2008年01月05日

八通関古道−2

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【写真説明】清代に開鑿された部分は現在山中にあるものを除けば、すっかり市井の中に埋没してしまった。開鑿から130年以上も経っているので当然である。それでも清代開鑿の起点である南投県竹山鎮内の自動車道脇に、写真のような看板を見付けたので入ってみると観光客誘致用に煉瓦敷きの道路が出来ていた。或る竹細工(竹山は台湾で有数の竹の産地)の工房へと導かれるようになっている。これが単にご愛嬌なのか、実際嘗ては清代に開鑿された道路だったのか、俄には断定しがたいが、この場合は後者であろうというのが筆者の贔屓目である。
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2008年01月12日

八通関古道−3

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【写真説明】三枚の写真は現代の八通関、日本時代の発音は「はっつうかん」である。左写真は古道途中にある観高駐在所跡付近から望んだ八通関と玉山。同写真右側のドーム状の大岩塊が主峰(標高3,952メートル)、その左の尖峰が東峰(同3,869メートル)、その下の連続した草原の小山の向こう側が八通関、右下側の崩れ落ちた崖が金門[山/同]大断崖。中央写真はその崩れ落ちた崖上付近の八通関の風景、同写真右側に写る山は郡大山(標高同3,278メートル)。右写真は八通関中央、溝状のものが走っているのが見えるが、八通関駐在所遺構である。後方の稜線は玉山北峰(同3,858メートル)へと続く。いずれの写真も2月に撮影されたもの。
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2008年01月19日

八通関古道−4

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【写真説明】沈葆驍フ命を受け実際に八通関を経由し中央山脈を横断する道路開鑿を指揮したのは呉光亮提督で、現在国家古蹟に指定されたものは彼に因むものが多い。南投県鹿谷郷にある鳳凰山寺は八通関横断道開鑿に因む寺であり、彼の銅像が立つ。台座に「開台英豪」のプレートが嵌めこまれている。寺は921地震で倒壊したが再建された。寺の中には彼の親書と言われる「佑我開山」(我が開山するを佑け給えの意)の実物扁額が訪れる人を見降ろしている。右写真は鳳凰山寺本殿(という表現が正しいか?)、写真では全部は見えないが左右両側入口上部に「山通大海」と「萬年亨衢」の文字が掛かる。字体は同じく呉光亮の親書として別な場所に石碑として残存しているものの模写である。(但し、「山通大海」碑の方は近年洪水で消失)。
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2008年01月26日

八通関古道−5

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【写真説明】台湾中央山脈の最高峰秀姑巒山(しゅうこらんさん、標高3,805メートル)の頂上から八通関古道が横断する方面を望んだもの。筆者は実際古道の一部を歩いたり、本を読んだり、地図をつぶさに見たりと八通関古道の全貌をイメージしようと色々試みたが、結局この台湾五嶽の一座の頂に立って初めてその全容に対するイメージが掴めた次第である。写真右側が八通関方面、左側が太平洋方面である。筆者が立っている場所が既に四千メートルに近いので、見下ろしている山々は殆どが優に三千メートルを越えていることになる。例えば、写真左奥の稜線中飛び出た頂は新康山(標高3,331メートル)である。写真右側から登ってきた八通関古道は、丁度雲が掛かっているその下に沿って太平洋側の花蓮に向かい抜けている。雲が切れている右端が大水屈駐在所があった辺りで古道の最高所である。
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