2012年05月05日

パイワン族秘道−52:大亀文王国−4

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【写真説明】旧内獅頭社跡。初回訪問時はその在り処が判らなかったのだが、普通乗用車で乗り入れが可能なので、草木が定期的に切り払われ家屋跡が保存されている場所が散在していた。左写真は自動車通行可能な道路(産業道路)脇にある家屋跡。同写真中央に写る表示板はこの住居の持ち主とその家族の家系図が示されている。この手の表示板は私がこれまで訪ねたパイワン族旧社では初めて目にするものだ。中央写真は自動車道から離れ更に奥にある住居群へ通じる道で草木が丁寧に刈り取られている。右写真は中央写真奥にある住居跡の一例。尚、これまで掲載した記事の現集落、旧集落の位置関係をざっくり理解して貰えるようダイヤグラムを掲載した。

結論から先に言えば、大亀文王国の首都たる内文社までとうとう辿り着いた。思い立ってから足掛け三年掛かった。時間も無く天気も芳しくなかった為、ぎりぎりまで現地の案内人無しで入ることを模索していたが、最後になりその足掛け三年、T博士に間歇的に連絡を取り続けて貰った努力が実り内獅村の阮理事長直々に案内していただけるという幸運に恵まれた。

核心部の記事は後回しにして、その内文社からの帰り、もう一度、内獅頭公学校跡に立ち寄った際のことを少し書くことにする。前回訪ねた折所在のはっきりしなかった旧内獅頭社跡を確認したかったからだ。加えて、内文社踏査の「収穫」の余勢を借り内獅頭社内にもあったと予想される神社(祠)跡の探索も同時に試みた。

後者は発見出来なかったが、神社探しが結局は旧社跡に導いてくれた。

日本統治時代の原住民集落の典型的な構成は、一番高台に神社、次が駐在所等の官舎、それから教育所(内獅頭社の場合は公学校)と校庭、その下に集落というものである。この伝手でいくと、公学校跡地の上部の何処かに神社が築かれたはずだということで、校庭脇を山側に辿る広く開かれた道路を辿り校庭の裏側に廻り坂を登るとやがて旧社跡に出食わした。

コンクリートの舗装道路は公学校跡手前で切れてしまうが、道路幅は変わらないのでそのままま公学校跡まで普通の乗用車が入り込めるし、そのまま旧社跡までも車で辿れる。従って、山道をひたすら登るような苦労せずとも始終尋根は可能であり、事実、花が捧げてある旧家屋が散見された。現在地と旧社跡地との距離は産業道路たる車道8キロ程度だ。尚、その後の聞き取り(情報元は阮理事長の岳父)で、本社には神社は無く、公学校の校長室に神棚があったとの由。又、その写真は獅子郷郷公所に保存されているとのことである。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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