2009年11月21日

関山越嶺古道−4

Kodou-449.JPG Kodou-451.JPG Kodou-450.JPG
【写真説明】左写真は古道東段起点、台東県海瑞郷(日本時代のハイトワン社)入口。旧警備道はここから新武呂渓を遡る。中央写真は、新武呂駐在所跡、現在の新武で見付けた。トタンで葺かれているが以前の駐在所の建物をそのまま使っているのには驚いた。一般のハイカーにとっは、関山越嶺古道=中之関古道、嘗ての全長170キロのうち僅かに4キロ弱を切り取ったに過ぎない。何故この段だけを千切ってきたかは、やはり古道西段が国家公園に内包されるからだろう。東段でこのくらいの古道を切り取ってくるのは然程難しいことではないとは考えている。但し、では東段の何処に古道が走っているかは一般向けの紹介で探し出すことは難しい。毛利之俊原著「東台湾展望」の中文復刻版を手元に、数度丁寧に南横沿線を辿ってみたことがあるが、なにせ、時間が余りにも限られている。写真は東段下段で車を運転しながら偶々見付けた東段の一部で、場所は嘗ての新武呂(現在の新武)とカホワザン(現在の嘉賓)の中間付近、自動車道左側岩壁上方に開鑿された警備道が見えている。正に今回の記事で紹介する「サクサク道路」だった部分だ。

[警備道開鑿の背景-「サクサク道路」]
さて、何故当時の台湾総督府は中央山脈南部を跨ぐこのような大警備道を開鑿したのかについては、以前「台湾の声」へ寄稿した「八通関古道」と「六亀特別警備道(扇平古道)」で触れたことがある。本警備道開鑿の経緯を概観するとなると、1914年(大正3年)に開始されるブヌン族に対する武器・弾薬没収を契機に激化する、ブヌン族対総督府の広範囲且つ長期間に渡った抗争を概観する必要があるが、それは今回の投稿の主旨ではないので割愛する。西段は[艸/老]濃渓、東段は新武路渓流域に点在していたブヌン族に対する警備道だったという説明に留めてくが、以下の当時の「台湾日日新報」の連載記事からの抜粋は、本警備道の性格と当時の状況をよく伝えていると思うので、そのまま掲載する。

記事名は「総督の東台湾視察 随伴後記」(中曽根特派記者)で1928年(昭和3年)に発表、総督とは第十二代川村竹治のことだ。記事は総督に同行し警備道東段、台東側に足を運んだ際書かれたもので、この時点では六亀までの警備道全段はまだ開通していなかっら。記者の勘違いか、或いは当時は実際そう計画されていたのかは判らないが、実際の警備道は記事に書かれているように関山の南に位置するハイノート山(現在台湾表記は「海諾南山」。標高3,175メートル、台湾百岳77号)と関山の鞍部ではなく、関山よりかなり北側の鞍部を越えるように開鑿されたし、叉、八通関越と関山越の二つの警備道は結局繋がらなかった。この二つの警備道の間を神出鬼没していたのはブヌン族だけで、今でもこの二つの古道を繋いでいるものは登山道だけだ。同連載記事の別な箇所に当時「全島一物騒千万な管内」との表現が出て来る。

尚、本記事は神戸大学付属図書館デジタルアーカイブから抽出してきたもので、電子化されたテキストには句読点がないので、私の方で適宜加えた:

「…次いで新武呂駅(註1)に達するが、これがサクサク道路(註2)の基点であって、有名な兇蕃アリマンシケンやらラホアレの蟠居している奥地に通じている。全島唯一の厄介な彼等未帰順蕃を袋の鼠にするためにサクサク道路が開鑿され、今この駅から七里三十丁を逆ったプルプル(註3)まで出来上った途中にある、サクサクの高台とプルプルとは要害の地なので、共に砲台を築き附近の高山蕃を瞰下し、万一に備える等正に戦時気分が漲っている。毒毒しい蕃山の茂りの中に羊腸とした九十九折の山路(註4)が見え、奥へ奥へと際限なく続いている。理蕃政策の幹線ともなるこの道路は、本年度に於て一万二千余尺の関山の麓に出て次いで一万四百尺のハイノート山との鞍部を越え、屏東郡下から北進するラックス道路(註5)と合し、新高山の頭部老濃渓を辿って八通関道路に至るもので、行程十数里、昭和四年度に完成する予定であるが、名が負う兇蕃の本拠地、而も今夏郡大蕃(註6)の誘引に成功して頓に勢力を増大した彼等の事とて、どこまで頑強に抵抗するかが問題である。一月以来送電を中止しているものの、いつでも送電し得らるる警戒線が沿道帰順蕃の万一に備えられている程、この地方は物騒千万な処である。」 >(メルマガ「台湾の声」2009年5月9日掲載分の一部を改編)次回へ続く...


(註1)現在の台湾鉄路海端駅。台東県海端郷海端は日本時代はハイヌワンと称されていた場所。
(註2)現在の台東県海端郷新武東方の標高1,300メートル強の山中にあったブヌン族の部落サクサク社に因む。
(註3)現在の台東県海端郷霧鹿。
(註4)プルプル社−リト社(現在の利稲)−マテングル社(同摩天)−カイモス社(同吉木)に掛けての警備道の様子を表現したものだと思う。現在の南横も同じように蛇行しながら高度を稼いでいる。
(註5)関山越警備道西段、[艸/老]濃渓沿いにあるラックス社(現在は高雄県桃源郷樟山に移遷)に因む。当時は同警備道東段をサクサク道路、西段をラックス道路と通称していたのかもしれない。
(註6)現在の南投県信義郷の大郡渓沿いに居住していたブヌン族。八通関越警備道側。
ラベル:台湾 台湾古道
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 関山越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック