2018年08月04日

八通関古道竹山段−4

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【写真説明】最後はバナナ畑にぶつかり、ご丁寧にそのバナナ畑の中に付けられた農道を暫く辿ると云う念の入れよう、結局は諦めて郷道43号線の起点まで引き返したのだが、収穫もあった。前回投稿記事往復の途中に散在する古道の標示板には「甘井泉」と「石頭公」が併記されているので、これら二つの古蹟が清代開鑿の八通関古道関連のそれであることが判る。実は自動車道がカーブする部分(左写真)で囲い込むように各々に相当する井戸と廟が並列(中央写真;右側円錐屋根掛けしたのが甘泉井、左側福泉宮内部に石頭公)している。と謂うことは、左写真に写る自動車道は八通関古道の末裔だ。二つ乍ら当地の住民に護られて来たのだが、1999年の九二一震災以来井戸の方は草叢に埋れてしまったものを、翌2000年になり、竹山鎮公所、社寮文教基金会、紫南宮管理委員会、文建会委託雲科大重建工作隊の協力で井戸を復活させ、今に見る観光資源としての体裁を整えたのが、九二一震災の丁度一年後(右写真)であることが、当地に立つ二基の案内板で判る。井戸自体は兵営の施設として掘られたのは乾隆帝末年(1790年代)、光緒帝初年(1875年)、八通関古道開鑿時に総兵呉光亮麾下の兵士が喉を潤したそうだ。ところで、石頭公とは、読んで字の如く、自然石を信仰対象とした土着信仰と謂うことになるのだろうが、台湾内に千か所以上あると、台湾政府内政部サイト「全国宗教資訊網」に詳しい。(続く)
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2018年08月11日

八通関古道竹山段−5

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【写真説明】郷道43号線の起点まで引き返し、省道3号丙線を更に集集方向へ数百メートル進むと、同じく右側に湾仔巷と云う番号が振られていない自動車道が口を開けており、郷道43号線と同じ西側に広がる山に入り込んで行く。湾仔巷をどうやって探し当てたか?僅か二年前ぐらいのことだが記憶に無い。郷道43号線沿線と同じく、所処に「八通関古道」の標示板が掛かるが、郷道43号線のそれが「甘泉井、石頭公」だったものが「社寮古道」の表示に替わるので、社寮段の登山口に確実に向かっている手応えがある。途中幾つか土地公を通過するので一度ならず社寮段を目指すのでれば目印になる(左写真)。中央写真は道しるべの一例。横断幕は新廟建立の案内だが、ここら一帯では「八通関古道」が人口に膾炙しているのが判る。右写真は社寮段登山口に到る最後の土地公、内暗坑土地公。(続く)
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2018年08月18日

八通関古道竹山段−6

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【写真説明】内暗坑土地公を過ぎ自動車道を暫く登り続けると養魚場に出る。養魚場の山側は広い平坦地になっているので、ここに車を停め、愈々清代八通関古道社寮段を下段から歩き始める。現在歩道として整備された部分の最下段になり、鹿谷方面に抜けられるが、昇り一方、社寮段を歩き通す場合、鹿谷から入るのが一般的であることは以前にも書いた。下段、上段、どちらから出発するにしても、全線歩き通すのでれば、車のチャーターが必要になると云う不便さがある。社寮段下段のみの歩行の場合、登山口(左写真)から急坂(中央・右写真)を稜線まで辿り、稜線伝いの古道を歩いた後は、産業道路に降り、産業道路伝いに養魚場まで戻って来る所謂O線ルートが八通関古道社寮段下段の一般的な散策方法だ。全行程約二時間。尚、前述の稜線は「蜈蚣崙」「蜈蚣嶺」と云うおどろおどろしい名前が付けられており、社寮段下段は蜈蚣崙段、蜈蚣嶺段と呼ぶ向きもある。「蜈蚣」とはムカデ(百足)のことである。(続く)
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2018年08月25日

八通関古道竹山段−7

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【写真説明】清代八通関古道社寮段の中でも蜈蚣崙と呼ばれる両脇から樹木が覆い被さる狭い稜線上の山道、日本風に言えば、ムカデ坂と謂う雰囲気だろうか?「崙」は維基詞典(Wiktionary)にも出ているが字義の解説が無い。音からしてくねくねした稜線がイメージされる。それだから「蜈蚣嶺」と置き換えたのだろう―と云うのが筆者の初期の考察、その後G博士に「崙」の意味を聞いたら、台湾語の漢音訳で平坦の意、納得。この稜線上には幾つかアトラクションがあり、今回の記事は少しでも狭い稜線とムカデを連想出来そうな景観を選んでみた。社寮段の核心部である。中央写真は「犂壁石」、右写真は「観音石」と名付けられている。(続く)
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