2019年11月02日

李棟山隘勇線−5:佐藤分遣所

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【写真説明】金子−佐藤分遣所の間に給水分遣所が設置されたことになっている。「給水」の由来は判らない。但し、明確な遺構に出会えず、何しろ金子−佐藤間は歩行僅かに10分程度の距離しか無い。『台灣山岳』ではここも「疑似」の扱いだ。古道片側に沿った崩壊を免れた長い石塁が特徴だ。(続く)
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2019年11月09日

李棟山隘勇線−6:八五山分遣所

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【写真説明】李棟山への稜線が高度を上げ始めた斜面を利用して築かれた「疑似」八五山分遣所遺構。李棟山隘勇線上最も完全な石塁であるが、写真に見るようびっしりと柳杉が植樹してあるので、林務局が手を入れたのは明らかだ。左写真は往路に、中央・右写真は復路に撮影した。右写真は石塁上の平地。(続く)
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2019年11月16日

李棟山隘勇線−7:太田山分遣所

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【写真説明】李棟山事件に於ける第二次武力衝突の現場だそうだが、目立つ石塁も無く、只だだっ広い隘勇線跡が交叉している場所で、太田山と云う山をイメージ出来るものに出遭えず。太田山は「李棟山事件」に於ける台湾総督府とタイヤル族の第二次武力衝突(1912年、大正元年)の際の攻防戦戦場で、原住民側が夏季の台風を利用し日本側の隘勇線を分断、最終的には日本軍・官警の死者205名、負傷者288名に至った。先に「李棟山隘勇線−1」の中で雑誌『台灣山岳』の記事タイトル「百名のタイヤル族戦士と二千名の日本軍の血戦」を紹介したが、前者の百名は想像にしても、後者は2,180人と云う日本側の記録がある。この第二次攻防戦を特に「太田山事件」と現在の台湾では表記しているが、台湾総督府文書では「事変」の表記ではないかと思う。因みに、「太田」とは、当時、新竹廳樹杞林支廳第二部隊第一分隊警部補、太田角太郎。大正2年(1913年)10月9日発布の以下の台湾総督府発令書中の名簿中に同氏名がある。発令者は海軍大臣男爵斎藤実・陸軍大臣楠瀬幸彦:
「件名: 臺灣生蕃討伐ニ從事シ死歿シタル警察官吏靖國神社ヘ合祀ノ件」。(続く)
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2019年11月23日

李棟山隘勇線−8:故桃園廰巡査渡邉要之墓

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【写真説明】この墓碑は往路では行き当たらず、復路の際探し当てた。現代の古道から外れた場所に佇んでいたはずだが、どうやって辿り着けたのか?記憶に無い。場所は李棟山頂上西側下、大混山古道と八五山古道の分岐点辺りだ(左写真)。李棟山事件に因む日本人の墓碑が残存しているのは聞いていたのだが、筆者は長らく勝手に集合墓地を想像していた。佐久間左馬太の五箇年理蕃事業計画の著名な推進例である「タロコ戦役」時の日本軍集合墓地が現存しているからだ―尤も一般人が現地を訪ねるのは山が深く無理なのだが。李棟山の場合、実際現存しているのはこの一基だけではなかろうか?とも考えたりもする。墓碑中央部分「故桃園廰巡査渡邉要之墓」の刻字は百年を経ても明瞭だ(右写真)。左側は出身地の刻字「宮城県志田郡鹿島台村」と辛うじて読める。右側には「大正元(年)(  )戦死」と読めるが(  )の部分は「年」を含め墓碑が欠けている。恐らく死亡月日と予想される。これで李棟山事件の第二次攻防戦、即ち太田山事件時に落命されたのが判る。台湾総督府文書に依ると、同氏の場合、大正4年(1915年)4月13日付けで、他199名と共に靖国神社に合祀されている。それでは、何故渡邉氏の墓碑のみが現地に存在しているのだろうか?(続く)
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2019年11月30日

李棟山隘勇線−9:李棟隘勇監督所(李棟山古堡)

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【写真説明】渡邉氏の墓碑から李棟山頂上迄の距離は15分程度であるが、本古道中勾配が最もきつかったような記憶がある。それでも拍子抜けするようにあっさり2006年10月以来約十年振り、第五代台湾総督佐久間左馬太の「慎守其一」石額が嘗て掛かっていた、台湾では李棟山古堡と通称される場所に出た。台湾では「監督所」又は「監管所」の両方の表記があるが、台湾総督府の呼称は、恐らく前者だと思われる。十年前この地に足を運んだ際、この日本人に依る台湾理蕃事業上最大の遺構は筆者にとって非常な威圧感があった。威圧感とはおどろおどろしい感覚だ。当時の戦闘で死亡した双方の気が充満していると云う感覚か?聖地である。当時は10月、台湾でも秋で季節感が影響していたかもしれない。台湾の山深く忽然と起立する大要塞の景観を次回の投稿で掲載する予定だが、二回目の2016年4月の同地へ到達した時の感覚は、余りにも明るくあっけらかんとしており、大要塞が何かしら薄っぺらな感じさえした。今もってその感覚の差異の由来が判らず。(続く)
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