2022年10月01日

内本鹿越嶺古道西段−7:バリサン段(7)

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【写真説明】内本鹿警備道のバリサン段支線の最後は陸地測量部に経緯を表し、バリサン山陸測三等三角点で締め括る。点名不詳。出雲山林道起点を登山口とすると、目指す頂上は標高マイナス450b、最後の頂上への林道のアクセス口(左写真右側)は、バリサン駐在所跡から約850b。(終り)
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2022年10月08日

内本鹿越嶺古道西段−8:藤枝林道段(1):「中心崙社」

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【写真説明】国立台湾大学の研究に依ると、現在の藤枝林道(荖濃渓林道とも、どちらが正式呼称か筆者は未だに定かならず)に内本鹿警備道の最西端として配置された駐在所は、藤枝から順に、「森濤」、「宝山」(原文は旧体字)、「土龍湾」(台湾側表記では通常「龍」は土篇)となっている。以上を筆者の手元の市販地図+筆者知見と合わせると、以下の通りで、先の投稿記事の通り、藤枝森林遊楽区入口に並立する派出所は森濤なので、台湾大学の「松濤」の取り扱いが判らない。以下表記の順番は次の通り。(「台湾大学表記」)、(市販地図帳表記)、(現代通称)、(藤枝林道`数)、(現代行政区画):

・「藤枝」、森濤、藤枝、19.5`、高雄市桃源区宝山里
・「森濤」、ニ集団/松濤、ニ集団、15`、同上
・「宝山」、中心崙(チュウシンロン)、宝山、11.5`、同上
・「土[土|龍]湾」、興龍、興龍、0`、高雄市六亀区中興里

又、『三十萬分一台湾全圖』第5版と現代地図帳の藤枝林道を重ね合わせて看ると、両者の接点は藤枝以降は「チュウシンロン社」だけであり、これも台湾大学の森濤存在、出所を疑う理由である。左写真は、宝山派出所、林一宏リストに依れば中心崙駐在所の後継と推測されるもの。どう写真に写る道路は藤枝林道。中央写真は宝山社区発展協会(右)と衛生室、日本時代からの遺留家屋の趣あり。右写真は前両写真と同じ場所から二集団方面を望む。大きく写る山は頭剪山。同写真左側の建物は、旧宝山小学校、今は台湾大学の森濤、即ち通称二集団の方へ移動している。(続く)
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2022年10月15日

内本鹿越嶺古道西段−9:藤枝林道段(2):「土[土|龍]湾]

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【写真説明】嘗て表題の地名で呼ばれていた現在の行政区画は、高雄市六亀区中興里興龍社区である。位置を最も簡便に言い表すには、「六亀市街地の荖濃渓に掛かる六亀大橋を隔てた対岸」、或いは「六亀大橋の向こう岸」で十分適当だと思う(埋込ダイヤグラム参照)。過去二十数年、何回この地を通過したことか。「興龍」への改名のパターンは二文字化(オリジナル地名三文字を「龍」で代表させた)と雅語(この場合は「興」)の組み合わせである。安倍の『臺灣地名研究』には残念ながらこの地名は採録されていない。日本時代の地形図を確認すると、龍の文字は、「つち・へん」、「つち・あし」、「さん・ずい」、龍ママの四つのバリエーションがあることが判るが、主流は土扁だと思う。この灯台下暗しの典型的なストーリーである土[土|龍]湾という地名が筆者の気を大いに引いたのは、これまで投稿して来た今年の六亀警備道踏査の延長である内本鹿警備道西段起点としてである。しかしそれは事の始めであって全てではない。本稿は本来『水の古道』とカテゴライズさせるかどうか少々悩んだ。
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2022年10月22日

壽山古道−25:『壽山古道−19:「日軍爐灶」』(2)

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【写真説明】壽山国家自然公園はこのダイヤグラムに示された東側から壽山(地図上では柴山)、亀山、半屏山の三山を抱合する。左写真は亀山と半屏山の間に鎮座する蓮池潭の畔のアトラクションの一つ、巨大な龍虎の張り子(2002年8月撮影)。嘗ては国内外双方旅行者向け定番観光地だったが、当時からここに写る巨大な張り子は定番化と陳腐化を促進する道具建てだったと思う。実際蓮池潭は清の時代からの由緒正しき名所旧跡であり、国家自然公園として新たな装いを整えつつあると思う。中央写真は高雄空港へ着陸寸前の機内から撮影(2005年8月)した壽山(左側)と半屏山、亀山は標高が低く写真上では認識し辛い。右写真は壽山山中の展望台より望む蛇山(壽山北面、2017年5月撮影、亀山に対する風水上の命銘だと思うが今は殆ど死語、軍管制区域で一般人は入山禁止)、亀山、蓮池潭、半屏山。このように三山共々お互いに見通せる位置関係にある。
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2022年10月29日

壽山古道−26:「日軍爐灶」(3)

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【写真説明】柴山登山を日課の宗としている向きには「四口灶」で通じる日本軍厨房遺蹟は以前から良く知られた場所なのだが、人口に膾炙している割には、何故日本軍が当時柴山山中に厨房など設営したのか?その由来は語られないのが通例だった。筆者が現地に案内を得たのは2017年4月、当時は一人での再訪も可能と考えていた。丁度五年後の今年、実際一人で辿ってみたのだが、GPS情報を持参しながら大いに迷い、再訪初回は現地に行き付けなかった。再訪二回目も初回と同じく遺構現地の直ぐ傍まで達しているのは理解できてはいても遺構への出入口が見付けられなかったのは初回と同じ。最後はその出入口の上空から侵入するような無様な塩梅になった。五年を経て再度四基の竈(かまど)が並ぶ遺構を尋ねる気になったのは、一つは厨房が震洋特攻隊の「預備撤退山洞」(退避壕とでも訳せようか?)であったと云う情報を得たこと。本ブログの読者には蛇足と思うが、ウィキペディア日本語版に曰く「震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器(小型特攻ボート)」。『壽山古道−16:「柴山部落越嶺古道」−2』にてさらりと「柴山阿朗伊古道」に言及したが、壽山の震洋格納庫・発進基地はこの新規のハイキングロードの延長線の海岸線上にある。因みに、「爐」の訓読みは「いろり」、「炉」は異体字、「灶」のそれは「かまど」、「竈」は異体字。二つ目の理由は厨房として独立した箇所に加え、三箇所の退避壕と一箇所の給水遺構も残存しているらしいとのこと。殊に後者は新規の『水の古道』の発現となるか?こんな情報、過去二十年柴山へ通い続けても入って来ず、従って、筆者自身の五年前の探訪時の知見は皆無。今になってと嘆きたくなるが、これも国家自然公園への昇格と武漢肺炎禍と無関係であるまい。上段は竈の詳細描写を11x9版で。下段写真は、厨房に近い方から退避壕1、2、3号(現地では「坑道」と通称)、各退避壕は百人近い人員を収容可能との記述を見たことがある。初回探訪時撮影された「壽山古道−19」に掲載の一番左側写真はどうも第1坑道入口の様だが、実はこれらの退避壕に遭遇した記憶が無い。第2坑道の近くに上述の素人目にも特殊な供水システム遺構がある。(続く)
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