2011年12月03日

合歓山越嶺古道−17

Kodou-791.jpg Kodou-792.jpg Kodou-793.jpg Kodou-794.jpg
【写真説明】緑水合流歩道の4枚。同歩道は錐麓古道の西側延長部に相当する。休息施設が各々完備された緑水(西側)と合流(東側)を結ぶその総延長僅か二キロ足らずの歩道で、両側出入口が中横脇にある為、誰でも気軽に散策出来る。左一枚目は、合流入口に近い古道の様子、左二枚目は、古道途中にある「弔霊碑」、日本人警官合計四名の合同殉職慰霊碑、当時の殉職とは殆どが馘首。右側二枚は、緑水に近い側の古道の様子。右端写真は、古道と現代自動車道たる中横の関係を見事に切り取った一枚。

<台湾古道の白眉=「錐麓断崖道路」>−6
錐麓古道は総延長16キロという説明をよく目にするが、上述のように、実際は10キロ強、これに緑水合流歩道1.5キロ、それに続く文山歩道(註11)4キロを加えた段を指しているようで、これらは確かに錐麓古道の延長である。

後者は八八水災以降立ち入り禁止になっているが、前者は非常に短い段にも拘わらず、当時の合歓越道路の特徴を色濃く残したミニ錐麓断崖道路とも呼べる段だ。中横の二つのサービスエリア、合流と緑水を結ぶ形で整備されており、自動車道からの高度がそれ程乖離しておらず、且つ平坦な為、誰でも気軽に散策が楽しめる。合流側に大正年間に殉職した四人の警官の「弔霊碑」(註12)も残されており、古道の性格をよく伝えている。(2011年4月29日メルマガ「台湾の声」掲載分を一部改編。続く。。。)

(註11)「文山」:天祥から中横が高度を上げ始めるとすぐの場所にある、渓谷沿いの文山温泉のこと。日本時代の深水(ふかみ)温泉。タロコ戦役中、深水少佐が発見したことからそう呼ばれた。数年前、温泉上部の岩盤が崩落、死者が出た為、現在立ち入り禁止となっているが、地元の人は相変わらず利用している。

(註12)「弔霊碑」:大正3年〜大正11年に掛けて殉職した日本人警手二名、巡査二名の殉職慰霊碑で、もともとは合流駐在所にあった墳墓を昭和12年になり移設したものである。緑水側にも以前「海鼠山道路建設碑」が残っていたが、今は消失している。大正3年、タロコ戦役中にバタカン−海鼠山(緑水北方)間に軍用道が開鑿されたのを記念したもの。この道路は今でも残存しているが、一般のハイカーには歩行は無理である。
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 合歓山越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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