2007年05月18日

能高越嶺古道−9

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【写真説明】花蓮市から省道9号丙線を南下、吉安の中心街を通り抜け刑務所(花蓮監獄)を過ぎた辺りの沿道にある「横断道路開鑿記念」碑(中央・右写真後方)と「横断道路開鑿殉職之碑」(同前方)。横断道路とは能高越嶺古道のことである。幹線支線の沿道の脇に佇みながら、以前は注意しないと見過ごしてしまうとよく言われていたが、現在では道路上に標識(左写真)が立つので見落とすことはない。能高越嶺古道の存在と歴史を証明する完全な遺跡である。ちなみに、これらの写真は朝方五時頃撮影されたものだ。

花蓮市南隣の吉安郷、旧吉野村に於ける現存する三大古蹟と呼べるものは、「慶修院」(旧吉野布教所)、「(吉野)拓地開村(紀念碑)」、「(能高)横断道路開鑿記念(碑)」[筆者注:記念碑の()の部分は実際の碑名には存在しない文字] 、すべて日本時代に由来するものである。慶修院と横断道路開鑿記念碑は国家三級古蹟、吉野拓地開村記念碑は花蓮県指定古蹟である。

理蕃道開鑿に纏わる記念碑で現存するものは、能高越嶺道以外では、私の知る限りでは、八通関古道(花蓮県)のみである。開鑿に纏わる殉職碑は、これも八通関古道と、もう一つ蘇花古道(宜蘭県)上に残る。私は能高越嶺道の開鑿記念碑と殉職碑は「完全」な遺跡であると書いたが、開鑿記念碑と殉職碑とが一箇所に集められていること(前者が玄武岩、後者が片麻岩を利用したものだそうで、元々殉職碑の方は別な場所にあったようだ)、両者共に文字削除・改竄等の被害に遭っていないこと、小屋掛けされ地元の人に手厚く保護されていること、がその理由である。私の友達に一体誰が毎日これらの碑をお参りしておるのか聞いたら、多分、原住民じゃないの?という回答であったが。

開鑿記念碑は、以下の文で始まる(旧字体は新字体に改めた):「大正六年九月起工 自初音至奇莱主山 警備員八千五百人 里程拾三里 職工一万四千人 大正七年一月竣工 工費四万二千円 人夫三万六千人」

仮に、九月の中旬に始まり一月の中旬で完了したとしたら、四ヶ月の突貫工事である。警備員、職工、人夫の数は延べ数であろう。職工と人夫の総数が五万人、一日当たり四百人強の投入ということになる。この開鑿記念碑の記述から判ることは、横断道といっても実際は現在の古道の東段(太平洋側)部分の工事であることが判る。西段(台湾海峡側)はそれ以前に開鑿されていたはずだ。

それにしても、奇莱主山の標高は既に3,500メートルを越えているのだが、本当に奇莱主山まで開鑿したのだろうか?台湾を代表する山岳を表現するのに「五嶽、三尖、一奇」という言葉が使われる。玉山と雪山は五嶽の雄である。一奇とは奇莱主山のことで、一つしかない特別な山の意味である。台湾の現代登山史上、最多の遭難者を出した山である。尤も奇莱主山は、北峰、主峰、南峰から成り、通常奇莱主山を代表するのは北峰(台湾百岳15号:3,608メートル)である。現在の古道は南峰のはるか南側を通っているので、記念碑上の奇莱主山とは、奇莱主山に続く稜線の意であろう。

開鑿記念碑上で起点は初音(現在の初英、日本時代の鉄道の初音駅は現在は嘉義駅)とある。「国家資料庫」で「初音」で検索すると、初音駅を撮影した同じ写真が数葉採録されており、初音駅のキャプションが付けられたものと、能高越嶺道起点という説明が加えれたものがあった。初音は文字通り越嶺道起点である。尚、同様の記念碑、殉職碑の類は西段には存在しない。(終わり)
posted by 玉山 at 15:23| Comment(6) | TrackBack(2) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
越嶺道開サクに関する人数、日程は驚異的ですね。それぞれの地点で同時進行でやったとしても、彼等の宿泊、食事などを考えると、どのようにしたのかと思います。況してや、山地で移動が難しいこと考えると。工事期間は冬季ですね。人夫に駆り出されたであろう原住民の仕事のことを考えた時、台湾は二期作が多いと思いますが、冬季は農閑期ですか?警備員がとても多くて、今考える警備員とは違うように思いますが、どんな仕事なのでしょうか?

『初音(現在は嘉義駅)』が疑問なのですが。国家資料庫の初音で検索したMのキャプションが[千城(初英・南華)]獅T年開設時:初音→光復後:初英となっていて、『嘉義』はありません。さらに、@は台中初音町樂舞堂・・・となっていて、台中にも初音があります(ました?)。玉山さんも能高越嶺道ー7に『なぜか嘉義』と書かれていますが、初音が東西にあることで錯綜していることがあるのではないでしょうか?

その初音で検索したFの写真の日本語のキャプションが「初音、霧社、台中の中央山脈横断道路が最近の改修で安楽な道路になった」となっています。『安楽』の表現にびっくりしました。
Posted by メイウェンティ at 2007年05月19日 21:18
メイウェンティさん;

まず、駅名のことですが、私の手元の台湾全国図(2001年出版)では確かに「嘉義」になっているのです。私も自分で調べてみて驚いています。これは明らかにタイポか、そうでなければ何等かの理由がある?旧初音駅は、その後、南華、干城と変わり今は廃棄されたのですね。調査不足でした。これはブログの正式記事で訂正しておきましょう。鉄道マニアに怒られます。

その通り、「警備員」と工事時期については私も考えました。警備員とは私が想像するに巡査、警察です、主な任務は原住民襲撃に備えるだったのでは。人夫は「帰順」した原住民が中心だったことは想像出来ます。自身の仕事が阻害される上、給料の不払い、ピン跳ね等々あったと思います。ですから、一体誰が今でも開鑿記念碑に線香と花をあげるのか?と私の友達に聞いたわけです。そんなのは、近くの人に訊ねればすぐに判りますが。

秋口に工事を始めたというのは、作業員の体力を考慮してのことだったと思います。これを夏場にやれば誰でも耐えられませんから。又、1月完工を目指したのは、積雪を考慮したのでは?現在の積雪量と当時の積雪量では格段の差があったことは当時の写真とか文章で想像可能です。工事の障害になる程の積雪が台湾で???実際、冬季に中央山脈の稜線にどれくらいの積雪があるか見たことがないと想像は難しいと思いますが。(終)
Posted by 玉山 at 2007年05月20日 06:30
「横断道路開鑿記念碑」を調べていてお邪魔させていただきました。
来週旅行に参りますので、吉安慶修院、拓地開村碑と共に回ってみようと思っております。計呈車利用でしょうが、ここは標識があるので判りやすいのですね。大変参考になりました。

Posted by tsubamerailstar at 2008年05月10日 17:25
「tsubamerailstarさん、閲覧とコメントありがとうございました。収穫ある台湾旅行になることを期待します。今後とも宜しくお願い致します。(終わり)
Posted by 玉山 at 2008年05月11日 11:54
管理人様、お蔭様で13日に無事回ることができました。この項目を記す際には是非管理人様のサイトを紹介させていただきたく存じます。
「理蛮政策に関連あんだろうな?」程度の知識しかないので大変参考になります。今後とも宜しくお願いします。
Posted by tsubamerailstar at 2008年05月28日 00:48
tsubamerailstarさん、ご旅行お疲れ様でした。目的の横断道路開鑿記念碑には難無く行き着けましたでしょうか?本サイトをご紹介いただけることに深く感謝致します。私の私淑する楊南郡の言葉に、山に登れば台湾が見えてくる、というのがありますが、私のこれまでの経験では、山に登れば日本の台湾統治時代が見えてくる、と言い換えられると考えています。特に、理蕃とは何だったのか?を理解するには山に分け入るしかない、というのが私の結論です。まあ、台湾の山はタイムカプセルみたいなものです。(終わり)

Posted by 玉山 at 2008年05月28日 20:21
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台湾に遺る日本の足跡(8)〜吉野移民村(その三)
Excerpt: 【写真:?斷道路開鑿紀念碑】・・・・花蓮縣吉安鄉干城村吉安段4781-9號
Weblog: 私の「認識台湾」
Tracked: 2008-05-30 17:08

台湾に遺る日本の足跡(8)〜吉野移民村(その一)
Excerpt: 【写真:拓地開村祈念碑】・・・・「開村」という響きは今日でも新鮮ですね。
Weblog: 私の「認識台湾」
Tracked: 2008-05-30 17:08