2006年11月05日

霞喀羅古道−8:尖石

Kodou-19.JPG【写真説明】台湾最奥と云われたタイヤル族の村々に通ずる道路がまずここ宇老(ウラオ)派出所(写真左上)で交差する。週末は斯馬庫斯、鎮西堡、霞喀羅古道、李棟山等へ出掛けた行楽客の車で混雑する。斯馬庫斯は嘗て「黒色部落」の最奥と言われた部落、鎮西堡は台湾最大規模の巨木群(紅檜)の原生林を持つ。李棟山は清朝の開山撫蕃下で李棟将軍が砦(とりで)を築きその後を日本軍が襲い再建、タイヤル族鎮圧の為の大規模な砲台が今に残る。写っていないが、写真左奥には原住民の経営する食堂並びに季節の野菜、果物の出店で賑わっている。
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2006年11月09日

霞喀羅古道−9:李棟山

Kodou-20.JPG Kodou-21.JPG

【写真説明】台湾総督府が李棟山(標高1,913メートル)頂上に大正2年(1913年)に築いたタイヤル族討伐の為の大規模な要塞の正面の門。今では李棟山古堡と呼ばれている。写真左が外側から、写真内側は要塞内部から撮影した入口の門である。内部は五十メートル四方はあり、高さ2メートル強、厚さ約60センチにも及ぶコンクリート製の壁で囲まれている。当時のコンクリート技術の粋を集めたという。但し、「コンクリート」と単純に呼んでいいのかは自信がない。鉄筋も用いられたそうだが、要塞壁の中身はレンガ積みをコンクリートで補強してある。門上部には嘗ては第五代総督佐久間左馬太の筆になる「慎守其一」の扁額が掛かっていた跡が残る(写真左上部)。元々は清朝の開山撫蕃下に於いて李棟将軍が同地に砦を建設したのが始まりである。台湾各地に残る総督府の理蕃関連の遺蹟中、最大規模のものである。
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2006年11月13日

霞喀羅古道−10:司馬庫斯部落

Kodou-22.JPG【写真説明】嘗ては、最後の秘境、黒色部落等と形容されていた司馬庫斯部落の全景。現在もし週末・祭日にこの村を訪ねたとしたら当時の面影を見出すのは難しい。「黒色部落」の名は、山奥故日照時間が短く常時暗かった為だという説明を見たことがあるが、そう呼ばれ始めたのは、古蒙仁が1970年代、「黒色(的)部落」を出版した後ではないかと想像する。大概の観光客は司馬庫斯古道を神木(檜の巨木群)まで辿る。この村の最大の観光資源である。
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2006年11月21日

霞喀羅古道−11:北坑渓古道

Kodou-23.JPG【写真説明】古道とは全く関係の無い一片。苗栗県泰安郷二本松に至る目的で、台中県東勢の町を過ぎ東勢林場に到る自動車道の道端で見付けた「善福橋」架橋記念碑である。その橋は写真後方に写っているがこれは掛け直したもので、それすら今は廃棄されており記念碑だけが佇む。碑には橋建立の日付けも由来も無く寄進者の名前のみが記されている。寄進された金額が「円」表示になっいるので日本時代のものだと考えられる。水利事業に関わるこのような日本時代の遺物は丁寧に探せば台湾にはまだかなり残っていると思う。
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2006年11月26日

霞喀羅古道−12:横龍古道

Kodou-24.JPG【写真説明】苗栗市から快速公路72号線を東に走ると終点は獅潭郷[シ/文]水、省道3号線に行き当たる。これを南側に乗り換えるとすぐに大湖郷に入り、苺畑が3号線の両側に広がる。大湖は台湾における有数の苺の里である。街中には日本時代の家屋がいまだに多く残る。写真は省道沿いで見掛けた日本家屋、二階建ての大振りの家屋であるが日本時代から個人の邸宅だという説明を受けた。
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