地形では無く、緑豊かな南稜の登山道風景(中央写真)を紹介する。登山道沿いに露出する卵石(右写真)は、これまで紹介した苗栗県の古道上に典型的に観られるものである。火炎山を構成する地層、岩石についての解説は台湾ネット上に幾らでもあるが、筆者は地質マニアでも無いので全く手に負えない。従って、この投稿記事ではウィキペディア中国語版の「台湾地層」等から引っ張り出した以下の短い説明で勘弁して欲しい―火炎山は南北29`、東西14`に及ぶ苗栗丘陵の最高地点である。同山を形成する地層は頭嵙山層に属し上部層は礫岩主体で、砂岩層に挟まれ、下部層は砂岩主体である。上部層の露出した礫岩が最大の特徴である。当該地層は更新世期に二段階に渡り形成さた。厚みは400b〜3`。頭嵙山層は北は台北から南は恒春半島まで広く分布する。尚、頭嵙山は台中市にある標高859bの台湾小百岳の一座。尚、左写真は登山道口から十分も歩かぬ内に遭遇する南火炎山三角点、標高250b、正式には台湾総督府土地調査局が埋定した図根点(四等三角点)、点名は「伯公坑山」と思われる。既に百年を超えた古蹟である。(続く)
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2020年04月04日

火炎山古道−1

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【写真説明】火炎山への登山口は数箇所あると思うが、国道1号線高架下に位置する最南端の登山口が最もポピュラーである。通常はここから直ぐに火炎山南稜に取り付き、頂上に至った後は、南鞍古道、又は北鞍古道を利用し下山、往路は一切辿らず同じ登山口に戻って来る所謂O線登山が一般的だ。往復6`強、山行時間は3時間が標準らしいが、筆者は少なくとも5時間近く掛けたはずだ。登山客専用駐車場(有料)脇から直ぐに登山道に導かれいきなり南稜に取り付けるので筆者は非常に気に入っている。
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2020年03月28日

能高越嶺古道−35:松原駐在所−2:「深堀山西南」水準点

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【写真説明】松原駐在所を過ぎ古道約10.5`地点に至ると、天池山荘の物と同じデザインの石柱が古道脇に頭を覗かせている。実はこちらの方は2017年10月に能高山を目指した時に目撃、写真に収めていたのだが、当時はそれが水準点と云う知見が無く、但し、以前八通関古道東段で目撃したことのある石柱と同じデザインであることには気付いていた。八通関古道東段起点から蕨駐在所間の通称「瓦拉米(蕨の日本語漢音訳)歩道」間に四基の水準点標石が残っているのはハイカーには良く知られており、筆者も最低二基は確認している。「総督府遞信部」の刻字があるので、地籍水準点でもなく陸測水準点でもないのだが、その時点では、八通関越嶺警備道に通信用電線が張り巡らされていた証拠だと勝手に思い込んでいた。実際は水準測量用標石であり、陸測水準点標石と同じく標石頭部に半円球の突起がある。
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2020年03月21日

能高越嶺古道−34:松原駐在所−1

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【写真説明】能高越嶺古道西段起点から天池山荘迄の間に設置された駐在所はトンバラ(現代台湾表記は「屯原」)、尾上(現雲海保線所)、能高(現天池山荘)の三箇所であるが、霧社事件後、トンバラ−尾上間に富士見、尾上−能高間に松原の各駐在所が増設された。この内、本ブログで未紹介の駐在所跡はトンバラと松原の二駐在所であるが、トンバラ駐在所跡は古道出入口から相当離れた場所にある模様で、ここでは2017年10月に踏査した松原駐在所跡を紹介する。古道約7.5`地点、古道沿線の日本時代遺物としては明瞭な、炭焼窯跡(古道8`地点)が天池山荘側に歩けば往き当たる、目立って平坦な場所なので判り易い。丁度塩梅良く林務局に依る鳥類解説板が立っている(左写真)。(続く)
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2020年03月14日

能高越嶺古道−33:能高駐在所−2:「能高」水準点

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【写真説明】天池山荘のトイレの傍に頭を覗かせている、大日本帝国参謀本部陸地測量部(略称陸測、現在の国土交通省国土地理院の前身)埋定の一等水準点標石。2019年10月以前は全く目に留まらなかったのが不思議である。尤もその時ですら、これが日本時代の遺物であることは即座に判断出来ても、何故元駐在所前に水準点が存在するのか?無知な状態だった。それで当時撮影したのは、今回掲載の1枚のみと云う杜撰さに相成った。今回の投稿に抜粋した記事を書き起こすに至り、サイトを渉猟し漸く日本時代の台湾に於ける測量事情の全体像が判って来た。現時点で台湾に現存する日本時代埋定の水準点一覧は、本ブログ左側メインメニュー「台湾現存水準点一覧」からファイルをダウンロードして欲しい。
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2020年03月07日

能高越嶺古道−32:能高駐在所−1

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【写真説明】天池山荘の前身が日本時代の能高駐在所であることは、このブログ並びに弊別ブログ「台湾百岳」で繰り返し説明した。今現在は天池山荘の由来を説明した林務局の案内板が山荘敷地内に二種立っているので、ハイカーの誰もがその歴史を認識出来るようになっている。筆者自身は当時の同駐在所の名残りは、同山荘の西側出入口(屯原側)脇に残る弾薬庫だけと認識していた。2019年10月の能高山登山の際に、弾薬庫に加え、更に二件の遺物を「発見」した。発見を括弧付きにしたのは、最近になり新たに出現したのでは無く、元々現地に有ったのだが、迂闊にもこれまで気付かなかっただけなのだが。この古写真にあるように、当時の造りは壮大である。所謂総檜造り、檜御殿である。昭和5年(1930年)に勃発した霧社事件で焼け落ち、翌年新装された写真と思われる。現在の天池山荘はその敷地をそのまま引継いでいる。その敷地を前後左右で囲っていた石垣の相当部分がそのまま残っているのに気付いた。左・中央写真は山荘正面広場を支える石塁、右写真は山荘裏側を撮影。ところで、当時は、敷地内に神社が設けられていたと云う記事を何処かで読んだことがあり、筆者のブログの中でもそれを能高神社と説明した記憶があるが、台湾サイト上でその証拠は探し当てられずにいる。譬え嘗て当地に神社があったにせよ、能高神社の呼称は誤りである。と謂うのは、能高神社は別に存在し、在処は、埔里市街地、現在の台湾地理中心、虎子山頂上が元々の建立の地である。(続く)
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2020年02月29日

能高越嶺古道−31:古道東西分岐点−2

【写真説明】前回記事で、能高越嶺古道東西分岐点が草深く東段の行方が見渡せず拍子抜けしたと記した。これは拍子抜けした記憶のみが強く残っていたからだと、その後当時撮影した写真を眺めながら気付いた。分岐点を能高山登山道の方に切れ上がると、南華山と能高山の稜線が狭い台地上に盛り上がっている部分に出る。此処迄辿ると、太平洋岸迄広がる古道東段を抱合する山と谷が連続する勇壮な俯瞰となる。それがこのパノラマ写真である。前回の投稿を起こす際にこの写真を撮影したことはすっかり忘れていた。能高越嶺古道の国家歩道に指定され林務局が管理している総延長は26.5`、西段延長は15.5`、高度差約800b、東段延長は11`、高度差約1,300b、これに加え、国家歩道登山口から更に車乗り入れ可能地点である宿泊施設のある奇莱保線所まで台電道路を歩く必要がある、その距離約5`、高度差約200b。斯様な塩梅なので、古道全段を踏破したい場合、西段から入り東段に抜けるのが普通である。更に、東段踏破の面倒な所は、一般自動車道省道9号丙線終点の銅門から旧省道14号線を経て台湾電力道路(奇莱路)を奇莱保線所迄辿る約14`間は車乗り入れ可能とは云え、必ず車をチャーターする必要あり、その費用5,500台湾ドル!(終り)
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2020年02月22日

能高越嶺古道−30:古道東西分岐点

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【写真説明】筆者が能高越嶺古道分岐点として長らく勘違いしていた、南華山−能高山稜線と天池山荘から続く古道西段との出会い附近のパノラマ写真。同稜線南側の俯瞰で同写真中央に蒋介石筆に成る「光被八表」記念碑が写る。同写真中央が卡賀爾山、能高山頂上は僅かに右側に覗く、左側山塊は能高山南峰。この出会い、三叉路は能高[土|亜]口と呼ばれ、標高は約2,800bあるが、古道東西分岐点では無い。ここに掲載した三枚の写真は、古道東西分岐点の2019年10月時の状況。古道東西段と能高山登山道との三叉路に為る。同地での写真はこれら三枚しか撮影していない。能高山登山の復路時に再度撮影すれば良いと簡単に考えていたが、実際は、陽は完全に没し真っ暗闇、この分岐点迄戻って来たことすら判らなかった。
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2020年02月15日

特富野古道−10:達那社−4

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【写真説明】達邦国民小学校正門横には、日本時代、「タッパン駐在所」と呼ばれていたはずの警察官舎が復元されている(左・中央写真)。「日警官舎」(Japanese Polis Official House)と題された案内板には次のような簡便な説明が施されている(筆者拙訳):「日本統治時代、ツォウ族をオンサイトで管理し易く、抗日事件発生を防止する為に、この地に官舎を建造し日本人警官の宿舎を供し、統治権力を強化した。」。右写真は、日本時代のタッパン蕃童教育所(1904年、明治37年創立)の面影を残す達那国小の正門階段。既に創立百年を優に越した由緒正しき小学校である。(終り)
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2020年02月08日

特富野古道−9達那社−3

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【写真説明】ツォウ族の戦祭「マヤスビ」は極めて著名である。本投稿本文中で詳細を解説しておいた。毎年ツォウ族二大大社であるトフヤ社と達邦社で各々挙行される。筆者が尋ねた折は丁度達邦社の戦祭の前日、2月14日だった。トフヤ社の戦祭も同時期に挙行(一週間違いとか)されるはずだが、当時トフヤ社の戦祭に関わる何物にも遭遇しなかったはずだ。例に依り筆者の記憶が跳んでいるのかもしれない。左写真は達邦社のクバ近くの住居壁に貼られた戦祭案内幕、毎年更新されるのかどうか?は判らないが、ビビッドな色使いが戦祭の性格を表している。中央写真はクバ正面前に設けられた戦祭観覧席である。右写真は達邦社のクバの軒に掛けられた伝統道具なのだが、「敵部族の頭骨を保管する籠」では無さそうだ。
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2020年02月01日

特富野古道−8:達那社−2

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【写真説明】当時、トフヤ社と達邦社を同時に尋ね、その差が歴然としていたのは、以下の三点である:一つは達那社のクバの規模がトフヤ社のそれと比べ格段に大きいと感じた事、二つ目は偶々達那社の「戦祭」の前日であった事、三つ目は達邦社には日本時代の駐在所が復元されていた事である。それら各々を三回の投稿に分けて紹介したいと思う。まずは、達那社のクバ、三景。「特富野古道−6」に掲載したクバの構築案内だけでは、左・中央写真の撮影方角が判らない。只言えることは、左写真がクバ正面に向かい左側、中央写真が右側であることだ。何故この二枚の写真で正面、並びにその左右が判るかと云うと、右写真である。クバ構築案内中の「金草蘭」の達那社式鉢植えはクバ正面の左右に置かれるのだ。実はこの左写真を撮影した記憶が無い。実際はカメラを縦にして、左右の鉢植えを同時に写し込んでいることから、その前にトフヤ社のクバの案内板を読んでいたか?(通常筆者の性格からそれは有り得ないのだが)。いづれにしても不思議な一枚である。(続く)
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2020年01月25日

特富野古道−7:達那社−1

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【写真説明】現在のトフヤ社と達邦社とは曽文渓の支流であるイスチアナ(伊斯基安娜)渓で区切られるように位置している。北東側にトフヤ社、南西に達邦社と云う配置になる。この間は無論自動車道もあるが、特富野歩道の一部として達邦吊橋がイスチアナ渓越しに渡してある。同地に日本時代鉄線橋が渡されていたかどうか?は判らないが、筆者が当時撮影した写真の中に、鉄線橋橋柱らしきものがある。但し、全く記憶から抜け落ちているので今回投稿で掲載することは止めにした。左写真は、達那吊橋越しにトフヤ社側から達邦社方面の眺望。中央写真は、達邦社入口に立つ「鄒族生活寫照」と題されたツォウ族塑像。右写真は同じく達那社入口に立つ標示板。(続く)
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2020年01月18日

特富野古道−6:トフヤ社−2

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【写真説明】上掲三枚の写真はトフヤ社の「男子会所」(男子集会所)、即ち「クバ」(庫巴)である。ツォウ族の伝統を象徴する場であり建築物なのだが、当時筆者自身そのような知識を仕込んでいたかどうか?下掲写真は、この場が厳格な女人禁制であることを警告したもの。以下の文章(拙訳)を認めた「敬告」が傍に貼られていた:「本男子聚会所はツォウ族の神聖な場であり、内部には多くの禁忌物があり、不測の事態発生を避ける為、トフヤ社の男子以外は立入り禁止区域である。」女人禁制とストレートに書かないのが現代のマナーであるらしい。不測の事態とは神の祟りを意味している。
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2020年01月11日

特富野古道−5:トフヤ社−1

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【写真説明】左写真は阿里山郷達那村特富野社入口に立つ標示板。中央写真は特富野社全景、同写真後方の山々は阿里山方面だと思う。右写真は、同社内を巡る「特富野歩道」の案内板。前回投稿で記したように2013年2月に尋ねた際の目的は、特富野古道の西側起点を探し当てるのが目的、この特富野歩道こそが特富野古道の前哨路のはずだと隈なく歩いたのだが手掛り無し。特富野歩道は文字通り、生態散策歩道でしか無かった。(続く)
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2020年01月04日

特富野古道−4

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【写真説明】今回掲載の三枚はすべて、古道西側起点、特富野側古道出入口附近。2009年7月のこの古道の初回探訪時に、古道全長を歩き通している。詰り、東西起点を往復しているのである。旧水上支線軌道と別れてからこの西側起点までの間、撮影した枚数はゼロ、僅かにここに掲載した古道起点の三枚が残っているのみ。余程時間に追われていたのだ。写真のデータを見ると復路に4時間近くを掛けている。十年前、五十の坂を超えたばかりの頃は、まだまだ相当な体力があった証左だ。今はそんな無謀な真似は出来ない。しかも西側起点まで確かに至ったと云う記憶が完全に抜け落ちている。この為、約四年後の2013年2月に、初めて特富野部落を尋ねたのだが、その時の第一の目的は、この特富野古道西側起点を確認することだった。(続く)
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2019年12月28日

特富野古道−3

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【写真説明】左・中央写真は古道上沿線に残る伐採した後の巨大なベニヒの切り株。古道上に設えられた案内板(本稿で二基を紹介)の説明を読むと、日本人が阿里山のヒノキを根こそぎ切り倒してしまったと糾弾されるような気分になるのだが、実際は戦後も阿里山の林業は継続されたのだ。右写真は、古道が旧水山線軌道、即ち平坦部と別れ、特富野方面への下りに掛かる部分である。
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2019年12月21日

特富野古道−2

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【写真説明】特富野古道の東側起点から平坦部約4`弱の部分の主役は、阿里山森林鉄道旧水山支線の軌道である。この軌道がどう云う状況で残存し古道に変じているか?が判り易い三枚を掲載した。左写真は柳杉の植林を縫う旧軌道。中央写真は架橋部の軌道を外し板を渡し歩道に仕立てたもの。右写真は架橋部を側面から撮影した。
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