2014年03月08日

淡蘭古道−15

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【写真説明】「湖底嶺開路碑」の「湖底嶺」は北宜公路最高点北側の峰で、同道路脇にその峰への登山口が開いている。右写真は、北宜公路最高点を同道路東側下から望んだ。時は12月中旬、薄が見事だった。下掲載の三枚の写真は、北宜公路東側終点頭城鎮の街中心部にある再開発された古い町並みで、見事に復元されている。何故今回掲載したか?は本文記事を参照。

「金面大観」(「亢懐今古」)碑イコール「湖底嶺開路碑」であるという説明は台湾のサイト上では極めて少ない。頭城鎮市街地内に当地の観光名所である頭城老街があり、その一角に日本時代に建築、戦後、頭城国民小学校校長宿舎として使われた家屋を修復・復元した「頭城鎮史館」(註2)がある。そこが主宰するホームページに当該碑の詳しい解説が施されているのに漸く行き当たった。

日本時代最初の北宜古道の整備・拡張工事は、現在の新北市坪林区と宜蘭県礁渓郷間にて、宜蘭庁管内の技手、尾泰利の監督下、明治31年(1898年)10月〜翌32年(1899年)5月に掛けて行われ、明治33年(1900年)2月に開路碑を建立したと解説されている。西郷、児玉揮毫の刻字と恐らく「坪林礁溪道路闢建記」と題された碑文本文は、「金面大観」碑の裏側、今現在「亢懐今古」と彫られた面に刻まれていたはずだ。現在この碑を仔細に眺めると僅かに当時の碑文の残骸が散見される。

このような改竄例は、台湾では特に道路開鑿記念碑には少なからず見られるケースである。筆者の以前の投稿『蘇花古道−24(「遭難碑」)』で紹介した東澳慶安堂内安置の「遭難碑」(今現在は「開路先鋒爺」)はその一例である。

湖底嶺開路碑の傍には、「虎字碑」もある。これは前回紹介した草嶺古道上の台湾総兵、劉明燈揮毫の同碑の雄(オス)字版、元々当地に存在したが、今現在当地にあるのはレプリカ、オリジナルは坪林市街にある茶業博物館内に保存されている。

さて、「石牌」とは石碑の意味であるが、何故当地がそう呼ばれるか?には台湾では二説ある。劉明燈が草嶺古道を踏破した翌年、即ち同治七年(1868年)に、今度は北宜古道に分け入り、当地に虎字碑を建立した。碑とはこの虎字碑を指すというのが第一説である。もう一説は、西郷、児玉縁(ゆかり)の湖底嶺開路碑の存在故である。(>(メルマガ「台湾の声」2012年12月31日掲載分の一部を改編)(続く)


(註2)当該館の住所は:宜蘭県頭城鎮城東里開蘭旧路四号、東北社区活動センター隣。尚、台湾鉄路頭城駅前広場横にも、「文創頭囲園区」が付設され日本家屋三棟が復元されている。「頭囲」は日本時代の「頭城」。

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posted by 玉山 at 23:57| 台北 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 淡蘭古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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