2012年10月06日

合歓山越嶺古道−39(霧社−2)

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【写真説明】霧ヶ岡神社参道左脇に残る日本時代の建築物。徳龍宮の方の話だと、警官宿舎とのこと。場所は、丁度現在の警察署(霧社分局)の上部に位置するので、当時の霧社分室と現在の霧社分局は同位置と予想しても外れていないかもしれない。左写真と中央写真は同一家屋。

今回の記事を書くに当り、台湾ネット内で探し当てた、映画「セデック・バレ」のセット用として新北市林口に復元された、霧社事件当時の霧社の街並み絵図を見ていた。神社、第一次霧社事件中、最も惨劇を呈した霧社公学校(現在の仁愛国民小学校の前身だが、両者の場所は多少異なる、現在地は正確には台湾電力万大発電廠第二弁公室・電源保護場)、それと霧社分室(正確には、台中州能高郡警察課霧社分室、現在の南投県政府警察局仁愛分局と同位置と推測、前回記事と今回の写真キャプションの中で単に警察署と表現したものと同一)間の位置関係を確認する為だ。もう一枚参考にした絵図は、「1998年台湾ベストテン出版物」に選定されたケ相揚著『霧社事件』(1998年、玉山社出版公司出版)所収のもので、この絵図を下に「グーグル・アース」で東を頭にして引き直したのが、前回記事掲載の霧社市街図である。

するとこれら両絵図には神社が無い事に気付いた。代わりに、霧ヶ岡神社跡たる徳龍宮と同じ場所と思われる地点には武徳殿があり、映画のセットの中でも、その建屋の規模から(多分)特に気合を入れて復元されたのではないかと思う。他方、これもネットの中から探し出した、同神社の当時の写真を見ると武徳殿は映り込んでいない。つまり、霧ヶ岡神社は霧社事件当時は存在しなかったことになるが、では神社は事件以前のものか?事件以後のものか?私自身が台湾の特定の神社の鎮座日を調べるとなると相当大変なので、金子さんに訊ねることにして、金子さんのブログに投稿した。その後、この記事に掲載する写真を選択する為に、当日撮影した写真を閲覧していた。

回答は意外や意外、自身で撮影した写真群の中にあった。我々が神社跡を探しに来たことを知った徳龍宮の方が、A3大の紙に白黒コピーされた当時の神社の写真をわざわざ見せて下さった。それを私のデジカメで撮影させて貰ったのが下掲写真だが、まず、そんな写真を撮ったことすら忘れていた。私が撮影させていただいたコピー紙には神社の写真のみが写り込んでいたと記憶していたはずだが、実際は神社写真は上半分に、下半分には、鎮座日、祭神を始めとする文字が写り込んでいた。人間の記憶は実に曖昧なものだなあ、と江戸川乱歩の作品を思い出した。

鎮座日「昭和七年十月二十六日」がその回答である。つまり、第一次霧社事件勃発時、即ち、昭和五年十月二十七日当時は霧ヶ岡神社は未だ鎮座前だったのだ。鎮座日は霧社事件発生から二年マイナス一日後である。このマイナス一にどういう意味が込められているのだろうか?しかも例祭、月次祭も「二十七日」を「巧みに」避けている。尚、ブログ『台湾に渡った神々』主宰者金子さんに依ると、台湾総督側資料では鎮座日は昭和七年十二月十日とのことである。(終り)


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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 合歓山越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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