2021年07月24日

蘭嶼−20:大森山−3

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【写真説明】ネット上には最近の山行記録が公開されていたので、組し易しと思い込んでいた。現地ガイドには当初再登となる紅頭山への登山をサポートして貰おうと考えていたが、大森山登山を相談すると彼自身登ったことが無いとの事。その後直ぐに彼は先ず自分で登攀を試み、往復6時間を要したと報告して来た。山頂稜線に出る前の登山道傾斜は殆ど90度だったと云うコメントを添えて。自力での登山も可能と考えていたが、最終的には大森山登山のサポートを依頼した第一の理由は、ヤミ族の禁忌地域に踏み込まないように用心した為である。結局登山道上にはそういう場所が無かったようだったが、現地ガイドを雇ったのは正解だった。登山の前日に簡単な打合せに来てくれたが、ほんの数日前に再登し登り1時間半程度だったと云うのを聞き胸をなでおろした。そして3時間あれば往復可能と踏んでいた。しかし実際はとんでも無い登山と相成った。登山口と山頂の落差は僅かに450b、登山道総延長は片道2.5`程度なのだが、最終的には往復6時間を要した。逆に下りに時間を費やす結果になったのは、標高150〜450b間の連続する急登、特に標高200〜250bと同400〜450bの二箇所が酷く、中でも後者はほぼ垂直の低木と茅の壁を這い上がる羽目となった。今回は山頂稜線まで最後の50bの登りの景観、左写真は青青草原俯瞰、中央写真は下方から、右写真は上方から撮影した最後の登り。筆者自身の登攀の様子も埋め込んでおいた。(続く)
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2021年07月17日

蘭嶼−19:大森山−2

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【写真説明】今回は登山口から半時間も歩かない内、まだ生態園区内で出会った巨木群を三枚並べた。尤も樹木の大きさを写真で表現するのは難しく筆者の技術では無理がある。精一杯努力している積りではいるとしか言い様が無い。又、生態園区を越えて山頂稜線に至る迄の急斜面で出会った樹木も三枚、この記事の最後に埋め込んだ。台湾テリトリー内の真の熱帯雨林を感じて欲しいと云う希望を込めているが。我々を大森山山頂まで引率してくれたガイドに依ると、左写真のこの地上根が大きく張り出した巨木は「台東番龍眼(樹)」、ウィキペディアを日本語に切り替えたら「マトア」、又は「タウン」と云うカタカナがでてきた。台湾観光の世界で三大果物はライチ(茘枝)、マンゴー(芒果)、龍眼と謂われるが、番龍眼も龍眼も同じムクロジ(無患子・木槵子)科である。「番」は恐らく「原」の意であると想像されるので山龍眼と言い換えられるかもしれない。フィリピン原産らしい。ウィキペディアに「別名ソロモンマホガニー。分類学的には高級木材として知られるマホガニー(センダン科)とは全く異なるが、比較的安価なこと、加工性に優れ腐食や磨耗に強いことや、木目や色調が似ていることなどより、マホガニーの代替材として住宅や家具に用いられる。」と云う部分がポイントである。
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2021年07月10日

蘭嶼−18:大森山−1

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【写真説明】左写真は蘭嶼の周回道路である環島公路を挟み青青草原の向い側に口を開けた大森山登山口への入口。同写真右側に木製の標示板が一部写り込んでいるが、「紅頭森林遊歩生態学園区」と記されている。この生態学園区入口が即ち大森山登山口なのだが、筆者の手元の市販地図には学園区の表記は無い。木製標示板は学園区名以外にも文字が記載されているが、長らく雨風に晒された為判読不能な箇所が多い。判読可能な部分には以下のような紹介が並ぶ(筆者拙訳):「現地の俗名は三條溝で三角山区に属する」;「重要な原生植物生長区」;「ヤミ族伝統の拼板舟専用樹種」;「蘭嶼島上、非常に貴重な生態保護園区」。これらの意味する所は追々説明する予定だ。大森山登山口イコール生態園区入口は左写真入口から僅かに辿った車道に掛かる忠愛橋袂にあり、そこから河床へ降りる部分が中央写真である。右写真はまだ生態園区内、登山道脇にある嘗ては屋根を頂いていたであろう東屋跡、行き当たった時咄嗟にヤミ族の祭場かと考えたのだが暫く眺めていて否定した。そこを過ぎると愈々熱帯雨林の世界となった。(続く)
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2021年07月03日

蘭嶼−17

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【写真説明】去る5月、2011年8月、2013年6月に続く、三回目の蘭嶼への上陸を果たした。初めて蘭嶼の地を踏んだ時には毎年行こう!と目標を定めたが叶わず、今頃になりやっと三回目になった。同島への渡航が日程的に制限されるのは、船便利用を前提にしての事である。一般的に4月初旬の清明節(中華圏のお盆と云う説明を聞く機会が多い)から9月の中秋節(十五夜)の間と謂れ、この期間を外してしまうと航空便しかないと云うことだ。毎回、目標とするものは異なる。最初は殆ど予備知識を纏わず渡航、どういう所なのか?先ずは初体験を楽しむこと。それに加え、本物の飛魚の飛翔を見ることにあった。度肝を抜かれたのは、持ち主は決まっているらしいが、野生化しているとしか思えないヤギの群れだった。離島する際、必ず登山対象になっている山があるはずだと踏み、次回の上陸の目標とした。二回目は目標通り、蘭嶼最高峰の紅頭山に登った。この山を選んだのは、最高点にして台湾小百岳の一座だったからだ。離島する際、次回はもっと登ろうと思った。三回目の上陸前の調査でこの周囲40`程度の島に20基の三角点があることが判り驚いた。最終的には、紅頭山への再登と大森山への登山をメインにして余った時間で出来る限り多くの三角点を確認することにした。大森山を選んだのは、紅頭山と同じく一等三角点が埋定されているからだ。この事実は、三回目の渡航前になり気付いたことだ。実は、見事な三角円錐形をした大森山の優美な山容は、既にこのカテゴリーの「蘭嶼−6 」と「&9」で、各々野銀(イワギヌ)部落からと蘭嶼測候所からの眺望を紹介済みだ。今回はこれら二回目の上陸の際同じく測候所からの大森山眺望を掲載した。この空の青さは正に墓場まで持っていきたいものだ。残念ながら三回目の蘭嶼滞在中に大森山山頂付近に雲の掛かっていない時間帯に当たらなかった。大森山西側になる青青草原越しの大森山パノラマも埋め込んでおいた。又、今回は大森山三角点に加え、蘭嶼南北端各々の三角点を紹介したい。(続く)

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2021年06月26日

清代八通関古道(中路)−9

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【写真説明】玉里神社は台湾内の神社遺構としては規模が大きく地方政府が保存・啓蒙に積極的に努めている好例だと思う。筆者自身は過去複数回訪れたことがあるので、今回卓渓山から下山した後殊更再訪してみようと云う気は強く無かった。何よりもこれまでの知見で清代、日本時代双方の八通関古道との関り合いは無いと見做していたからだ。ところが新ためて第一鳥居附近に立てられている案内板を読んでいたら、日本時代八通関古道と玉里神社、その第一鳥居の脇に控える「表忠碑」は繋がるのである。「表忠碑」、「玉里神社遺址」、序でに再訪した玉山国家公園南安ビジターセンターに安置してある「八通關越警備道路開鑿記念碑」(前出は「八通関古道−10」)の順にその各々の現場紹介文を以下訳出する。更に玉泉寺の創建は八通関越警備道路より後になるので、同道路沿いに鎮座していた可能性が高い。訳出した紹介文中の[ ]内は筆者註である:
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2021年06月19日

清代八通関古道(中路)−8

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【写真説明】協天宮と八通関古道との関係は「安通越嶺古道−2」でかなりのスペースを割いて紹介したが、実際協天宮を清代八通関古道の東側起点とするのが正しいかどうかは未だ判らない。但し、清代八通関古道、即ち明治7年(1874年)の牡丹社事件(征台の役、台湾事件、台湾出兵等々)以降清朝に依り開鑿された三本の台湾東西横断道の中の「中路」(「北路」=蘇花古道、「南路」=崑崙拗古道)の開鑿事実を証明する「後山保障」の扁額は国宝級である。今回訪問した際は協天宮の内外を各々一枚撮影してきたが生憎の雨天、外観は普通の廟堂なだけにくすんだ写真になり残念、思わず頭(こうべ)が垂れる、長さ240a、幅75a、厚み3aの「後山保障」扁額の写真は新たに撮り直したものである。本堂内に中・英・日文で書かれた花蓮県文化局に依る新しい案内板があったので、日本文紹介をそのままここに掲載する:

玉里協天宮の後山保障扁額は木製の扁額で、黒漆の地に金漆で、中央に楷書体で「後山保障」の四字、右に「光緒七年辛巳孟冬吉立」、左には「欽加總鎮銜總帶飛虎左營兼理中路招撫墾務福建即補協鎮府提督呉敬奉納」と彫られ、額縁には金龍の浮彫が施されています。清代・光緒元年(1875)、総兵呉光亮が飛虎将軍を率いて東西山道の工事を行い、璞石閣(現・玉里)に到達し、今の協天宮の所在地に駐留した時、関聖帝君(関羽)の分霊を携えてきた人がいたと伝えられています。光緒7年、後山(旧時の花蓮の別名)に疫病が起こります。呉光亮は関聖帝君に加護を願い、陣地に草葺きの廟を建て、像を作って祀り、「後山保障」の扁額を手書きにしたのが、協天宮の始まりといわれます。後の研究と扁額にある職名から、寄進者は弟の呉光忠であることが分かっています。「後山保障」の扁額は、今では協天宮の宝になっています。清朝末期の国家勢力が東台湾に入った歴史の証拠として、史的意義をもちます。(続く)
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2021年06月12日

清代八通関古道(中路)−7

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【写真説明】前回の投稿に掲載したダイヤグラムの清代古道路線は筆者手元の25,000分の一市販地図からの引き写しである。玉里市街地に入る前に玉泉寺(上掲左写真)後方に設けられた遊歩道を横切り、台北栄民総合病院玉里分院の正門に入った所で古道表示が終わっている。そこから玉里市街地内の協天宮までは筆者が任意に線を引き、清代八通關古道(中路)の東側起点とした。玉泉寺は昭和5年(1930年)の創建、明代末期に中国から台湾に渡って来た在家仏教の一つ斎教(さいきょう)の一派の斎堂(或るいは菜堂:日本語風に言えば道場、講堂に相当)が始まりとの由、玉里市街地区では協天宮と並ぶ由緒正しき廟堂である。
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2021年06月05日

清代八通関古道(中路)−6

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【写真説明】卓渓山頂上から清代古道は玉里の市街地へ北東の尾根伝いに下りて往く。今も熱血漢が辿っているような踏み跡があるのだが、筆者は駐車地点に戻るべく、古道が開鑿された尾根から北側に降りた。今回の踏査行で辿った古道部は僅かに2`程度に過ぎない。今後少なくとも卓渓山頂上から玉里市街地までの全段(ダイヤグラム参照)を踏査する機会はないだろう。左写真は筆者が今回踏査した古道の最期の段。中央写真は古道脇で見付けた碍子。日本時代のものかどうか判らないが、だとしたら何故、こういうものが存在するのか?興味は尽きない。右写真は古道と筆者が駐車地点に戻る為に辿った登山道との分岐地点。古道は同写真右側へ逸れて往く。(続く)
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2021年05月29日

清代八通関古道(中路)−5

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【写真説明】林務局所有と思われる老朽した頂上に立つ二階建ての小屋に関し、筆者が過去明確に看たことがあると記憶しているのは、西巒大山の同じく頂上に立つものである。卓渓山の小屋の脇には陸測二等三角点が埋定されているので本来見晴らしは良いはずである。これを単純に作業小屋兼宿泊所と呼んでもいいのかもしれないが、二階建てになっている意味をよくよく考えてみると、火の見櫓(ひのみやぐら)だと思う。但し、この小屋が建てられたのが日本時代かどうかは判らない。(続く)
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2021年05月22日

清代八通関古道(中路)−4

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【写真説明】清代古道の出会い三叉路から卓渓山頂上までの登山道も正真正銘の清代開鑿の古道のはずである。その間の標高差は約130b、半時間程度の歩き、左・中央写真がその間の古道景観である。やがて、嘗ては農園であったことを思わせる茅の藪に行き当たり二階建ての小屋が現れる。小屋は卓渓山頂上に建てられている。(続く)
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2021年05月15日

清代八通関古道(中路)−3

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【写真説明】清代八通関古道は古道自体が国定古蹟の筈だ。それで古道、即ち卓渓山と玉里山を結ぶ稜線上に出る間際はわくわくしたのだが、そこで見た物は左写真の三叉路を暗示した冴えないサインと踏み跡の乏しい山道だった。国定古蹟を示す標示板なぞを期待していたのが間違いだった。中央写真は三叉路に残っていた焚火趾、地元のブヌン族が狩猟途中で利用したものだと思われる。右写真は玉里山方面へ延びる清代古道。(続く)
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2021年05月08日

清代八通関古道(中路)−2

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【写真説明】卓渓山と玉里山を結ぶ稜線、詰り清代八通関古道の出会いまでは、コーヒー栽培農家(左写真)の貯水タンクから入り込んで行く(中央写真)のだが、何の標示板も無く布条(目印)が下がっているだけだ。この登山口の標高が830b、古道出会いが同1,000b、この間を1時間弱掛けて登った。右写真は古道出会い間近。(続く)
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2021年05月01日

清代八通関古道(中路)−1

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【写真説明】左写真は花蓮県玉里鎮と同卓渓郷の境界を形成する卓渓に掛かる卓渓一号橋の玉里鎮側に立っていた、2019年度卓渓郷合同クリスマスパーティーの案内板。卓渓郷は6村15部落から成る広大な行政区画で、主要居住民は巒社群ブヌン族である。その橋を渡ると車道(花蓮郷道70号線)は卓渓郷の行政中心である卓渓村(日本時代はバネタ社、台湾漢字標記では、馬根太、巴内大等)に属する卓渓郷公所(役場)に繋がる。中央写真は渡橋後直ぐのカーブ脇に設営されている広場で見掛けたブヌン族をテーマにしたオブジェ。同写真奥に写るブヌン族集合像は著名な「八部合音」(八部和音唱法)を表したものだと思う。右写真は同地点から登山目標である北東方向の山稜を望んだもの。二つの山峰の右側が玉里山(標高2,157b)方面、左側が卓渓山(同1,129b)、これら二座の山を繋ぐ稜線上に清代八通関古道(中路)が開鑿された。結局、雨の為、玉里山登山は諦め、卓渓山への登山のみに終わった。しかもこの山行当日も含めその前後で雨は止まず、その間、解像度の低い防水カメラに頼ったのでこのカテゴリーで掲載する写真の写り具合は貧しい。右写真の撮影地点とほぼ同一地点のグーグル・マップに依るスクリーンショットでは玉里山頂上まで取り込まれている。
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2021年04月24日

壽山古道−24:大公陸橋

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【写真説明】古道ブログらしくこのカテゴリーの最期は「古道」で〆よう。

高雄捷運環状軽軌(略称「高雄軽軌」)は、日本語では「高雄ライトレール」と呼ばれる高雄市街地に新しく導入された路面電車である。2015年に開業したが、環状線としては未完成だ。通常の交通手段と言うより高雄市観光の目玉の一つと説明した方が良さそうである。前身は台湾鉄道高雄臨港線、日本時代は高雄港への引込み線、通称「濱線」である。嘗ては高雄市街地で最も栄えた哈瑪星(台湾語読みで「はません」)地区の再開発の梃入れとして高雄ライトレールを現在開業させている。筆者はレール・ファンではないので開業以来全く興味が湧かず乗らず仕舞いだったが、前回紹介した田町斎場跡の写真撮りに利用しようと思い立ち乗ってみた。ところが、今現在開業している区間が鼓山区役所駅までで、田町斎場までは未だかなりの距離がある。それで予てはバイク・自転車で往復している同通りをもう一つ手前の駅までテクテク歩いてみた、何か新しい物は発見出来ないだろうか?と期待して。鼓山路が大公路と交わる部分は西側はフラットであるが、東側は深く沈んでいると云う変則的な公差点になっている(左写真)。この公差点北側に高雄ライトレール文武聖殿駅が設えてある。ここまで歩いて引き返したら、交差点南脇に色が落ちてしまった金属の案内板(中央写真)が立っているのを発見した。その内容は筆者にとっては十分に目から鱗物であった。交差点の片方が深く沈んでいるのはそこにフラットな陸橋が架けられていたからだ。目的は、鉄道を跨がせる為だ。その陸橋は昭和11年(1934年)に開通、当時高雄市で最初の陸橋、加えて高雄市で最初の鉄筋コンクリート製の橋梁であったと説明されている。当時から陸橋を支えていたサンゴ石に依る土台が一部残存している(右写真)。ウィキペディア中文版ではこの高雄市一番が台湾一番との記述になっている。そして陸橋撤去が2012年。待てよ、筆者が台湾に起居し始めたのは2000年である。爾来この場所は数限りなく通過しているのに、この陸橋の記憶が無い!日常とはそういうものか?いずれにしても、新種の台湾古道である。(終り)
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2021年04月17日

壽山古道−23:田町斎場

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【写真説明】鼓山路は嘗て高雄市街地で最も賑わった、当時の寿町、湊町、新浜町から為る、今に謂う哈瑪星(台湾語読みで「はません」)地区を貫き、壽山東側山裾を北上、その西側(壽山側)に山下町、東側に堀江町、北野町、更に田町に相当する地区を遡る。既に紹介済みの浅野セメントは田町三丁目にあった。ここら辺りまでが当時の市街地と言えそうだ。従ってと謂うべきか、鼓山路の両側には日本時代の家屋が良く残っている。始終バイク、自転車で往復しているのだが、何時も何かしら新しい発見がある。旧浅野セメントの僅かに南側の鼓山路沿い東側に以前から気に掛かっていた、殆ど倒壊寸前の大振りの日本時代の家屋がある。その建築様式は独特のもので何に利用されていたか想像出来ずにいた。鉄板の塀で囲まれ中には入れないようになっているので、その内修復作業でも始まるのかと思っていた。文化部文化資産局のサイトに入っていたら偶々この家屋らしきものが登録されているのを見付けた。「斎場」と記載されている。昭和8年(1933年)竣工の高雄市指定の歴史建築だ。登録は2017年である。修復される前にボロボロの状態を撮影しようと思い立ち先日出掛けた。鉄板の塀に「田町斎場」と明記された紙が貼り付けてあった。鉄塀の隙間から中を覗くと修復に用いる煉瓦が運び込まれているのが確認出来る。斎場とはこの場合、葬儀場である。昭和12年の高雄市都市計画図を見ると「葬儀堂」の記載になっている。台湾では斎場とは言わず、殯儀舘が一般的である。戦後は永らく市場(いちば)として利用されて来たとウィキペディア中文版に解説があり、これはG博士の記憶と一致している。又、同解説の中に、台湾唯一の日本時代の葬儀場の遺構ともある。歴史建築指定から四年で修復工事に取り掛かれるのは速いと思う。前回紹介した「逍遥園」の場合は10年掛かっているのだが、土地・家屋の買収交渉に費やされているのだろうか?因みに、これも先に紹介した打狗水道量水器室遺構、古蹟指定は2004年、保護が加えられないまま15年以上が経過していることになる。(続く)
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2021年04月10日

壽山古道−22:打狗本願寺布教所

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【写真説明】旧本願寺布教所も旧金光教教会所と同じく壽山東側山裾、鼓山路から少しだけ入り込んだ場所に建設されている。場所は紹介済みの打狗水道量水器室遺構のある通りを二百b程北側に辿った地点である(左写真最奥のクリーム色のビル)。本願寺布教所の創建は明治39年(1906年)、往時の布教所施設の遺構は残留していない模様だが、当時の写真に写り込んだ布教所前の民家、或いは布教所施設の一部かもしれない家屋が現存している(中央写真)。古写真に写るその家屋は瓦が葺かれていないが、今に残るそれは瓦葺だ。驚くべきことに、いまだに居住されている(右写真)。筆者が現場を探し当てた時、その古建築を丸ごと取り込み支えるように囲っている追加された住居の前に老婆が椅子に座り若い男性とお喋りの最中だった。そこに割って入り、老婆に古い家屋の由縁を尋ねてみることはしなかった。日本語が話せるとしたら国語(台湾北京語)が話せる確立は低い。白壁のドアの上には小さな十字架が嵌め込まれていた。筆者自身は本願寺に関する知識はゼロである。日本全国の全ての本願寺が東西どちらかに分れていると勝手に想像していた。高雄の旧本願寺布教所はどちらだろうなどと思いながら、ウィキペディアを覗いてみて仰天し、筆者の細やかな疑問など吹っ飛んだ。宗教施設ではないが、昨年遅くに高雄市街地内にある、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代門主大谷光瑞の台湾別邸「逍遥園」が一般公開された。高雄市の歴史建築に指定されてから10年が経っている。逍遥園の創建は昭和14年(1939年)。武漢肺炎渦中にあるので日本人観光客には未だ露出度が極めて低い新しいアトラクションだ。(続く)
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2021年04月03日

壽山古道−21:金光教打狗教会所

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【写真説明】三件の遺構の紹介を追加して「壽山」シリーズを閉じる積りでいたが、もう少し追加することにした。名山の誉高い壽山山中、その周辺共に土地公、廟堂、寺院が乱立している感がある。これらの多くの前身が日本時代に起源を持つのだろうと漠然と想像しており、その数の多さから逆に興味が削がれていた。が、実は日本時代まで遡れるものは案外少ないようである。旧高雄神社、今は忠烈祠に成り代わっているが、余りにも人口に膾炙しているのでここでの紹介は控える。又、その前身になる金刀比羅(金毘羅)神社跡も殆どの高雄人は知見があるとは思われないが、完全に排斥され今は何も残っていないのでこれも殊更取り上げない。高雄神社、金刀比羅神社以外の日本時代の遺構が残る宗教施設は実は二箇所しかない模様だ。その一つが今回の金光教打狗教会所遺構である。高雄市動物園への登り口は鼓山路沿いに南北二箇所あるが、当該地は南側登り口脇である。普段素通りしながら何かしら古色芬々とさせている場所なので気にはなっていたので、グーグル・マップで位置を特定出来た時はやはりそうかと思ったものだ。明治44年(1911年)創建。左写真はそのまま残る当時の教会所主要施設(本殿と呼ぶべきか?)に至る階段。中央写真はその階段を登り切った地点で今はバトミントン・コートになっている。右写真は左写真の階段に至る手前の民家の門口に無造作に置かれていた宝珠。金光教は黒住教、天理教と並ぶ幕末三大新宗教なので、新興宗教と雖も歴史は古い。(続く)
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2021年03月27日

壽山古道−20:西子湾蒋介石行館

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【写真説明】蒋介石行館、略して蒋公行館は台湾に三十余箇所あるそうだ。蒋介石の別邸、別荘、招待所等に使われた。国立中山大学内に残る蒋公行館は西子湾行館と通称され高雄市指定古蹟だ。文化部文化資産局登録名は本投稿のタイトル通りである。更に現在は「西湾芸廊」として中山大学の管理下にある(左写真)。西子湾ギャラリーとでも訳せようか?様々な文化活動の場を提供しているはずだ。筆者自身は蒋介石並びに、殆ど日本時代の建物・施設を接収し蒋公行館として仕立て直された建築物群に興味があるわけではない。従って、中山大学構内のそれも初めて今月になり出掛けてみた。建物全体を鉄骨スレートが覆い修復工事を待っているのか(中央写真)、閉鎖されていた。中山大学敷地が日本時代、並びに、中山大学キャンパスとして選定された1979年までの間、何に利用されていたのか?少しネットを渉猟してみたが判らず。終戦直前に米軍が作成した地形図で同地を見ても建物群で覆われているが、軍病院(Military Hospital)以外の記載が無いので軍事施設と想像され、四子湾行館も軍司令部等の建屋が前身だったと勝手に想像していた。これは強ち間違った想像とも言えない。大学構内には日本時代の軍事施設遺構が点在しているからである。ところが最近になり、実際は昭和10年(1935年)に挙行された「始政四十周年記念台湾博覧会」の際竣工させた「高雄観光館」が前身であることを知り俄然興味が湧いた。そこでこれも竣工当時から軍事施設と思い込んでいた西子湾隧道(歴史建築指定、文化資産局登録名は「西子湾隧道及其防空設施」)(写真は隧道の中山大学側出入口間近に建設された「堡塁」の案内板が附された大防空壁)を徒歩で潜り中山大学のキャンパスを観光館まで出掛けたわけだ。日本時代、「壽山洞」と呼ばれた全長260bのトンネルは、元々は西子湾海水浴場へのショートカットを目的に壽山記念公園の一部として昭和2年(1928年)に完工した。大東亜戦争の深化に伴い防空施設が追加された。2017年になりこれら日本時代構築の防空施設は軍事遺址として一般開放され観光客を集めている。尚、右写真は西子湾行館正面玄関脇に展示されているPackard製蒋介石のお召車のようだ。(続く)
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2021年03月20日

壽山古道−19:「日軍爐灶」

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【写真説明】左・中央写真は高雄人ハイカーに依り唯一「日軍」を冠せられた壽山山中の軍事施設遺構、厨房跡である。2017年撮影。当時は有志の方に案内して貰ったが、筆者一人では今でも現地まで辿り着けそうに無い。右写真は高雄市軍事遺址シリーズの一つ、壽山山裾の鼓山洞(防空施設)の前に立つ案内板。2019年撮影、当時の高雄市市長をモチーフにした案内板だ。軍事施設遺跡観光なるフレーズで内外の観光客を呼び込もうとの苦心が滲み出ている。

現在でも壽山の三分の二は国軍の管理下にあるので、壽山山中、その周辺には戦前の軍事施設遺構、加えて、建設時は軍事目的では無かったが最終的に軍事施設に改編された遺構は多い。高雄市街地内の一地域である壽山ですらそんな調子なので、旧高雄県まで広げると実に多く、高雄市政府観光局は整備と紹介に努めているが、整備の方が全く追い付かない状態だ。紹介の方は遺構の案内板を「高雄軍事遺址」のタイトルで統一し「高雄市軍事遺址觀光」促進活動を鋭意展開中である。壽山山中にも砲台、トーチカ等無数にあるのだが、国軍のそれらと区別を付けるのは難しい。そんな中で、高雄人に依り壽山山中で唯一「日軍」を冠せられたものが今回紹介した厨房跡である。(続く)
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2021年03月13日

壽山古道−18:「浅野セメント株式会社打狗(高雄)工場)」−2

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【写真説明】文化部文化資産局に「歴史建築」として登録された旧浅野セメント打狗工場内遺構の正式名称は「原淺野水泥台灣工場(紅磚倉庫及石灰窯)」(旧浅野セメント台湾工場、赤レンガ倉庫及び石灰窯)、公告日は2020年3月26日である。今回掲載した写真はその丁度3年前の2017年3月11日に撮影されたもので、前回の投稿で述べたように今は鉄骨スレートで保護されている。この倉庫は日本時代の当地の写真に明瞭に写り込んでおり、前回引用した報告書中の紙袋に詰めたセメントの袋詰め出荷用倉庫だったと思われる。ここから高雄運河を通じ高雄港へと運ばれたのだが、その高雄運河自体は前回モノクロ写真上で示したように今でも残っている。尚、浅野セメントに代表される浅野財閥の創業者、浅野総一郎と台湾との関り合い、同会社打狗工場の操業等に関しては、古川勝三氏のニッポンドットコムへの寄稿『台湾を変えた日本人シリーズ:高雄港の開発に尽力した浅野総一郎』に詳しいのでそちらに譲ることにして、同寄稿の中から以下の下りのみ抜粋しておく:「ロシア革命が起きた大正6(1917)年になると、打狗山の良質な石灰岩を原料にする「浅野セメント打狗工場」を新設し、縦貫鉄道と打狗港を利用して、インフラ整備が加速されつつあった台湾全土にセメントを供給し続けた。その結果、やがて台湾におけるセメントの80%を賄うまでになり、台湾の近代化と打狗港の発展にも大きく貢献した。」(続く)
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2021年03月06日

壽山古道−17:「浅野セメント株式会社打狗(高雄)工場)」

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【写真説明】壽山東側は台湾セメント公司(略称「台泥」)の石灰岩採掘場とセメント工場が拡がるが、今現在は殆ど営業を停止していると思う。前身は浅野セメント高雄工場であるのは高雄人には良く知られている。但し、その敷地内に浅野セメント時代の遺構が存在しているのを知る高雄人は少ない。左写真は壽山山腹から台泥敷地内を俯瞰したもの。工事中だが「柴山滞洪池公園」と呼称される親水公園を設えている途中。2017年3月の撮影だが、未だに完成せず、連日土を掘り返している。同写真の中に、浅野セメント時代の三箇所の遺構が写り込んでいる。中央写真はその遺構の一つ、昨年2020年3月になり漸く文化資産局に歴史建築として登録された「石灰窯」。動物園と北壽山登山口を結ぶ登山道沿い、台泥の敷地内の最も西側奥にあり、台泥の敷地が東側で接する幹線自動車道鼓山路からは以前は草木に埋没していた為、看難かった。右写真は石灰窯基部、既に百年を経過したレンガ壁は実に精緻、台泥はよくぞ排斥しなかったものだと半ば感心する。
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2021年02月27日

壽山古道−16:「柴山部落越嶺古道」−2

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【写真説明】繰り返すが、壽山の西側は台湾海峡に臨む美景の海岸線である。中山大学キャンパスの最北端の大学施設である文学院脇から海岸への降口が設けられており、海岸に降り立ちそこから北側約3`の海岸線は歩行が可能である。海岸線を含む古道として著名な台東県の阿朗伊古道に肖り最近は「柴山阿朗伊古道」と呼ぶ向きもあり、この呼称が人口に膾炙するにつれネット上での紹介数も市民権を得つつある。筆者自身も柴山漁港以外はこの新歩道に踏み込んでみたことは無かったので、先日その起点の海岸まで降りてみた。驚いたことが二つあった。一つは海岸の漂着物、詰りゴミが非常に少ない事、二つ目はそれも手伝って海岸線は非常に美麗である事。左写真は、自動車道柴山大路脇の柴山阿朗伊古道への降口直下の光景、中央写真は降り切った海岸の光景(同パノラマ写真)、右写真は前回投稿写真と同じく、柴山西側最高点付近からの海岸線俯瞰。(終り)
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2021年02月20日

壽山古道−15:「柴山部落越嶺古道」−1

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【写真説明】壽山の西側は台湾海峡に臨む美景の海岸線である。この海岸線から立ち上がる壽山西面はサンゴ岩が露出した絶壁を擁しており、登山に興味の無い人には、実は市街地側東面程では無いが、登山道が縦横に張り巡らされているのを想像するのは難しい。中山大学キャンパスの最北端の大学施設である文学院脇から登り始めるのが一般的である。前回紹介した内惟越嶺古道越嶺点=柴山部落越嶺古道越嶺点から台湾海峡側へ下ると2百b程で鉄門で登山道が遮断され軍用道路に突き当たる。そこから軍用道路は海岸線の小漁港、高雄市鼓山区桃源里柴山部落まで降りて行くのだが、軍管制区内なので軍用道路に襲われた古道部は大っぴらに歩けない。但し、柴山部落自体は軍管制区内に有り、明末〜清初代に掛けての創建である柴山山海宮、漁港(2020年撮影)、居住地、畑地、果樹園を含む。嘗ては壽山西面側は頻繁に登り多く撮影した記憶があるのだが、やっと探し出して来たのが今回掲載した三枚である。左写真は地元ハイカーにA、B、C線と呼ばれる西斜面主要登山道の内のどれかの登山道風景、中央写真は西側最高点付近のサンゴ岩絶壁、右写真は西側最高点付近より俯瞰した柴山部落。何れも2003年撮影。(続く)
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2021年02月13日

壽山古道−14:「内惟越嶺古道」-2

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【写真説明】龍泉禅寺登山口から龍門亭(東屋)を経て小坪頂方面へ向かう壽山北側の登山道目抜き通りが中心亭に至る分岐点手前で内惟越嶺古道と交差している(上掲左写真)。上掲中央・右写真はその古道部の情景。古道は中心亭上部で目抜き通りと交差(下掲左写真)する。その後、雅座方面へ登山道目抜き通りを辿ると雅座下で古道は越嶺点に至り古道を離れる(下掲中央写真)。越嶺点以降台湾海峡へ抜ける古道部は柴山部落越嶺古道と称されている。下掲右写真は柴山部落越嶺古道の越嶺点から暫く入り込んだ部分の情景。
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2021年02月06日

壽山古道−13:「内惟越嶺古道」-1

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【写真説明】「内惟」とは地名であり台湾鉄路(鉄道)の駅もある。ウィキペディア中文版の「鼓山区」の項には日本時代の高雄地区の行政区画の変遷が詳述されているが、日本語版は僅か一行、「日本統治時代の田町、寿町、山下町、湊町、新浜町、哨船町、大字内惟が戦後統合され鼓山区が誕生した」とだけある。ところで「惟」は「思惟(しい)」という日常語があるように「おもう」が訓読みだ。そんなことを知り始めたのは、前回投稿で紹介した幻の高雄山一等三角点の行方を捜索している途次、標高70bの「内惟山」なる三角点が埋定された一座が存在することを確認(中央・右写真)してからである。三角点と言っても戦後のもので、台湾省政府圖根補点である(下掲写真)。戦後も点の記が引継がれたとすれば点名は「内惟山」では無く「内惟」では無いか?と筆者は勘ぐっている。「山頂」は壽山登山口としては最も伝統的な龍泉禅寺(龍目井)脇から登り始め、木製階段の最初の坂を登り切った踊り場から左手に辿った、大振りのガジュマルが纏わりついたサンゴ岩礁の上である(左写真)。最初はネット上で得たGPS座標を携帯に仕込んで出掛けたが見付けられず、二回目の捜索で行き着いた。最も伝統的な登山道であるだけにハイカーの往来は壽山の中で最も激しい。この登山道は壽山北側最高点付近まで木製或いは疑似木製階段が付けられており万人が歩けるようになっているが、その登山道の一部が内惟越嶺古道を襲っているはずだと容易に想像された。その通りだった。(続く)
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2021年01月30日

壽山古道−12:「哨船頭古道」−10

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【写真説明】嘗ての壽山山頂は、陸測一等三角点が埋定された標高355bの点名「打狗山」或いは「高雄山」(筆者自身は未特定)だったが、その山頂は今は消失しているので、台湾小百岳の一座としての壽山は嘗ての高雄山の南側にある、標高337bの通称「南壽山」を代理壽山としている。但し、行政院体育委員会(台湾小百岳の選定母体)の登録では355bの標高を残してある。左写真は南壽山山頂直下の東屋(涼亭)、山頂が軍管制区内にあるのでこの東屋を公式の台湾小百岳の代理山頂として認定されている。中央写真は、山頂の高雄市政府に依る主控点、目的は判らず、ハイカーは三角点と称している。右写真は山頂から南側の俯瞰、裕仁親王の歩かれた「皇太子殿下御登山記念碑」から哨船頭古道の北側起点の大坪頂砲台方面を見降ろす。哨船頭古道の壽山館附近より上部、大坪頂砲台までの区間は全て軍管制区内なので一般人が肉眼で確認するにはこのような方法しかない。
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2021年01月22日

壽山古道−11:「哨船頭古道」−9

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【写真説明】哨船頭古道に関する最後の二回の投稿は東西の古道起点を簡単に押さえておこうと思う。左写真は登山街が哨船街と交わり南下、高雄港に出会う部分でカーブし西子湾方面に抜けるが、そのカーブする辺りに設けられた哨船頭公園。こうして哨船頭の古名が維持されている。中央写真は哨船街が古道西側起点雄鎮北門と出会う地点、筆者の背中右側が打狗英国領事館文化園区である。右写真は現時点では工事中の北門砲台。(続く)
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2021年01月14日

壽山古道−10:「哨船頭古道」−8:「打狗英國領事館及官邸」と「登山古道」

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【写真説明】哨船頭古道の西側起点(古道最低点)である著名な国定古蹟「雄鎮北門」砲台の僅かに東側は「打狗英國領事館文化園区」として整備されている。元々丘の上にある英国領事館官邸が高雄市指定古蹟として開放されていたが、丘の下の領事館も修復・復元された。これら二つの遺構を結ぶ通用道は今は「登山古道」として修復され、三つながらにして国定古蹟である。掲載した写真は左側から領事館側古道出入口、その上部、更に領事館官邸側古道出入口の景観。埋め込んだパノラマ写真は、サンゴ礁の中をうねるように伝う古道途中の白眉部分。実際この古道、登りでも五分程度で歩けてしまう。
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2021年01月09日

壽山古道−9:「哨船頭古道」−7:「打狗水道」

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【写真説明】左写真は、旧打狗水道浄水池入口。団体で見学申請すれば入れて貰える。同写真右側に覗くドームは浄水井戸の上部構造物。中央写真は浄水池。右写真は、浄水池下方の市街地内に残る打狗水道量水器室、浄水池同様市指定古蹟だが、全く保護されている気配無し。文化資産局の登録申請文の中には、西洋古典様式とかトスカナ柱とかの単語が散りばめてある。
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2021年01月02日

壽山古道−8:「哨船頭古道」−6:「壽山館」−2

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【写真説明】左写真は、前回投稿記事「壽山古道−4」の右写真に写る登山道階段を軍管制区側から見たもの。中央写真は、実際の登山道階段、直に百年を越そうとしているが、残存状況は驚く程良好だ。右写真は東屋の遺構状況。同写真奥の樹木が切れた部分から中山大学職員宿舎が望める。同東屋は裕仁親王高雄巡啓時に撮影された写真にも写り込んでいる。ここでは、「登山街60巷歴史場域」内の案内板Iに掲載されたものを転載、マーキングを加えた。
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