2018年12月01日

八通関古道竹山段−17:「化及蠻貊」碑

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【写真説明】2005年3月の一日、幻の「山通大海」も含め、「萬年亨衢」、「開闢鴻荒」、及び「化及蠻貊」を探し当てることに費やした。「化及蠻貊」碑(右写真)はこのダイヤグラムで判る通り、集集市街地中心(ダイヤグラム左端に台湾鉄道集集駅在り)東側程遠からぬ場所にあり、幹線自動車道上には新旧標示板が立つ(左写真)。幹線道路から外れ当該碑に至る小径(中央写真)は清代開鑿八通関古道との案内を、筆者は探訪前に見ていたらしい。当該碑の正面のおどろおどろしい四文字以外に、碑背面にも上下二段刻字があり、曰く、「欽命布政使銜署臺灣兵備道陳方伯撫番開墾處」、「大清光緒拾參年春雲林撫墾局委員陳世烈題」。これら刻字の正確な翻訳は筆者には無理だが、幾つかの字句を拾い上げ空想を逞しくしてみる。碑の建立は光緒13年(1887年)で、八通関古道完工の光緒元年(1875年)より新しく、古道開鑿と直接関係が無いはずだ。台湾のネット上では、他の八通関古道開鑿関連碑と一括りにして紹介されているケースが多いので、筆者も戸惑う。恐らく「撫番開墾」と「雲林撫墾局」がキーワードで、原住民族の撫順に儘ならず、開拓・開墾に艱難辛苦しているメッセージの発露が「蠻貊」の二文字であろうか?(続く)
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2018年12月08日

『水の古道』后里[土/川]−8

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【写真説明】「水の古道」投稿を継続する。台湾鉄道旧泰安駅周辺の后里圳第1回踏査は2016年5月、再踏査は同年8月である。再訪の動機は二つ、一つは、『后里[土/川]−4』で紹介した后里圳渡槽(水橋)を、その直下の川底(左写真)迄に降り立ち谷側から精緻にして且つ豪華な水橋全容(右写真)を見ること。二つ目は『后里[土/川]−6』で紹介した、「隘勇古道」を実際歩いて見ることである。副産物も色々あり。前者に関しては、初めて訪れた際は川底への降り口を見付けられなかったが、再訪した際には直ぐに判った。水橋を渡る水を一部水橋脇へ落とせる構造(左写真)が敷設されており、川底へ安全に降りれるような階段組み、少し拍子抜けした。(続く)
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2018年12月15日

『水の古道』后里[土/川]−9

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【写真説明】「隘勇古道」は初回探訪時は古道入口の「大正五年総督府」石碑を確認したのみ、雨が降っていたこともあり、実際歩くのは止めた。再訪時は歩いてみたが、撮影した写真データに依るとほんの数分で歩き通せて仕舞い、全長数百メートル、こちらも拍子抜けしたのだが、実は大いに喜んだ。蚊の猛攻撃に晒されたからだ。お陰で(?)当時撮影した写真はブレたものが多い(左写真)。途中、古い案内板二枚あり、古道開鑿時の艱難辛苦の物語が記されている。出口(中央写真)はアスファルト道路に降り立ち、そこを横断した以降も古道は如光山寺迄伸びていることになっており(右写真)、実際歩いたがどうも騙された気分になった。要は真面目に歩く物好きは極僅かと云うことだ。手元の『台灣全覧』で確認すると「愛勇古道」と記載されている。(続く)
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2018年12月22日

『水の古道』后里[土/川]−10

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【写真説明】后里圳と言うより旧泰安駅を再訪した理由として二つ、后里圳渡槽と隘勇古道を挙げたが、二回目の探訪の折り、駅周辺を「水の古道」の観点から目を凝らしていたら色々面白い物にぶつかった。一つは泰安鉄道文化園区の北東側にある台中農田水利会のビル横に建つ日本式家屋(左写真)、この家屋に対する案内板なりを写真に納めていないので、少なくとも当時は準備中だったかもしれない。台中農田水利会本部ビルが斯様な片田舎にあるわけがないので、日本時代の后里水利組合の跡地と考えられる。台湾の水利組合は1922年(大正11年)に整備され、戦後台中水利会は、五つの地区の水利組合を統合する。現在台湾には全国17の農田水利会があるが、すべて日本時代の水利組合が前身である。その為、日本時代の建屋遺構をそのまま使い続けているか、改装再建している水利会は少なくない。その近くに、后里圳の支圳と思しき水路に架かった小さな橋、大安橋(中央、右写真)を見付けた。日本時代の遺構であることは、大安が泰安に改められたのは戦後であることからも判る。『台灣全覧』では七公圳の記載あり、同じく大安渓から水を引き込んでいる。(続く)
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2018年12月29日

『水の古道』后里[土/川]−11

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【写真説明】后里圳の水は最後は何処に流れ込むかと云うと、地下水路を経て、旧泰安駅西側、直線距離で2キロぐらいの場所にある水力発電所―現在の正式名称は「台湾電力公司、大甲渓発電廠、后里発電機組」―である。前身は台湾電力株式会社、后里発電所であり、ウィキペディア中文版にも詳しい解説がある。1908年(明治41年)台湾総督府に依り企画、設計、施工開始、1911年(明治44年)竣工、1919年(大正8年)台湾電力株式会社の管理下へ。。。驚くべきは、竣工当時の発電機とタービン(どちらもドイツ製;シーメンス/フォイト)が商業運転中であること。発電所外観(左写真、但し最上部の緑色の屋根を除く)も竣工当時のまま、発電所後部の水管も然り(中央、右写真)。構内見学は簡単に許可される筈と高を括っていたら、見事に謝絶された。今回掲載した写真は構外から撮影したもの。十分である。后里発電所こそは、后里圳の画竜点睛なのだ。(続く)
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