2013年10月05日

八通関古道東段−4

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【写真説明】日本時代、原住民に依り馘首された巡査、警察官等の遭難碑・慰霊碑の類は、いまだに台湾山中に多く残るが、サイズと保存状態の良さでは、「カシバナ事件殉職者之碑」が第一等だと筆者は考えている。八通関古道東段入口から約9キロの地点に位置している。「日経ギャラリー」2009年7月号(NIKKEI GALLERY Vol.74)掲載写真は2008年2月当時筆者が撮影した中から一番見栄えの良さそうなものを選んだので、そちらも参考にして欲しいが、今回の投稿には、碑が現存する場所手前の古道の景観と碑そのものが、古道から僅かばかり土盛した場所に起立している様子を掲載した。本文記事下の掲載写真は、古道東段蕨歩道全長14キロ間で少なくとも二基現存する「台湾総督府交通局遞信部」基石の刻字拡大、その基石全体写真は過去「蘇花古道−21(大南澳越嶺段−4)」で紹介済みである。

「日経ギャラリー」掲載写真のキャプションから―「カシバナ」とはブヌン族カシバナ社にちなむ。碑が立つ場所の山上には同名の駐在所があった。この碑にある通り、大正 4 年(1915 年)5 月 12 日、ダーフン社ブヌン族に襲撃され 8 名の日本人が殺害された。その五日後、この地よりさらに東側のダーフン駐在所員 12 名全員が殺害される事件が発生する。前年に台湾総督府がブヌン族に対し行った銃器没収が引き金となったといわれる。当時、銃器は原住民の重要な狩猟道具だった。これらの事件は、総督府にブヌン族管制強化のための警備道の開削と再整備を促す。八通関警備道(東段)は大正8 年建設開始、同 10 年完工。

[引用開始]
古道東段-自然の中の歴史博物館(4 )「カシバナ事件殉職者之碑」

黄麻から蕨に向かって歩を進めると、途中、古道脇の一段高い場所に、二メートルは優にある無傷の石碑に出会う。「カシバナ事件殉職者之碑」である。今は異国の山奥で、突然、カタカナに出会うのは衝撃的だ。日本統治時代の理蕃政策下で、原住民と台湾総督府の間で無数の抗争事件が発生し、双方に甚大な犠牲者を出してきた。日本人により多くの殉職碑が建てられたが、この碑はその大きさと完全さで随一のものである。また、古道脇を注意深く見ていると、「台湾総督府交通局遞信部」と刻まれ番号を付された石柱に出会う。当時、電信網が引かれていた証左である。これも当時の原住民管制を物語る遺跡であることを付け加えておく。

日清戦争後、台湾統治を開始した日本人をまず驚かせたのは、千古斧鉞(ふえつ)を入れぬと思わせた山の深さであったことは現在でも容易に想像できる。多くの人々がその魅力に取り付かれた。鹿野忠雄もその一人であった。そのような当時の自然はいまだに現役である。古道西段を父子断崖、玉山に代表される動の自然美とすれば、東段の始まりは、静の自然美といえるかもしれない。歩きながら、何ともったいないという気持ちに繰り返し襲われる。(完)


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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 八通關古道-東段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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