2022年01月01日

《嘉義県の古道》出水坑古道−2:篤鼻山・青園山(四大天王山連峰)

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【写真説明】先ず竹崎大坑山頂上から望む四大天王山連峰の大判の写真を埋め込んだ。「《嘉義県の古道》水水古道(竹崎郷)」で紹介したパノラマ写真と比較すると左側(北側)のピークが明瞭だ。出水坑古道から続く稜線で、篤鼻山、青園山北峰、青園山、知鳥山、四天王山と実際は五峰が並ぶ。篤鼻山山頂のみ三角点(地籍三等)が埋定されている。同写真の左側稜線の最初の鞍部から台地状の稜線間が出水坑歩道並びにそれに続く産業道路の部分に相当する。そこから登りの登山道となり連続する三座のピークが左側から篤鼻山、青園山北峰、青園山、そこから大きく切れ込んだ鞍部に続く右側二座が知鳥山と四天王山となる。ここに掲載した三枚の写真は筆者が先月登った三座各々の頂上の風景である。何れも眺望無し。

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2022年01月08日

《嘉義県の古道》大坑山古道−2:大坑山基点峰

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【写真説明】大坑山歩道の方が圧倒的に人口に膾炙しているので、大坑山をその歩道が整備されている山間部と誤解している向きは多いようだ。三角点を擁する大坑山については、これまでの嘉義県の古道を紹介する中で、既に数葉の写真を掲載して来た。良く目立つと云うのもあるが、すくっと立ち上がった三角錐の山容は筆者の好みである。そこで是非登ってみたいと云う思いは強かった。ところが、ネット上での山行記録が非常に少ない。しかもその内容から察するに、登山口迄の道路状況が劣悪でハイカーに敬遠されているのだと考えた。要は四輪駆動車が無ければ嘗ての登山口迄のアクセスは危険極まりないと云う意味である。そこで、阿里山一帯の道路事情に精通しているG博士の弟に筆者の社有車(カローラ)を運転して貰い、とにかくアスファルトかセメントで舗装されている限りは入り込んでみることにした。大坑山歩道方面、大坑山東側からのアクセスに挑戦した。結果は散々だった。最後は最近地場の農民の作業車さえ入り込んだことが無いのが明白な、車道両側から茅が多い被さり路面が見えない状態の中をそのまま運転、そこを潜り抜けると物置らしき一軒の家屋があるちょっとした広場状の場所に出た。そこで急に視界が開けた。山頂直下である。更にコンクリートの幅の広い登りの車道が付いている。頂上だ。頂上にはコンクリート製の「逍遥亭」と額した大振りの東屋が立つ(左写真)。山頂付近に東屋が立つのはネット上で探し出した登山記録に付された写真で見てはいたが、山頂に立っているとは思わなかった。草茫々の中に寂しく佇んでいるものとばかり予想していた。竹崎市街地の足下の眺望、その先の獨立山を含む阿里山方面の山塊。。。大坑山の位置からして、息を呑むような大パノラマも当然と云ったような風情だ。地籍三等三角点は逍遥亭の東側にある(中央写真)。筆者の車より大型の乗用車で乗り付け逍遥亭で喫茶を楽しむ一団と出会う。明らかに山登りとは無縁の出で立ちだ。筆者が辿って来た同じ産業道路を潜り抜けて来たとは思えない。詰り、山頂迄至る別の車道があるということだ。筆者の車体に無数の引っ掻き傷を作りながら抜けて来た道路は、物置小屋脇の小広場からそのまま広く快適な車道に替わり西側に下って往くのだが、暫く下るとピカピカのお寺が現れた。佛寶寺である(右写真)。ここから大坑山頂上へ至る登山用階段が付いているのを確認した。漸く合点が行ったのは、何故大坑山の山行記録が極端に少ないかということだ。普通車で山頂迄辿れる山に対しわざわざ山行記録をネット上で公開する意味は無いのだ。それでも筆者にしてみれば普通車も運転手の技術と勇気の持ちようでは四輪駆動と引けをとらないぐらいに悪路を走行可能と云う痛快な発見だった。(終り)
posted by 玉山 at 09:28| 台北 ☁| Comment(0) | 《嘉義県の古道》 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月15日

六亀特別警備道−31:第53宿「大津」(2)

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【写真説明】左写真は茂林国家風景区の入口の大門、2001年5月、二十年前の撮影だが今もこのまま、この大門を潜る前に右側に遊楽客用の駐車場があり、そこが「大津」分遣所跡地であることが判明した。中央写真は前回「大津」投稿記事に掲載した中央写真と同じ位置から撮影したもの(2017年4月)だが、稜線突端の右側下に写る白い路側ガードの連続点の道路を隔て向い側が大津分遣所の特定点である。右写真は、GPS座標が示す大津分遣所跡地の大門横の駐車場、この稿を起こすに当たり今朝方片道60余`、約1時間のドライブの末の撮り下ろしである。大門の後方は六亀警備道最南端稜線の終端部分だ。下段左写真は風景区大門手前にあるビジターセンター傍の掲示板(2017年8月撮影)で、大津の跡地は上から二番目の駐車場(「P」)と三番目の障害者用駐車場の中間辺りに相当する。上段左写真の大門は「牌樓」と記されている。この案内図と同じ位置をグーグルマップで切り取ってみた。案内板地図と合わせる為に上を南にした。筆者がそれまで想定していた分遣所位置である大安禪寺と実際の位置は直線距離で300b程差がある。ところが、日本時代の地形図(下段右写真)だと大津は随分標高の高い所に表記されている。詰り、実際の位置は謎と云うことになろうか?
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2022年01月22日

六亀特別警備道−32:「日本橋」(1)

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【【写真説明】当時の地形図(例:左写真『臺灣全圖』昭和14年台湾総督府警務局第五版、30万分の1)にも表記があるので「日本橋」分遣所が存在したのは明らかだ。但し、その位置については、現在の高雄市桃源区区役所(行政区画上は、桃源区桃源里)の荖濃渓を隔て対岸にあることまでは地形図でも判読出来るのだが、対岸の何処なのか?とにかく対岸に渡りそれらしい遺構に当たるかどうか試してみようと云うのが2006年2月と5月の踏査行だった。結局それらしき遺物には当たったのだが、「日本橋」跡かどうかを確認する手立ては無く、それから長らく踏査は放り出していた。同地形図上表記のある「ガニ渓頭社」住居遺構だったのかもしれない。そこで画期的だったのが、前稿出の『日本時代臺灣蕃地駐在所建築之体制與實務』に収録されているGPS座標である。この論文に日本橋が収録されているのをご教示くださったのはM氏である。筆者が踏査した区域よりかなり南側、且つ荖濃渓縁(へり)である(中央写真)。同論文のコメントは「荖濃渓畔」だ。右写真(2006年2月撮影)に写る集落対岸の畑地と思しき二つの出っ張りの内の手前の方だ。前回は、目標地よりかなり上流側、しかも標高の高い場所を徘徊していたということになる。「大津」分遣所跡地の駐車場の写真を撮りに出掛けた翌日、「日本橋」分遣所遺構を確認しに出掛けた。前者までは筆者のアパートから1時間強のドライブになるが、後者までは優にその倍の時間が掛かる。(続く)
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2022年01月29日

六亀特別警備道−33:「日本橋」(2)

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【写真説明】高雄市桃源区区役所がある同区の行政中心地域は、玉山国家公園方面に向かう台27線沿いにあり、日本時代「ガニ社」と呼ばれたブヌン族集落である。荖濃渓右岸の河岸段丘上に集落は形成されている。集落の載る河岸段丘の標高は約615b、荖濃渓対岸の標高約560bの同じく河岸段丘上に日本橋分遣所は設置されたのだが、対岸の何処なのか?全く見当が付かなかったのは前稿で述べた通りだ。以前はこの集落から荖濃渓対岸へ渡るのに河床に道路が敷かれていた。グーグルマップで見ると以前は掛かっていなかった[口|戛][口|拉]鳳(カラブン)吊橋が掛かっている(左写真、荖濃渓左岸側から撮影)。2014年竣工、全長180b弱、吊橋名のカラブンと旧社名ガニとの関係は知見無し。筆者は、恐らく毎年ルートが変わる河床道路は昔のまま通行が可能で、新吊橋は観光用の徒歩でしか渡れないものだと想像していたのだが、どちらも裏切られた。前者は、多分昨年夏の台風襲来時の洪水の為に両岸が断裂されたまま、後者は実際歩いている際は気付かなかったのだが、小型車なら通行が可能なことだ。筆者の当初の希望は車で対岸に渡り、あわよくば、嘗ての踏査行時(前稿右写真撮影時)に徒歩で辿った農道―台湾総督府殖産局山林課埋定の森林三角点のある留佐屯山西峰へ至る登山道、頂上付近に第1宿「品川」分遣所遺構があるハズ―に普通車で乗り入れ可能か?を調べたかったからだ。

吊橋を渡り切りそこを走るセメント舗装の道路(ガニ農路主線)を右側、即ち南側に折れる。直ぐに留佐屯山西峰方面への三叉路に行き合う。最初からいきなりの登りで筆者の運転技術では疑問の急坂が見て取れる。そのまま農道主線の緩い坂を登り切ると再び三叉路に出会い、右手は荖濃渓左岸川岸方向へ下る道が付いている。その先の平坦地に農園が拡がっている(中央写真)。『日本時代臺灣蕃地駐在所建築之体制與實務』から拝借したGPS座標にどんどん近付くので、日本橋分遣所跡地はその農園内にあることは容易に想像が付いた。この二つ目の三叉路の出会いは少々意外な気がした。藪の中に切り込まねばならぬことを覚悟し鉈を携えて来たからだ。加えて、譬え嘗て駐在所遺構が残っていたにしても、農園が拓かれた時点で一掃されてしまったことも想像出来る。農園への下り坂を降り切ると作業小屋がありその脇を通る小径を行くと、農園と川岸の突端の間にこじんまりとした梅園があり、満開を過ぎてはいるが白い花を咲かせていた(右写真)。(続く)
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