2012年10月20日

合歓山越嶺古道−41(霧社−4)

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【写真説明】左写真は、埔里方面から霧社を目指し最後の坂を登り切った場所にある「南投県仁愛郷清潔隊」事務所。中央写真は当該事務所向かって右側に設けられている公園で、草は生えるに任せてある。この公園の上がり口脇に設けられた案内板に依ると「霧社事件殉難殉職者之墓」の跡地と謂う事になる。ところが然る同事務所女性職員が、慰霊碑の実際の位置だと教えてくれた場所には、当該事務所の裏の路地にある、その路地を隔てて向かい側の家屋の白壁から僅かに(嘗て慰霊碑を構成していたであろう)階段の一部が飛び出していた。本文記事下掲の写真は、清潔隊事務所横に立つ同慰霊碑の案内板。

もう一箇所、始終現場横を通り過ぎながら確認を怠っていたものがある。台電敷地の最南端の中横を挟み向かい側に仁愛郷清潔隊の事務所がある。日本風に言えば、清掃センター、或いは衛生センターの意か?埔里から霧社を目指した場合、中横が台電の敷地に沿って半円を描く程に大きくカーブする場所で市街地の入口に相当する位置になるのですぐ判る。嘗て霧社公学校の運動会中に殺害された日本人の「霧社事件殉難殉職者之墓」の凡その位置である。

この清潔隊事務所の正面両脇に件(くだん)の案内板が立つ。左側は当時付近で最大集落であった『バラン社』の紹介、右側は『霧社事件殉難殉職者之墓』の紹介である。右側の案内板の少し先には階段が設けられており、そこを上がると小さな公園仕立てになっている。石製のテーブルとベンチが据えられているのだが、草茫々だ。清潔隊所有の土地のはずだが、そのコントラストが甚だしい。実際の現場だとしたら犠牲者が余りにも哀れだ。殉難殉職者の墓自体は既に遺棄されているのは承知、その案内板には同じ階段の写真が使われているので、誰もが、嘗てそこに当該日本人犠牲者の慰霊碑が建っていた場所だと判断してもおかしくはない。

ところが、然る女性清潔隊職員の方が言うには、右側の小さな公園が慰霊碑が建っていた現場ではなく、逆の事務所左側に付いている短い階段を上がり、事務所の裏にある路地の白壁から僅かに飛び出している階段が見えるが、それがその慰霊碑(を支えていた台座・階段?)の一部だったとの由。左右どちらが本当に正しいのか?いずれにしても現在の清掃センター付近が霧社事件殉難殉職者之墓の現址であったことは間違い無い。(終り)


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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 合歓山越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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