2014年02月01日

淡蘭古道−10

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【写真説明】左写真は『学校旧址』の案内板、同学校校庭後に建つ。。。「この学校は島内唯一の学校で、民国38年(1949年)に創立、当時の名称は頭城国民小学校亀山分校、後に大渓国民小学校に改属、民国43年(1954年)、亀山国民小学校として独立した。島民の移遷後は、駐軍区として改建された。」中央写真は同校校庭跡、右写真はその学校跡(同写真左側)を含む島内唯一の部落跡。

<亀山島−2>
清代末期から入植が始まり、日本時代は駐在所も設置。戦後間も無く小学校も設立され、往時(1960年代)は「150数戸、総人口759人」に至ったと現地の案内板に謂う。1977年になり同島は軍事演習場に指定され、居住民は対岸の大渓(宜蘭県頭城鎮)に強制移住させられたが、実際はそれ以前から特に台風の影響で生活は困窮を極め、過疎化が進行していた。1988年戒厳令解除後は、宜蘭県政府、頭城鎮鎮公所が中心となり亀山島の観光開放運動を展開、台湾政府は2000年になり全島を東北角[既/旦]宜蘭海岸国家風景区に指定、遊楽客への全面開放を認可した。(>(メルマガ「台湾の声」2012年11月10日掲載分の一部を改編)(続く)

【追加】島内には、古い写真付きの中文・英文両表記の案内板が多数配置されている。それらの幾つかを筆者拙訳で紹介する:

『聚落』=「日本統治時代、島民の住居は卵石を積み上げ囲っただけの粗末なものであった。戦後、僅かばかり変化が起こったが、基本は、卵石を粘土で塗り固め壁を作り、茅、瓦を葺いた。民国44年(1955年)前後になり、漸く、鉄筋・コンクリート製の建造物が出現し始めた。現在、眼前にある石積みの壁は、今では残り少なくなった当時の名残りである。」

『亀山島初期村落』=「亀山島は平地に乏しく、民国50年代(1967年頃)の最盛期には150数戸、人口759人にも達したが、その時でさえ、大部分の家屋の屋根は茅葺きだった。」

『恋々亀山島』=「亀山島は元々貧しい港街だったが、1974年、度重なる台風に伴う豪雨の影響で、約二週間外部から遮断され、殆ど食料が尽き掛けてしまった。この苦境を受けて村の有志が亀山島からの移遷を嘆願、各方面からの支援を得て、1977年台湾省政府は対岸の大渓に住宅を建設、島民は同年泣く泣く亀山島を後にした。その後は、亀山島は軍管区に指定された。」

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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 淡蘭古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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