2021年06月05日

清代八通関古道(中路)−6

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【写真説明】卓渓山頂上から清代古道は玉里の市街地へ北東の尾根伝いに下りて往く。今も熱血漢が辿っているような踏み跡があるのだが、筆者は駐車地点に戻るべく、古道が開鑿された尾根から北側に降りた。今回の踏査行で辿った古道部は僅かに2`程度に過ぎない。今後少なくとも卓渓山頂上から玉里市街地までの全段(ダイヤグラム参照)を踏査する機会はないだろう。左写真は筆者が今回踏査した古道の最期の段。中央写真は古道脇で見付けた碍子。日本時代のものかどうか判らないが、だとしたら何故、こういうものが存在するのか?興味は尽きない。右写真は古道と筆者が駐車地点に戻る為に辿った登山道との分岐地点。古道は同写真右側へ逸れて往く。(続く)
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2021年06月12日

清代八通関古道(中路)−7

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【写真説明】前回の投稿に掲載したダイヤグラムの清代古道路線は筆者手元の25,000分の一市販地図からの引き写しである。玉里市街地に入る前に玉泉寺(上掲左写真)後方に設けられた遊歩道を横切り、台北栄民総合病院玉里分院の正門に入った所で古道表示が終わっている。そこから玉里市街地内の協天宮までは筆者が任意に線を引き、清代八通關古道(中路)の東側起点とした。玉泉寺は昭和5年(1930年)の創建、明代末期に中国から台湾に渡って来た在家仏教の一つ斎教(さいきょう)の一派の斎堂(或るいは菜堂:日本語風に言えば道場、講堂に相当)が始まりとの由、玉里市街地区では協天宮と並ぶ由緒正しき廟堂である。
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2021年06月19日

清代八通関古道(中路)−8

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【写真説明】協天宮と八通関古道との関係は「安通越嶺古道−2」でかなりのスペースを割いて紹介したが、実際協天宮を清代八通関古道の東側起点とするのが正しいかどうかは未だ判らない。但し、清代八通関古道、即ち明治7年(1874年)の牡丹社事件(征台の役、台湾事件、台湾出兵等々)以降清朝に依り開鑿された三本の台湾東西横断道の中の「中路」(「北路」=蘇花古道、「南路」=崑崙拗古道)の開鑿事実を証明する「後山保障」の扁額は国宝級である。今回訪問した際は協天宮の内外を各々一枚撮影してきたが生憎の雨天、外観は普通の廟堂なだけにくすんだ写真になり残念、思わず頭(こうべ)が垂れる、長さ240a、幅75a、厚み3aの「後山保障」扁額の写真は新たに撮り直したものである。本堂内に中・英・日文で書かれた花蓮県文化局に依る新しい案内板があったので、日本文紹介をそのままここに掲載する:

玉里協天宮の後山保障扁額は木製の扁額で、黒漆の地に金漆で、中央に楷書体で「後山保障」の四字、右に「光緒七年辛巳孟冬吉立」、左には「欽加總鎮銜總帶飛虎左營兼理中路招撫墾務福建即補協鎮府提督呉敬奉納」と彫られ、額縁には金龍の浮彫が施されています。清代・光緒元年(1875)、総兵呉光亮が飛虎将軍を率いて東西山道の工事を行い、璞石閣(現・玉里)に到達し、今の協天宮の所在地に駐留した時、関聖帝君(関羽)の分霊を携えてきた人がいたと伝えられています。光緒7年、後山(旧時の花蓮の別名)に疫病が起こります。呉光亮は関聖帝君に加護を願い、陣地に草葺きの廟を建て、像を作って祀り、「後山保障」の扁額を手書きにしたのが、協天宮の始まりといわれます。後の研究と扁額にある職名から、寄進者は弟の呉光忠であることが分かっています。「後山保障」の扁額は、今では協天宮の宝になっています。清朝末期の国家勢力が東台湾に入った歴史の証拠として、史的意義をもちます。(続く)
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2021年06月26日

清代八通関古道(中路)−9

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【写真説明】玉里神社は台湾内の神社遺構としては規模が大きく地方政府が保存・啓蒙に積極的に努めている好例だと思う。筆者自身は過去複数回訪れたことがあるので、今回卓渓山から下山した後殊更再訪してみようと云う気は強く無かった。何よりもこれまでの知見で清代、日本時代双方の八通関古道との関り合いは無いと見做していたからだ。ところが新ためて第一鳥居附近に立てられている案内板を読んでいたら、日本時代八通関古道と玉里神社、その第一鳥居の脇に控える「表忠碑」は繋がるのである。「表忠碑」、「玉里神社遺址」、序でに再訪した玉山国家公園南安ビジターセンターに安置してある「八通關越警備道路開鑿記念碑」(前出は「八通関古道−10」)の順にその各々の現場紹介文を以下訳出する。更に玉泉寺の創建は八通関越警備道路より後になるので、同道路沿いに鎮座していた可能性が高い。訳出した紹介文中の[ ]内は筆者註である:
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