2020年02月01日

特富野古道−8:達那社−2

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【写真説明】当時、トフヤ社と達邦社を同時に尋ね、その差が歴然としていたのは、以下の三点である:一つは達那社のクバの規模がトフヤ社のそれと比べ格段に大きいと感じた事、二つ目は偶々達那社の「戦祭」の前日であった事、三つ目は達邦社には日本時代の駐在所が復元されていた事である。それら各々を三回の投稿に分けて紹介したいと思う。まずは、達那社のクバ、三景。「特富野古道−6」に掲載したクバの構築案内だけでは、左・中央写真の撮影方角が判らない。只言えることは、左写真がクバ正面に向かい左側、中央写真が右側であることだ。何故この二枚の写真で正面、並びにその左右が判るかと云うと、右写真である。クバ構築案内中の「金草蘭」の達那社式鉢植えはクバ正面の左右に置かれるのだ。実はこの左写真を撮影した記憶が無い。実際はカメラを縦にして、左右の鉢植えを同時に写し込んでいることから、その前にトフヤ社のクバの案内板を読んでいたか?(通常筆者の性格からそれは有り得ないのだが)。いづれにしても不思議な一枚である。(続く)
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2020年02月08日

特富野古道−9達那社−3

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【写真説明】ツォウ族の戦祭「マヤスビ」は極めて著名である。本投稿本文中で詳細を解説しておいた。毎年ツォウ族二大大社であるトフヤ社と達邦社で各々挙行される。筆者が尋ねた折は丁度達邦社の戦祭の前日、2月14日だった。トフヤ社の戦祭も同時期に挙行(一週間違いとか)されるはずだが、当時トフヤ社の戦祭に関わる何物にも遭遇しなかったはずだ。例に依り筆者の記憶が跳んでいるのかもしれない。左写真は達邦社のクバ近くの住居壁に貼られた戦祭案内幕、毎年更新されるのかどうか?は判らないが、ビビッドな色使いが戦祭の性格を表している。中央写真はクバ正面前に設けられた戦祭観覧席である。右写真は達邦社のクバの軒に掛けられた伝統道具なのだが、「敵部族の頭骨を保管する籠」では無さそうだ。
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2020年02月15日

特富野古道−10:達那社−4

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【写真説明】達邦国民小学校正門横には、日本時代、「タッパン駐在所」と呼ばれていたはずの警察官舎が復元されている(左・中央写真)。「日警官舎」(Japanese Polis Official House)と題された案内板には次のような簡便な説明が施されている(筆者拙訳):「日本統治時代、ツォウ族をオンサイトで管理し易く、抗日事件発生を防止する為に、この地に官舎を建造し日本人警官の宿舎を供し、統治権力を強化した。」。右写真は、日本時代のタッパン蕃童教育所(1904年、明治37年創立)の面影を残す達那国小の正門階段。既に創立百年を優に越した由緒正しき小学校である。(終り)
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2020年02月22日

能高越嶺古道−30:古道東西分岐点

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【写真説明】筆者が能高越嶺古道分岐点として長らく勘違いしていた、南華山−能高山稜線と天池山荘から続く古道西段との出会い附近のパノラマ写真。同稜線南側の俯瞰で同写真中央に蒋介石筆に成る「光被八表」記念碑が写る。同写真中央が卡賀爾山、能高山頂上は僅かに右側に覗く、左側山塊は能高山南峰。この出会い、三叉路は能高[土|亜]口と呼ばれ、標高は約2,800bあるが、古道東西分岐点では無い。ここに掲載した三枚の写真は、古道東西分岐点の2019年10月時の状況。古道東西段と能高山登山道との三叉路に為る。同地での写真はこれら三枚しか撮影していない。能高山登山の復路時に再度撮影すれば良いと簡単に考えていたが、実際は、陽は完全に没し真っ暗闇、この分岐点迄戻って来たことすら判らなかった。
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2020年02月29日

能高越嶺古道−31:古道東西分岐点−2

【写真説明】前回記事で、能高越嶺古道東西分岐点が草深く東段の行方が見渡せず拍子抜けしたと記した。これは拍子抜けした記憶のみが強く残っていたからだと、その後当時撮影した写真を眺めながら気付いた。分岐点を能高山登山道の方に切れ上がると、南華山と能高山の稜線が狭い台地上に盛り上がっている部分に出る。此処迄辿ると、太平洋岸迄広がる古道東段を抱合する山と谷が連続する勇壮な俯瞰となる。それがこのパノラマ写真である。前回の投稿を起こす際にこの写真を撮影したことはすっかり忘れていた。能高越嶺古道の国家歩道に指定され林務局が管理している総延長は26.5`、西段延長は15.5`、高度差約800b、東段延長は11`、高度差約1,300b、これに加え、国家歩道登山口から更に車乗り入れ可能地点である宿泊施設のある奇莱保線所まで台電道路を歩く必要がある、その距離約5`、高度差約200b。斯様な塩梅なので、古道全段を踏破したい場合、西段から入り東段に抜けるのが普通である。更に、東段踏破の面倒な所は、一般自動車道省道9号丙線終点の銅門から旧省道14号線を経て台湾電力道路(奇莱路)を奇莱保線所迄辿る約14`間は車乗り入れ可能とは云え、必ず車をチャーターする必要あり、その費用5,500台湾ドル!(終り)
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