2013年11月02日

八通関古道東段−8

Kodou-1205.jpg Kodou-1206.jpg Kodou-1207.jpg
【写真説明】左写真は蕨駐在所から緑駐在所へ向かう古道の一風景。中央写真は緑駐在所跡。現地に案内板等は無いが、曾て建造物が存在したことが即座に看て取れる平地(ひらち)になっている。右写真はその緑駐在所を過ぎて更に西側へ歩を進めた古道脇に立つ六名の無傷の殉職者の碑。

[蕨(わらび)]→(2.45K、15.8K)[緑(みどり)]→(2.3K、18.1K)[トトクン]−(1)

八通関古道東段入口を昼過ぎに出発、その日はカシン駐在所跡にテントを張り一泊、二日目に蕨山屋に到着したのは丁度お昼だったので、二泊目はそのまま山小屋に逗留することにして、更に東段をプラス5キロ程度東段を分け入り、トトクン駐在所跡地まで足を延ばした。

蕨駐在所とトトクン駐在所の丁度真ん中に緑駐在所が存在したのだが、桃林駐在所跡地と異なりその跡地が明確であるが、現地には案内板が無かった。

そこを過ぎて暫く進むと坂に掛かるが、その坂の途中に立派な四角柱の石碑―カシバナ事件殉職者之碑と同じ殉職碑が忽然と現れた。殉職とはブヌン族に殺害されたという意味だ。カシバナ事件殉職者之碑の方は、それ以前から写真を始終見ていたので、心の準備が出来ていたお蔭で、実際出遭った時は逆に拍子抜けしたような塩梅だったが、小雨降る中で霧が立ち込めた鬱蒼とした木立の中に粛然と立つその別の碑は、現存の知見が全く無かったので、感動すらした。筆者自身で撮影した写真は四角柱の二面のみの刻字で、残りの二面にも刻字があったかどうか?今は確認の仕様が無い。本記事最後に全文を添付したが、現物は縦書き、日本人巡査一名、隘勇五名の合計六名の殉職者の名前が二段に分けて記載されている。「戦死」とは、当時のブヌン族との抗争の激しさと殉職者の名誉を併せ持った表記か?

すぐに合点が行ったのは、毛利之俊原著『東台湾展望』で紹介される殉職碑の殆どが木製の粗末な物であるが、後年それらを石碑に換えていったことだ。しかも八通関警備道の殉職碑が今現在何基残っているか?は曾て手元にあった玉山国家公園管理処発行の同古道ガイドブックを手放してしまったので、即座に答えられないが、それら個々の殉職碑の総合殉職碑の性格を持つ石碑が、八通関古道鹿鳴段の玉里側出入口付近に無傷で現存している。「八通関古道−10」で紹介した「八通関越道路開鑿殉職者之碑」がそれである。つまり緑・トトクン駐在所間にこれも無傷で残る石碑に刻まれた殉職者名はそのまま鹿鳴段口にあるにもそのままそっくり刻まれている。(続く)

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「故花蓮港廳巡査野尻光一[左へ]隘勇潘阿生[左へ]同阿武[下へ]隘勇潘納仔[左へ]同パパイ[左へ]同ルスカウ[下へ] 戰死之地」
「大正八年十月十日戰死」
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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 八通關古道-東段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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