2007年05月04日

能高越嶺古道−7

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【写真説明】能高越嶺古道東段の実質的な入口となる銅門発電所。右写真は、同発電所内にある日本時代の銅門駐在所跡と思われる遺構。銅門はタロコ族群の村落、花蓮市から少しばかり南下し、木瓜渓を渡るとその付近では有数の観光スポットである鯉魚潭のすぐ北側にある。
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posted by 玉山 at 21:55| Comment(6) | TrackBack(0) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月11日

能高越嶺古道−8

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【写真説明】これら二葉の写真は本文の記事とは関係ない。能高越嶺古道西段途中から撮影した能高山である。右側は「国家資料庫」のアーカイブに保存されているものを拝借した。昭和10年(1935年)撮影とある。それから70年後、偶々ほぼ同地点と思われる地点で撮影したのが左写真、当時と現在の古道とが同じコースを辿っていることの証左であろうか。尤も、思わずカメラを構えてしまう場所は今も昔も変わらないということだろう。

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2007年05月18日

能高越嶺古道−9

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【写真説明】花蓮市から省道9号丙線を南下、吉安の中心街を通り抜け刑務所(花蓮監獄)を過ぎた辺りの沿道にある「横断道路開鑿記念」碑(中央・右写真後方)と「横断道路開鑿殉職之碑」(同前方)。横断道路とは能高越嶺古道のことである。幹線支線の沿道の脇に佇みながら、以前は注意しないと見過ごしてしまうとよく言われていたが、現在では道路上に標識(左写真)が立つので見落とすことはない。能高越嶺古道の存在と歴史を証明する完全な遺跡である。ちなみに、これらの写真は朝方五時頃撮影されたものだ。
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posted by 玉山 at 15:23| Comment(6) | TrackBack(2) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月26日

能高越嶺古道−10

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【写真説明】左写真について。霧社から合歓山(3,417メートル、台湾百岳36号)へ登り詰める省道14号(甲)線(合歓山越嶺古道)の途中から、能高山(写真左上の最高点)と能高越嶺古道西段を抱く山稜を望む。写真中段上を横切り右側から高度を左側に上げていく稜線がそれであるが、古道はこの山並みの反対側の山裾を貫く。この稜線の写真右側の白い部分はタイヤル族の集落、現在は南投県仁愛郷合作村、平和、平生、静観等の部落を有する。静観は、このブログ(「霞喀羅古道−8」等)で触れたことのある新竹県尖石郷鎮西堡と併称される台湾最奥の村ということだ。日本時代はサード社、トロツク社等で呼ばれていた地域である。これらの部落へは盧山温泉を経由してまず仁愛郷精英村盧山部落に入る。日本時代にボアルン社と呼ばれていた部落で、霧社事件の際蜂起した六社の中の一つである。西側に辿れば現在の能高越嶺古道の入口に至り、そのまま北上すれば合作村である。尚、写真は10月初旬に撮影されたもの。台湾の薄(すすき)は日本のそれに比べて小振りな感じだ。又、台湾ではセイタカアワダチソウの侵入を受けていないようにも見受けられるが実際はどうだろうか?[写真をクリックして拡大] 本文へ...
posted by 玉山 at 10:13| Comment(3) | TrackBack(1) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする