2019年05月25日

『水の古道』隘寮[土/川]−1

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【写真説明】屏東県内埔郷水門村の市街地内に隘寮圳の導水路が口を開けている。約1`のトンネルを経由した隘寮渓の水が豪快に落とされ市街地の真ん中を流れる。今も日本時代、昭和13年竣工のものがそっくり健在である。左写真はその導水路に掛けられた水門橋。導水路の両側は「水利休憩公園」として遊歩道が渡してある。その一部は導水口上部まで階段が付けられており、中央写真はその階段途中から望んだ水門村市街地と隘寮圳水門橋(同写真中央)。右写真は隘寮圳トンネル導水口から流れ落ちる水、恐ろしく鮮烈であり、整備のいい加減な公園仕立てとは対照的。
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ラベル:古道 台湾
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2019年05月18日

哈盆越嶺古道−6

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【写真説明】今回は哈盆越嶺古道カテゴリーを閉じるに当たり古道美三景を選んだ。。。(終り)
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2019年05月11日

哈盆越嶺古道−5

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【写真説明】「桶後越嶺古道−1」で書いたように、哈盆越嶺古道を表し誰かが「台湾のアマゾン」と呼んだ。同記事でその所以を南勢渓の渓谷美に在りと言い切ったのだが、実は自信が無い。かと言って他の所以を思い付かない。古道5〜6`と推察される地点にロープを結わえ付け南勢渓迄降りて行ける場所がある(左写真)。筆者の記憶する限り、歩道+古道上で実際川底に降り立てるのはここ一箇所だと思う。この点は、桶后渓川底すれすれに開削された桶後越嶺古道との大きな違いである。哈盆古道は南勢渓右岸沿いかなり高い地点に忠実に開削されている。鬱蒼と茂るオオタニワタリ(右写真)と組み合わされば、アマゾンのイメージか?(続く)
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2019年05月04日

哈盆越嶺古道−4

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【写真説明】今回掲載した三枚は「哈盆越嶺古道も日本時代は対タイヤル族管制の為の理蕃道として整備された」証左―一つは、平板な石を敷き詰め警備道を補強した路側石(左・中央写真)。もう一つはタイヤル族管制の為に警備道上に鉄線を渡し通電させていた碍子。碍子が樹木に取り込まれ年月を感じさせる。これらは嘗て日本人が整備した警備道(理蕃道)に残存する典型的な遺址である。(続く)
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2019年04月27日

哈盆越嶺古道−3

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【写真説明】カラモチ歩道の全長は福山村入口から2`乃至は3`程度のようで、後東側に伸びる部分は林務局設置の里程標が立つ哈盆古道となる。前回記事で述べたように、カラモチ駐在所は福山村からざっと5`と踏んだとすると、その跡地は歩道上で無く、古道上にあることになる。今回掲載した写真はその駐在所跡地らしき広場と石塁(左・中央写真)であるが、何の確証も無し。哈盆古道段5〜6`地点、丁度中間点になる(右写真)。コメントするのが遅くなったが、桶後古道と同じく、哈盆越嶺古道も日本時代は対タイヤル族管制の為の理蕃道として整備された。(続く)
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2019年04月20日

哈盆越嶺古道−2

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【写真説明】カラモチ歩道段の哈盆古道の景観を二枚選んだ(左・中央写真)。何故かこの段の古道脇の保護柵は黄色と緑の段々である。歩道上の指導標の材質も林務局のものとは異なる。恐らく福山村が自前で整理したのだろう。軈てカラモチ歩道と哈盆古道の分岐点に至る(右写真)が、前述したように歩道部分も古道である。指導標左側「福烏道路」とは福山村と烏来市街地を結ぶ幹線道路、西側古道起点、右側「哈盆露営地」とは林務局管理の古道東側起点、福山植物園の西側である。
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2019年04月13日

哈盆越嶺古道−1

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【写真説明】左写真は新北市烏来区福山村内で見掛けた「哈盆」と「阿玉」(前回投稿「桶後越嶺古道−5」で紹介済み)の記載がある看板。阿玉は同区孝義村の日本時代の旧名。但し、同看板に何故二つながら並んでいるのか?その由来は分からず。中央写真は村内に立つ観光用指導標。「福山植物園」の方向が古道入口である。左写真は同村内の福山1号橋の袂にある哈盆越嶺古道登山口付近の案内板。実際は卡拉莫基歩道の入口で同写真右奥に赤い鉄製の手摺が見えている。
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2019年04月06日

桶後越嶺古道−7

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【写真説明】古道として整備された起点(或いは終点)付近は種々建造物があったはずだが、今残っている写真はここに掲載した三枚のみ、吊橋を除いて撮影した対象(中央・右写真)が何であったか?皆目見当付かず。ここには日本時代の遺構と思えるような物もあり、そうであればカメラを向けたはずだが、復路を急いだと云う記憶も無いので、もう少し写真が残っていそうなものだ。手元の『台灣全覧』に依ると、この古道起点付近には以下の公共施設があることになっている。即ち;台湾電力保線所、苗圃管理員宿舎、林務局新竹林管理処烏来工作站招待所。日本時代、同地には「製脳会社仮泊所」があったことが、『烏来的山與人』(鄭安睎・許維真訳著、2009年10月出版、玉山社)に記載されている。「製脳」とは「樟脳」製造の事で、同書の記述から推察するに三井系の会社で、社員の宿泊施設があった。中央写真はその跡地か?右写真は保線所施設か?桶后渓の渓谷美を読者の方に存分に味わって貰おうと書き起こしたが、如何せん筆者の記憶が余りに乏しく、古道全線を走るようにして紹介するに留まってしまった。(終り)
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2019年03月30日

桶後越嶺古道−6

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【写真説明】桶後越嶺古道の烏来出入口が近くなると、川幅が拡がるに連れ、水深の深い鮮烈な淀みが現れる(左写真)。又、コンクリートの人工物も見え始める。柳杉植林帯を抜けて仕舞うと、第三渡渉点に出会い、古道起点(0`ー7`)(右写真)まで1`余り(中央写真)。。。(続く)
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2019年03月23日

桶後越嶺古道−5

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【写真説明】第二渡渉点を過ぎてから烏来側古道出入口に向かい3`程は、杉の植林中の路程となる。尤も『Tony的自然人文旅記』絵図からの推測であり、筆者の記憶には無く、自身の撮影した写真に残っていたのが、左写真。絵図には柳杉林と記されているが、柳杉をそのまま日本語サイトで検索すると、上位に出てくるのは、木材会社のサイトで、その中の一つをそのまま拾うと以下のような解説があり、どの木材会社のサイトも似たような説明が供されている:
「柳杉(リュウスギ/ヤナギスギ)は、ヒノキ科スギ亜科スギ属の常緑針葉樹です。第二次世界大戦後、中国にて日本のスギの苗を大規模に植林したものとされています。その為、中国・四川省原産ですが、日本のスギとDNAが同じとされており、色味、材質、肌触りなど、ほぼ日本のスギと同じ性質を持った材として知られています。」日本語の杉と漢語の杉の違いまで踏み込んでしまうと煩わしいので、この程度の説明に留めておく。中央写真は、その杉木立が続く古道右岸側に架かる第二吊橋とその脇に立つ指導標(3`−4`)。同指導標中に、三座、大礁渓山(標高1,161b)、小礁渓山(同1,147b)、烘爐地山(同1,166b)、に加え、阿玉山(同1,420b)は日本時代からよく登られてきた烏来地区の山々だが、標高こそ引くけれ、渓谷沿いに登山口があると云うことは、落差が大きいと云うことになるので、今後筆者がそれらの一座でも登る機会があるかどうか?自信無し。右写真は、第二吊橋を越えた先の古道景観。(続く)
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2019年03月16日

桶後越嶺古道−4

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【写真説明】既に「桶後越嶺古道−2」からそうなのだが、宜蘭県礁渓側出入口から歩き始めたので、その順番で古道の風景を紹介している。但し、林務局設置里程標の距離表記は、新北市烏来側からなので、投稿記事中の距離表記に戸惑う読者もいると想像されるので、全長7`のマイルストーンを列記し、今回も含め以後の写真掲載の便宜を図りたい。実はこの作業を通じて、起伏の少ない古道故、歩行1`1時間を目安に割り振りしてみないと、当時撮影した写真が凡そ何処なのか?見当が付けられなかったからだ。当時往路は、0715に出発し、0945に到着、この間2時間半。今回掲載の写真は第二渡渉点(5`−2`)前後で撮影されたものと想定されるが、渡渉点で撮影したものはどれか?判別出来ず。(続く)

礁渓側古道入口(7`−0`)

(第一渡渉点、萱草原)

古道最高点(6`−1`)

(第二渡渉点、柳杉林)

第二吊橋(3`−4`)

大礁渓山登山口(第三渡渉点)(1`−6`)

桶后吊橋、烏来側古道入口(0`−7`)
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2019年03月09日

桶後越嶺古道−3

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【写真説明】礁渓側古道出入口から1`、烏来側から6`地点が古道最高点、古道の起伏と云う意味では、変化の少ない本古道中のマイルストーンである。この最高点に至る前に最初の桶后渓との渡渉点が顕れる(左写真)。実際は左写真に見る通り、桶后渓源頭に近い。そこを抜けると、古道中、萱(茅)が最も美しい段である(中央写真)。右写真は古道最高点付近。尚、古道全段の案内図は、『Tony的自然人文旅記』(867)掲載分が非常に分かり易いので、参考にして欲しい。尚、ウィキペディアの「ススキ」の項を閲覧したら、実に興味深い説明があったので、そのまま「追加」記事とした:
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2019年03月02日

桶後越嶺古道−2

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【写真説明】左写真は、前回紹介した地鶏料理店から産業道路を5`程度遡った場所にある指導票。そこではコンクリート道路が地肌を露出させており、まだ車で入り込めそうだったが、駐車し歩き出した地点(中央写真)だと思う。林務局が古道として整備した出入口は更に500b程入り込んだ場所(右写真)で広場になっており、「7`」の里程標が立つ。烏来側古道出入口からの距離である。台湾高山の和(なごみ)は玉山箭竹のうねる様な草原であるが、台湾低山の和は、中央・右写真に代表される萱(茅)の大群、ススキの穂が靡き出すと格別である。(続く)
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2019年02月23日

桶後越嶺古道−1

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【写真説明】桶後越嶺古道には、東側は宜蘭県礁渓郷匏崙匏村、西側は新北市烏来区孝義里からアクセスする方法があるが、筆者は東側から入り往復する方法を選んだ。左写真は、同古道の林務局に依る里程標が最初に建つ小礁渓の地鶏料理店で、宜蘭市街地を流れる宜蘭河の支流、小礁渓を遡った場所にあり、古道入口を目指すドライバーの目印となる。同写真内の青地の警告板には、2008年に台湾を襲った二つの台風で古道が損傷を受けている旨、注意が喚起されている。この地点から歩き出す筋金入りのハイカーもいるかと思われるが、通常はそこから更に6`弱産業道路を車で辿り、歩き出す。但し、車で辿る産業道路部分も古道である。右写真は車で辿る越嶺下部を小礁渓の中から望んだもの。
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2019年02月16日

関山越嶺古道−20

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【写真説明】向陽国家森林遊楽区入口脇の関山分局向陽派出所は、日本時代の向陽駐在所を襲ったものと筆者は考えており、「台湾百岳」ブログでもそう紹介した。ところが、今回嘉明湖を目指すに際し『台灣全覧』を眺めていたら、遊楽区内の観景平台(展望台)に括弧付きで「向陽駐在所旧址」が付記されているのに気付いた。つまり、現在の派出所は日本時代の駐在所の跡地では無く、実際は台湾二葉松保護林を利用した森林遊楽区内にあったと云うことだ。遊楽区は基本的に向陽山、三叉山、嘉明湖まで足を延ばさない観光客向けであり、東側(試しに日本語読み)に松陽(しょうよう)、向陽(こうよう)、向松(むかいまつ)、西側に松景(まつかげ:左写真)、松涛(まつなみ)の合計五本の遊歩道で構成され、何処を辿っても最後は向陽山への登山口に辿り着く。件の展望台(中央写真)は松涛歩道上にあり、ハイカーは専ら松景―松涛を登山道として利用している。この展望台(標高2,500b)までの登山道(1.5`)の部分が古道と重なる部分と想像されるが、展望台以降は右写真のような具合で藪に隠され皆目見当が付かない。(終り)
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2019年02月09日

関山越嶺古道−19

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【写真説明】リトーマテングル(摩天)間の標高差は丁度500b、古道概念図で明確に判るように、この間、南横公路(省道20号線)が正に九十九折りで高度を稼いでいるのに対し、古道は一気に駆け上がっていた。古道と南横の交差点(或いは接触点)は三箇所、車窓から注意して沿線を観察するがリト側下二箇所は全く見当付かず。唯一三箇所目は自動車道が大きくカーブした付近(左写真)に市販地図帳でも公路総局(正式には交通部公路総局)関連施設(公路総局向陽監工站と摩天道班房:班房とは限定、管理された物理空間なので、道路工事基地の意か?)が明記されているので付近に車を停めて、キャベツに埋め尽くされた谷側斜面を見下ろし、凡そのコースと微かな痕跡を探した(中央写真)。同写真中央を斜めに横切る疎らな杉木立が見えるが、古道はこの線に沿って開鑿され、公路総局監工站の後方の山裾を次の駐在所であるカイモス(栗園)を目指したと想定される。右写真は公路総局監工站越しに何気なく撮影したものであるが、後になり、日本時代、監工站付近に砲台が置かれていたことを知った。実際の設置場所は左写真辺りか?偶々当時の兵士が俯瞰していた風景と相成ったわけだが、リトで民宿の方に、この辺りで砲台が置かれていたのは何処かと質問したら、ブルブル(霧鹿)だけだと云う答えだった。尚、向陽監工站は新装(改装?)間も無い状態に見え、新装の際、摩天道班房を取り込んでしまったようだ。(続く)
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2019年02月02日

関山越嶺古道−18

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【写真説明】リト部落の西側外れに利稲基督長老教会(左写真)があり、古道が南横を横切り部落への降り口はその辺りだろうと当たりを付けた。教会から出て来た老婆に日本時代の警備道の事を尋ねると、そう、ここら辺り(中央写真:怪しげな鶏舎地は古道を利用したか?)と言われたが、『台灣全覧』の古道線を忠実に辿ると、部落の中心方向、即ち東側に寄っている。当然、最後は駐在所へと辿る(右写真)。リトの場合、現在の派出所、小学校、衛生所は一か所に集中しているので、日本時代からこれら三機関は同地にあると想像出来る。(続く)
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2019年01月26日

関山越嶺古道−17

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【写真説明】台東県海端郷の中では最大の行政区画を擁するリト(利稲)村(左写真)は70戸、500人程度、新武路渓の支流である利稲渓の河岸段丘(その為、利稲台地と云う呼称を見たことがある)上に集落、原住民族の部落としては規模が大きいと思う。筆者が何を以て規模が大きいかと言うと、乗用車が余裕を持って擦れ違える幅を持った目抜き通り(中央写真は部落を東西に走る道路)があることだ。過去何度か立ち寄ったことがあり、村の西端にある小学校(霧鹿国民小学校利稲分校)の校庭で露営したこともあるが、部落の中を子細に歩いたことは無かった。嘉明湖行きを諦めたので、今回当地に二泊した。『台灣全覧』に依ると、マテングル(摩天)から下って来た関山越嶺古道は部落上方の南横公路を横切り、丁度派出所(関山分局利稲派出所)辺りに降りて来ているので、その痕跡を探してみることにした。リト―マテングル間の古道と南横との関係はこの概念図を参照すると判り易い。右写真は小学校付近から東方向の風景。(続く)
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2019年01月19日

関山越嶺古道−16

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【写真説明】初来(逢坂)―利稲(リト)間の新武路渓谷の美観はタロコ渓谷に匹敵すると書いたことがあるが、渓谷沿いに温泉が湧き出ていることには不注意であった。今回初めて気付いた次第。下馬(エバコ)と天龍ホテル(ブルブル)間の南横沿道に多くの車が停められていたので、何事かと思ったら、沿道渓谷側に足だけ浸ける温泉施設が設けてあった。名付けて「六口温泉」(左写真)、中央写真はその向い側の渓谷岩盤、硫黄で変色している。この温泉はほんの一例である。下馬は小さいブヌン族の村で、そんな村とはアンバランスな極彩色の「下馬温泉民宿」の建物が南横脇を占拠している(右写真は建屋の一角のペイント)のだが、冬場に拘わらず休業、或いは倒産状態。元々この温泉宿を目指したわけではなく、南横を隔ててこの民宿の向い側にある、南横道路工事関係者が主たる客人である民宿があり、それら客人の賄をしている女性が、今回我々の嘉明湖行の同じブヌン族のポーターの高校時代の同級生と云うことで、訪ねて行った。二十年振りの再開と云うことで、このポーターの男性、相当興奮していたと思う。彼らは南投ブヌン族、女性が働いているのは台東ブヌン族の村、筆者は中央山脈を越えたブヌン族の往来に驚いたのだが、後で珍しいケースでは無いことを知った。いづれにしても、下馬を紹介する題材として温泉を使った。(続く)
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2019年01月12日

関山越嶺古道−15

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【写真説明】関山越嶺警備道の起点、台東県関山鎮は全国唯一人口が1万人に満たない鎮と云う汚名を被っているようだが、台湾東海岸南部の大都市、活気に溢れていると筆者は思う。但し、筆者が車を降りて街中を散策するのは今回が初めてであった。台湾鉄道の駅舎(左写真)が日本時代のものと云う知見はあったが、実際初対面、何時の間にか新駅舎が開業しており、真向かいの新装復元の駅長舎と併せ旧駅舎は古蹟扱いだった。東海岸では例外では無いのだが、町中至る所で日本時代の家屋にお目に掛かれるが、恐らくこれ程の規模の日本家屋のコレクションは無いだろうと唸ってしまったのは、旧駅舎と省道20号線を隔て中山路越しに向かい合う関山警察署(正式には「台東県警察局関山分局」)付属の「警察史蹟館」(「関警史蹟文物館」)である。小さな別棟の付属博物館紛いの建屋を想像していたら、警察署ビルの後方は日本庭園(日本時代からあったはず:中央写真)になっており、その後ろは日本時代から受け継がれ現在も多くの棟が居住中の官舎群(右写真)であった。
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2019年01月05日

『水の古道』后里[土/川]−12

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【写真説明】「后里圳」カテゴリーの最後を「鉄の道」で締めて新年の挨拶に替えたい。日本時代起工の台湾鉄道旧山線大安渓鉄橋(左、中央写真)は、泰安鉄道文化園区の定番アトラクションである。旧泰安駅から線路伝いに歩いて行けるし、高所恐怖症で無ければ、鉄柵を乗り越え鉄橋を歩きながら、先人の偉業に思い至すことも出来る。鉄橋上から望む大安渓の河原の拡がりは絶景だ(右写真)。1903年(明治36年)起工、1908年(明治41年)竣工、「下承式曲弦桁梁」構造(下路式曲弦ワーレントラス鋼橋:通称「花梁」)、全長637メートル、1935年(昭和10年)の新竹台中大地震、戦後1963年の改建を経るが外観は日本時代の竣工時と殆ど変わっていないと謂われる。台中市指定古蹟。同構造の古蹟指定鉄橋は、他に大甲渓鉄橋(大甲渓:台中市豊原区/后里区)、下淡水鉄橋(高屏渓:高雄市/屏東市)の二架のみ。
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2018年12月29日

『水の古道』后里[土/川]−11

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【写真説明】后里圳の水は最後は何処に流れ込むかと云うと、地下水路を経て、旧泰安駅西側、直線距離で2キロぐらいの場所にある水力発電所―現在の正式名称は「台湾電力公司、大甲渓発電廠、后里発電機組」―である。前身は台湾電力株式会社、后里発電所であり、ウィキペディア中文版にも詳しい解説がある。1908年(明治41年)台湾総督府に依り企画、設計、施工開始、1911年(明治44年)竣工、1919年(大正8年)台湾電力株式会社の管理下へ。。。驚くべきは、竣工当時の発電機とタービン(どちらもドイツ製;シーメンス/フォイト)が商業運転中であること。発電所外観(左写真、但し最上部の緑色の屋根を除く)も竣工当時のまま、発電所後部の水管も然り(中央、右写真)。構内見学は簡単に許可される筈と高を括っていたら、見事に謝絶された。今回掲載した写真は構外から撮影したもの。十分である。后里発電所こそは、后里圳の画竜点睛なのだ。(続く)
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2018年12月22日

『水の古道』后里[土/川]−10

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【写真説明】后里圳と言うより旧泰安駅を再訪した理由として二つ、后里圳渡槽と隘勇古道を挙げたが、二回目の探訪の折り、駅周辺を「水の古道」の観点から目を凝らしていたら色々面白い物にぶつかった。一つは泰安鉄道文化園区の北東側にある台中農田水利会のビル横に建つ日本式家屋(左写真)、この家屋に対する案内板なりを写真に納めていないので、少なくとも当時は準備中だったかもしれない。台中農田水利会本部ビルが斯様な片田舎にあるわけがないので、日本時代の后里水利組合の跡地と考えられる。台湾の水利組合は1922年(大正11年)に整備され、戦後台中水利会は、五つの地区の水利組合を統合する。現在台湾には全国17の農田水利会があるが、すべて日本時代の水利組合が前身である。その為、日本時代の建屋遺構をそのまま使い続けているか、改装再建している水利会は少なくない。その近くに、后里圳の支圳と思しき水路に架かった小さな橋、大安橋(中央、右写真)を見付けた。日本時代の遺構であることは、大安が泰安に改められたのは戦後であることからも判る。『台灣全覧』では七公圳の記載あり、同じく大安渓から水を引き込んでいる。(続く)
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2018年12月15日

『水の古道』后里[土/川]−9

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【写真説明】「隘勇古道」は初回探訪時は古道入口の「大正五年総督府」石碑を確認したのみ、雨が降っていたこともあり、実際歩くのは止めた。再訪時は歩いてみたが、撮影した写真データに依るとほんの数分で歩き通せて仕舞い、全長数百メートル、こちらも拍子抜けしたのだが、実は大いに喜んだ。蚊の猛攻撃に晒されたからだ。お陰で(?)当時撮影した写真はブレたものが多い(左写真)。途中、古い案内板二枚あり、古道開鑿時の艱難辛苦の物語が記されている。出口(中央写真)はアスファルト道路に降り立ち、そこを横断した以降も古道は如光山寺迄伸びていることになっており(右写真)、実際歩いたがどうも騙された気分になった。要は真面目に歩く物好きは極僅かと云うことだ。手元の『台灣全覧』で確認すると「愛勇古道」と記載されている。(続く)
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2018年12月08日

『水の古道』后里[土/川]−8

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【写真説明】「水の古道」投稿を継続する。台湾鉄道旧泰安駅周辺の后里圳第1回踏査は2016年5月、再踏査は同年8月である。再訪の動機は二つ、一つは、『后里[土/川]−4』で紹介した后里圳渡槽(水橋)を、その直下の川底(左写真)迄に降り立ち谷側から精緻にして且つ豪華な水橋全容(右写真)を見ること。二つ目は『后里[土/川]−6』で紹介した、「隘勇古道」を実際歩いて見ることである。副産物も色々あり。前者に関しては、初めて訪れた際は川底への降り口を見付けられなかったが、再訪した際には直ぐに判った。水橋を渡る水を一部水橋脇へ落とせる構造(左写真)が敷設されており、川底へ安全に降りれるような階段組み、少し拍子抜けした。(続く)
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2018年12月01日

八通関古道竹山段−17:「化及蠻貊」碑

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【写真説明】2005年3月の一日、幻の「山通大海」も含め、「萬年亨衢」、「開闢鴻荒」、及び「化及蠻貊」を探し当てることに費やした。「化及蠻貊」碑(右写真)はこのダイヤグラムで判る通り、集集市街地中心(ダイヤグラム左端に台湾鉄道集集駅在り)東側程遠からぬ場所にあり、幹線自動車道上には新旧標示板が立つ(左写真)。幹線道路から外れ当該碑に至る小径(中央写真)は清代開鑿八通関古道との案内を、筆者は探訪前に見ていたらしい。当該碑の正面のおどろおどろしい四文字以外に、碑背面にも上下二段刻字があり、曰く、「欽命布政使銜署臺灣兵備道陳方伯撫番開墾處」、「大清光緒拾參年春雲林撫墾局委員陳世烈題」。これら刻字の正確な翻訳は筆者には無理だが、幾つかの字句を拾い上げ空想を逞しくしてみる。碑の建立は光緒13年(1887年)で、八通関古道完工の光緒元年(1875年)より新しく、古道開鑿と直接関係が無いはずだ。台湾のネット上では、他の八通関古道開鑿関連碑と一括りにして紹介されているケースが多いので、筆者も戸惑う。恐らく「撫番開墾」と「雲林撫墾局」がキーワードで、原住民族の撫順に儘ならず、開拓・開墾に艱難辛苦しているメッセージの発露が「蠻貊」の二文字であろうか?(続く)
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2018年11月24日

八通関古道竹山段−16:「開闢鴻荒」碑

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【写真説明】「開闢鴻荒」碑をテーマにした公園は木組みのテラスが集集攔河堰の下段自動車道(省道3号丙線)と同じ高さであり、刻字されている岩盤そのものはテラスの高さを遥かに突き抜けているが、刻字そのものは、テラスを階段で降りた地表スレスレの高さにあるので奇異な感じを受ける。理由は、集集攔河堰建設の際、この国定古蹟保存工事時に土砂が流れ込み地表が底上げされた為である。左写真はテラスへの最下段部、中央写真はテラス下から「開闢鴻荒」岩盤を望んだもの。右写真は刻字、「鴻荒(こうこう)を開闢(かいびゃく)す」と読めるか?2005年3月の撮影。因みに、先に紹介した「萬年亨衢」碑の刻字読み下しは「万年衢(みち)を亨(とお)る」と推察した。いずれも「開山」の意気込みと苦労が伝わってくる文字群である。
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2018年11月17日

『水の古道』竹山隆恩[土/川](2)

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【写真説明】前回記事にて掲載した左写真の、南投県指定古蹟隆恩圳の現存する、但し水源を失い枯渇した水路出口を模したモニュメントの敷設された辺りの地下に、172メートル残存した清代開鑿の水路が穿たれている筈だ。そこから程遠からぬ所、省道3号丙線に沿って旧水路は開鑿されているが、そこへの降り口に文字がすっかり褪せ落ちた案内板(左写真)があり、日本時代修復の部分が見えている(中央写真)。出口をコンクリートで補修したトンネル上部に長方形に縁どられた額状部があり、「(上段)第一号隧道」、「(下段)昭和三年十一月竣工」の殆ど損傷の無い流麗な文字が刻まれている。昭和3年は1928年なので、清代開鑿以来220余年後の改修と云うことになり、下掲写真のトンネルの中の丸石の精緻な石組が清代開鑿時のものとしたら驚くべき耐久性と言わざるを得ない。このトンネルは以前は電球が吊るされ入っていけたようだが、今は電線の残骸がトンネル壁面に残るだけ、しかも筆者が訪ねた時は、雨水が入り込み泥濘となっていた。(終り)

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2018年11月10日

『水の古道』竹山隆恩[土/川](1)

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【写真説明】左写真は清代開鑿の隆恩圳の今に残る日本時代改修部分を模したモニュメントで公園になっている。濁水渓を跨ぐ「集集攔河堰」(中央写真)の左岸部にあり、隆恩圳はこの現代システム建設に依り、文字通り枯渇してしまった(右写真)。同写真露出した石積み部は清代開鑿と思われる。
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2018年11月03日

『水の古道』長源[土/川](2)

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【写真説明】長源圳探訪を終えると直ぐに竹林村の市街地に戻り文昌国民小学校を目指した。目的は前回の投稿で訳出した長源圳所縁の碑を探し出すことである。紹介文原文は、「立有碑文於竹林村文昌國小東南側之水上」。小さな街故、同小学校は直ぐに見付けられた(左写真)。これも郷道55号沿線に在る。さて、悩ましいのは紹介文の「小学校東南側」の解釈である。学校構内に在るのか、然も無くば学校に隣接しているのか?或いは、学校から離れているとするとどのくらいの距離か?最初と二番目は暫く歩き回り、収穫無し。諦めて、郷道55号線を南側、市街地方面に歩き出したら直ぐに見付かった(中央写真)。これも同郷道脇、確かに小さな水路上(右写真)に、コンクリートで小屋掛けされていた。当時は「長源[氵/卑]圳」が正式名称だったことが判る(下掲写真)が、何故碑文が白ペンキで塗り潰されているのか?とか、何故碑正面が道路とは反対方向を向いているのか?或いは、碑文そのものは何が書かれているのか?等々、今は答えを用意出来ずにいる。(終り)
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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | 『水の古道』長源[土/川] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする