2011年11月19日

合歓山越嶺古道−15

Kodou-784.jpg Kodou-785.jpg Kodou-786.jpg
【写真説明】:錐麓古道の駐在所三箇所の跡地の現況を示す写真を掲載する。左から、バタカン駐在所、断崖駐在所、錐麓駐在所。バタカン駐在所跡地の規模は広大で、今回掲載した写真以外に当時の遺構が豊富に残るが、他の二駐在所に関しては総じて写真を見ての通りである。各駐在所跡には林務局に拠り当時の間取り見取り図が案内板で紹介されている。

<台湾古道の白眉=「錐麓断崖道路」>−4
[再掲:錐麓断崖道路ランドマーク]
燕子口→錐麓吊橋→バタカン駐在所跡→バタカン二号吊橋→一号トンネル→二号トンネル(地蔵菩薩+大正時代の日本人落書き)→[錐麓断崖]→断崖駐在所跡→「故花蓮港庁巡査班長持舘代五郎之碑」(殉職碑)→錐麓駐在所跡→慈恩橋

燕子口入口には緑色の鋼鉄製吊橋が掛かり、タツキリ渓を対岸に渡る。この吊橋は錐麓吊橋という名前が付けられているが、同地上方に日本時代、合歓越道路がブロワン社とバタカン社を結ぶ目的で山月橋(註10)が掛けられていたので、新山月橋とでもしておけばよかったかもしれない。

吊橋を渡り切ると、半時間足らずの急な登りの後、まずバタカン駐在所跡に出る。広々とした空地で、当時はバタカン倶楽部という宿泊施設もあった。当時のコンクリートの門柱がそっくり残っており、しかも、よく紹介される当時の写真に写る「花蓮港庁研海支庁バタカン警察官吏駐在所」の木製表札を掛けていた鉤(かぎ)もそのまま残っているので、同じ表札を拵えそこにそのまま掛ければ当時の有様が髣髴とするような錯覚に襲われるぐらいに、駐在所跡地は奇麗に残っている。

その後、断崖駐在所跡、錐麓駐在所跡と日本時代の遺跡を通過し、最後は従前の古道が大きく崩壊した岩石地帯に出て急下降、渓谷に磨かれた目が痛くなるぐらいに真白な大理石がごろごろしている河原が現れ、やがて慈恩橋上方に出て、そのまま中横脇の休憩所に出る。(2011年4月29日メルマガ「台湾の声」掲載分を一部改編。続く。。。)


(註10)「山月橋」:ブロワン社跡地は現在は布洛湾遊楽区と呼ばれ、宿泊施設を併せ持つ瀟洒なレクリエーションセンターになっている。その宿泊施設の経営母体は台北のリーダー(立徳)ホテルで同遊楽区内の施設は「布洛湾山月邨」と名付けられているが、山月は日本時代の橋の名前から取ったもの。尚、下掲写真は、断崖駐在所を過ぎ錐麓駐在所方向へ向かうとすぐに行き遭う「故花蓮港庁巡査班長持舘代五郎之碑」である。

Kodou-787.jpg
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 合歓山越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
バタカンの様子について野上弥生子は
『宿のまえに短い坂をもって立っている駐在所と、その下に二三並んだ内地人の家よりほかには、住み家らしい住み家はない。急な斜面の荒地の上はちらほら蕃屋が見え、…』(昭和13年)と書いています。
《世界紀行文学全集13》修道社昭和35年発行より
Posted by メイウェンティ at 2011年11月20日 21:50
メイウェンティさん;

コメントありがとうございます。成る程、私は如何にも広々として往時まるでちょっとした街の様子を呈していたような書き振りになっていたかもしれませんね。野上弥生子の記述は正確なことが判ります。現地の案内板に紹介された見取り図に拠ると、人が明らかに起居していた場所は以下の通り;

住家(2)、警手宿舎(1)、外地警手宿舎(1)、原住民挑夫暫宿区(1)、倶楽部(1)

これらに加え、以下の生活施設有り;

教育所(1)、倉庫(2)、厠所(2)、浴室(1)、菜園(1)、鶏舎(1)、水塔(1)、水槽(1)、洗手台(1)。(了)

Posted by 玉山 at 2011年11月22日 22:22
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