2012年09月22日

合歓山越嶺古道−37(研海林道)

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【写真説明】左写真は合流キャンプ場横にある岳王亭からタッキリ渓を渡る吊橋。対岸が研海林道へ至る登山口。吊橋の袂には豪快な滝が落ちており、登山道はこの沢に沿う。右写真は吊橋を渡り切り暫く登った場所の登山道の一景色。本文記事最後に掲載の写真は、吊橋を渡り切った場所に掲示されていた警告板。

次はB案、研海林道を試みる。研海の由来は、本ブログでも「蘇花古道−15」や「合歓山越嶺古道−4」で紹介済みだ。第五代台湾総督、佐久間左馬太の号である。

実は、日中一日あればA案とB案を同時にやっつけられるのではないかと密かに考えていたが、A案現場に辿り着く前にあちこちで引っ掛かり午前中も後半になり廻頭湾に着いた。B案の現場はそこから中横を下り、天祥、緑水を過ぎ合流サービス・エリア横の、意味不明の「岳王亭」、そこからタッキリ渓対岸に吊橋が渡されている。

岳王とは、中国では関羽と人気を二分する南宋の岳飛のことであろうが、これまで全く興味も湧かず、タロコ渓谷内をこれまで頻繁に往復しているにも拘わらずこの涼亭と吊橋に立ち寄ったことがなかった。B案を試行すべく今回初めて岳王亭に入り吊橋を渡ったが、岳王亭の由来を記した案内板は読んでいない。タロコ渓谷の建造物は中国趣味がきつ過ぎるが、これはもともと国民党が作ったのだから仕方が無い。

最近になり俄然この吊橋を渡ろうと決めたのは、実はそこが研海林道へ至る山道の入口だと判ってからだ。何よりも私の興味を掻き立てたのは、嘗てはそこまで降りて来ていた木材運搬用索道の上部起点にいまだに鳥居状に組んだ木製橋架が残存している事実だった。台湾林業史を象徴する産業遺跡である。実は、この橋架、中横から遥か上を仰ぐと見えている。初めてその明らかに人工物であろう物体を目撃したのは随分以前のことだが、当時は何物か?全く想像が付かなかった。因みに、研海林道を合歓山越嶺古道に加えたのは、同林道の入口が中横脇にあることと、佐久間左馬太に因むからである。

予予ね台湾の地図を眺めつつ、研海林道は実に不思議な林道だと思っていた。というのは林道の入口がどうも地図上では判らない。つまり林道のみが山中に浮いたような形であるのだ。加えて、二本の林道から成るが、この二本は繋がっておらず、途中で切れている。その謎が解けたのは、最近になり研海林道に関する山行記事を読んでからである。

以下の台湾百岳五座を踏破する通常五泊六日とされるコースの終点が研海林道であり岳王亭である。何時になったら一般に奇來東陵と呼ばれるこのヘビーな定番コースを踏破する機会に恵まれるか?逆のコースを辿り、立霧主山と佐久間山だけでも入れないか?と考えるのだが、そういう山行記録を探し出せない。溜息ばかり付いていても仕方ないので、まず今回の記事を進める。

奇來主山北峰(3,607m、16号)→磐石山(3,106m、89号)→太魯閣大山(3,283m、53号)→立霧主山(3,070m、93号)→佐久間山(2,809m)→帕托魯山(3,101m、90号)(→研海林道→岳王亭)

吊橋から第1索道(木材を運搬するゴンドラ用ケーブル)の頭、つまり、研海林道入口までの落差は、700メートル強、この間、約1キロ。歩行時間2.5〜3時間。ケーブルだけはいまだに残存しているのは、吊橋を渡る時にすぐ判る。更に、サイト中で公開されている情報を総合すると以下のようになる。第1索道終点で林道下線(標高の低い方の林道)まで上がり、それから同林道を4キロ程辿ると、第2索道起点に出会い、そこから索道終点まで上がると林道上線に出会うという寸法だ:

*岳王亭(第1索道起点)−標高417メートル
*第1索道終点−同1,138メートル
*研海林道下線第2索道基点−同1,402メートル
*研海林道上線第2索道終点−同1,821メートル


さて、今般は、吊橋を渡り林道入口までの登山路に入れるかどうか?がまずポイントだった。時間の関係で研海林道に行き当たることが今回の目標のすべてだったからだ。中横側の吊橋入口には何の警告も掲示されておらず思わず喜んだ。ところが橋を渡り切るとそこには進入禁止の掲示がある。無視して進む。この吊橋の袂には滝が落ち込んでおり、この沢沿いに上る。索道はもともとこの沢沿いに敷設されていたことが判る。最初に登山道が沢を横切るであろうところで、道を失ってしまった。随分掛かって探し出したが、その前に雨が降り出した。沢沿いの石の相当高い所までつい最近増水したことが見て取れた。急斜面の小さな沢の増水のスピードは相当速いので、用心してすぐに下山した。往復一時間も掛からず敗退。

実は、行政院農業委員会林務局の公式サイトの中で、林務局管理下の林道一覧が公開されている。全部で87本あるのだが、その中に研海林道は含まれていない。つまり、既に廃棄され林務局管理外になったという意味であろう。台湾サイト内では岳王亭の吊橋を渡り研海林道に出遭うまでの急登を紹介したものは結構多い。それらのサイトの中で、研海林道は日本時代に敷設されたものであるとのコメントは良く見るが、具体的に何時敷設され、どういう機能を担っていたのか?の説明になかなか行き当たらなかった。

今現在、林務局は六箇所の林区管理処を擁している。即ち、新竹、東勢、嘉義、屏東、花蓮、羅東である。研海林道は花蓮林区管理処下にあるはずで、日本時代との拘わりに関する正の情報は林務局サイトに頼るのがよかろうと、花蓮林区管理処の「歴史沿革」のページを覗いて見た。ところで、各管理処は独立したサイトを運営している。残念ながら同サイトは中国語と英語でしか提供されていないので、私の拙訳で紹介する。()内は訳者自身に依る註である:

「本林区管理処の前身は、木瓜山林場、太魯閣林場、及び花蓮山林管理所所轄の新城、寿豊、鳳林の分所、更に、林田山伐木站(伐採・運搬センター機能)が合併・改組されたものである。

木瓜山林場は民国7年(大正7年、1918年)創立、当時の名称は東台湾木材合資会社で、林田山事業区の開発に着手、翌年、花蓮港木材株式会社へ改編された。民国19年(昭和5年、1930年)に至り、木瓜山事業区の開発に着手した。民国34年(昭和20年、1945年)の台湾光復に際し、当該木材会社は当時の台湾省行政長官公署農林処林務局が接収、翌年7月、台湾政府は花蓮県の財政難に鑑み、花蓮県経営に切り替え、県営木瓜山林場が誕生した。民国47年(1958年)、省政府にて林業行政を統一することになり、省政府管理下に復帰、林産管理局木瓜山林場となった。

太魯閣林場は民国31年(昭和17年、1942年)創立、当時は南邦林業株式会社花蓮支社であった。光復後、木瓜山林場同様、台湾省行政長官公署農林処林務局が接収、当該局管理下の太平山林場太魯閣分場へと改称、民国37年(1948年)に至り、林産管理局は木材の増産を図る為に、分場から格上げ、正式に太魯閣林場が成立した。」

これで判ると思うが、研海林道は太魯閣林場に抱合されると想像されるのだが、「研海」の紹介が出て来ない。試しに、同サイト内を「研海」で検索したら、全く皆無であることが判った。何故、こんなことが起こるのか?理由は拙訳を見れば判る通り、「日本」という文字が出て来ないことから察せられそうだ。国民党は日本時代の林業遺産もそっくり引き継いだ。日本人である台湾総督の名の掲載は御法度ということではないか?同じ傾向は台湾電力のサイト、出版物にも見られる。

更に検索を続けていると、やっと『研海林道と嵐山地鉄』(原題は『研海林道與嵐山地鐵』)という文章に当った。そのものズバリである。嵐山地鉄とは材木運搬用の嵐山山地鉄道のことで、今は完全に廃棄されたが、規模広大な台湾最大の林業遺跡を供しており、足に自信のあるハイカーに依り歩かれている。その探訪記は台湾サイト上に夥しい。地図上で研海林道から北側に目を移すと二本の軌道が記載されている。因みに、花蓮県下の三大森林鉄道(全線廃棄)とは、この嵐山に加え、林田山、哈崙である。

さて、『研海林道と嵐山地鉄』の中から「研海」に関わる記述を訳出したので参考にして欲しい:

「日本人は、民国28年(昭和14年、1939年)、林田山、木瓜山に続き、「研海事業区」の開発に着手した。研海事業区は、タッキリ渓流域を中心とした事業区で、北は大濁水渓右岸事業区に接し、南は木瓜山事業区に連なり、その総面積は79,080ヘクタール、現在の割数だと30林班、470小班に相当する。その内、嵐山、帕托魯山、太魯閣主山一帶の木材は「太魯閣林場」の取り扱いとなった。太魯閣林場は元々は南邦林業株式会社花蓮港支店、民国31年(昭和17年、1942年)成立、光復後接収された後は、太平山林場太魯閣分場となり、民国37年(1948年)には、太魯閣林場として独立した。」

この文章は、なかなかおもしろい。タイトルからは如何にも研海林道と嵐山山地鉄道との関係が説明されているだろうと想像するのだが、実はこの文章からはよく判らない。しかも、「研海林道」という単語はタイトルだけにしか使われておらず、本文には全く出て来ない。「研海」の単語も上で訳出した部分にのみ登場するという代物だ。まあ、私にしてみれば、研海事業区なる単語に辿り着いただけでも有り難い。

嵐山山地鉄道の起点を現代地図帳で辿ると「水源村」という地名に行き当たった。花蓮市の西の外れで、何故、この記事を起こすまで気付かなかったか?不思議というより迂闊であった。この地を実際訪ねた後に、『水の古道』として別に記事を起こすことになるかもしれない。現時点では、私自身の為の備忘録である。

日本人に依る五十年間に渡る台湾統治時代を探訪する切り口は今でも無数にある。このブログのテーマである「古道」も然り、そして林業遺跡もその中の大きな一つだ。林業遺跡を形成する主たる景観とは作業場、索道、軌道、トロッコだろう。この林業遺跡に深く関わろうと意図したら、何が一番必要か?体力である。その意味で、もう古道ですら手に負いかねている私はとても林業遺跡まで手を染めようという気力は無い。但し、せめて嵐山だけは訪ねてみたい。

最後に、嵐山と水源村を同時に叙述した文章に行き当たったので、私の拙訳で紹介して今回の記事を閉じることにする。表題は『花蓮的水源地─沙婆礑』、最後の二段落の訳は少々怪しい。これは私の語学力のせい。最後の一文は「霊山之美尽在不言中」、中国語のド演歌的な表現だと思うが、霊山の美は、敢えて言葉にしないこと(語らないこと、沈黙の中)にこそ、語り尽くされているという意味だと思う。()内は訳者註:

「花蓮市の西郊外、美崙渓の上流にある沙婆礑(日本時代表記はサンパランガン)は、日本時代は花蓮の水源地だった場所だ。民国10年(1921年、大正10年)に花蓮地区への上水道供給が始まり、今尚同地区の重要な水源である。水源は沙婆礑渓の地面水(河床下に潜った伏流水のことだと思う)であり、重力(勾配)を利用し第一浄水場へ輸送、そこで浄水処理をした上、市街地へと水道水を供給した。その後、民国29年(昭和15年、1940年)には第二浄水場を増設、浄水処理を施した後、美崙山に敷設された配水池に送られ、そこから市街地へ供給した。

人口の増加に伴う上水道需要増加に対処する為に、沙婆礑第一、第二浄水系統(本系統)は前後七回に渡る拡張工事を実施した。民国67年(1978年)、北埔系統からの供給量が不足して来た為、本系統に編入、翌民国68年(1979年)には吉安、七星潭系統も相次いで編入させた。民国71年(1982年)には、更に水道水供給の統一管理を目指すべく、南華系統も沙婆礑本系統へ組み入れた。此処に到り、花蓮市、吉安郷全域と新城、秀林、寿豊各郷の一部分は沙婆礑本系統からの給水範囲になり、一日の供給水量は9万トンに及ぶ。もし沙婆礑渓が旱魃で供給不足に陥った時には、十本の深水井(集水井の類か?)で補充する。

沙婆礑は、これまで述べてきたように花蓮地区の重要な水源であるばかりではなく、嘗ては材木伐採・運搬路線でもあった。沙婆礑から木瓜山事業区第18林班の間には、全部で三本の索道(ケーブル)と総延長25キロ余りの材木運搬鉄道が存在していた。三本の索道は、1、2、3号索道と呼ばれ、ケーブル延長は順に、1,620メートル、1,800メートル、1,200メートルあり、2号索道の延長は当時東(原文は「東南」)アジア最長であった。1号索道と2号索道の間は、鉄道で結ばれており、その間は1.8キロ、2号索道と3号索道は連続しており、3号索道の上側終点も鉄道に繋がっており、そこから軌道を5キロ辿ると嵐山工作站(山地鉄道の駅であり、同時に材木伐採・運搬に従事する林務局職員事務所+作業場+宿舎)に至った。更に嵐山から同軌道を18キロ辿ると第18林班に着いた。

民国78年(1989年)、台湾林業は大きな転換期を迎え、林務局(日本の林野庁に相当)は大きな組織縮小を余儀なくされ、嵐山工作站の職員全員が下山することになった。民国80年(1991年)には第1号索道を撤去、第2号索道は台風の為に破損、そのまま自然崩壊に至った。今年(2007年)五、六月になり、行政院では、山中に残存する木材運搬用の廃棄索道はヘリコプター飛行の妨げになることを考慮、それら索道すべてを撤去することに決定した。こうして林田山の五本、哈崙の四本、そして嵐山の第3号索道が撤去され、此処で、これらの索道は台湾林業史の中に消えてしまい、現在僅かにその名残を留めているのは、索道ターミナルの木製の鳥居状の橋架に過ぎない。

沙婆礑の過去を振り返ると、空中に掛け渡されたケーブル上を木材が行き来する様は、好奇心は擽られたかもしれないが、当時は未だ心に残ることはなかった。それらがすっかり消失してしまった現在、逆に捨て難い懐古の念が沸き起こる。嵐山を想起する時、過去の時空を貫いてきた索道は、子供時分の記憶と繋がる。

近年、台湾の林業遺跡は日々に曖昧模糊としたものになりつつある。但し、沙婆礑渓の水は昔のままだし、殊に夏になると、花蓮市郊外では最も人気のあるウォーターパーク(東方夏威夷遊楽園のこと)である。水源地付近の山区には銘茶やコーヒーを楽しめる場所が多くあり、沙婆礑渓を流れる水音に耳を傾け、雄大な起伏の山々を望む時、霊山(多分、ここでは作者は嵐山のことを指していると思われる)の美は言わずもがなである。」


最後に。。。以上の記事を認めている段階で以下のサイトに当った。そう、確かに嵐山を始めとする日本時代をルーツにする台湾林業の輝かしい時代は歴史の彼方に消え去った。ここにはその栄光の時代が一日本人に依って記録されている。今回の記事中で、頻繁に書いた索道とは?鳥居状の橋架とは?又、軌道、トロッコ、実際はどんな形をしている?等々、すべてが顕かになる。秀逸のサイト!そして羨ましい!の二言だ:

悶絶の台湾森林鉄道』(終り)

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posted by 玉山 at 13:32| 台北 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 合歓山越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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