2017年02月11日

磯崎越嶺古道−6

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【写真説明】左写真は花蓮県光復郷北富村富田にあり通称「富田納骨碑」と呼ばれる納骨碑入口。プレートのローマ字表記は花蓮県観光局の公式サイト内では「Kakita^an」とか「Kakita’an」とか表記されている。タバロン社内で祭祀を司っていた家系名だそうだ。その下の篆書体は筆者は読めないが、恐らく納骨碑と書いてあるはず。中央写真は小屋掛けされた納骨碑、右写真は碑正面の刻字。後の面の撮影は憚られたので無い。

僅かに二年余前に探訪したばかりなのに、当時駆け巡った旧タバロン社富田の街中の地理的な距離感と方向感が完全にぼやけている。但し、閑散とした街並みとは言い難いと云う記憶はある。アミ文化発祥紀念碑は海岸山脈西側裾野の端にあるので、西側に街並みの方に戻り返した時に、車道脇で遭遇したのが、一つは小屋掛けされた「納骨碑」、もう一つはその納骨碑に隣接した「祖屋」、タバロン社アミ族の祭祀場である。前者は急いで写真に収め、それらは今回掲載したが、後者は撮影する勇気が出なかった。以前本ブログで紹介したことがあるが、パイワン族クナナウ社の祖霊の祟りに遭って以降は、台湾原住民族の祖霊に対しては先ずは尊崇を旨としているので、闇雲に何でも写真に収めることを謹んでいるからだ。

この通称「富田納骨碑」は台湾ネット上でも良く紹介されている。その中で花蓮県観光局の公式サイトがかなり詳しく当該納骨碑の由来を説明しているが、残念ながら当サイトは日本語版が無い。説明の前段はアミ族祖先との関連で書き出されているが、説明の内容は要領を得ない。後段は日本時代の関連で説明してあり、筆者が当初予想した内容が書かれているので、拙訳を掲載する:

[引用始め]([]内は筆者註)
これとは別な謂れもある。富田納骨碑が在る付近は、元々アミ族の「首棚」[出草=首狩り後の頭骨陳列棚、台湾では頭骨架とも]があった。大正14年(1925年)、日本政府[台湾総督府]はタバロン社の首棚習俗を一掃する為に、当時首棚上にあった頭骨を現在の納骨碑付近に集めさせ慰霊碑を立てた、当該碑は民国91年[2002年]、花蓮県歴史建築に指定された。
タバロン社付近には多くの白蟹[正式名称:ハイイロサワガニ、学名:Geothelphusa cinerea]が生息しており、この白蟹を指すアミ語の発音Af Alongに因み命名されたのだが、昭和12年(1937年)、日本政府の皇民化運動の一つとして台湾地名の改編が実施され、タバロンは「富田」と改名されたが、今現在でも当地の人々はタバロン、富田の両方で呼んでいる。
[引用終り]

最初はこの紹介に納得したのだが、その後あれっ?と思ったのは、アミ族には元々出草の習俗が無かったとのでは?と云う筆者の知識に反していたからだが、正確にはアミ族の一部(とヤミ族、現在はタオ族という呼称が使われる)には出草の習俗が無かったと言い換えるべきだと云うのが判った。

ここで思い至ったことは、台湾総督府が原住民族の首狩りを一掃させるべく、首棚の頭骨を回収、埋葬させた形態には少なくとも三種存在するということである。一つは、『パイワン族秘道−20:森丑之助「生蕃行脚」の世界-8』及び同『-9』で紹介したボガリ社(パイワン族、現屏東県来義郷望嘉)の「(ボンガリ)頭骨塚」に代表される(但し、筆者が確認したことのあるのは、ボガリ社のもののみ)日本の伝統的な塚形式、二つ目がここタバロン社の「納骨碑」形式、三つ目が、宜蘭市市街地内の宜蘭公園(旧中山公園)内にある高さ十メートル、大理石製の豪華絢爛な「献馘碑」(タイヤル族)である。

尚、この記事を起こすに当たり、先の台湾観光局のサイト内を渉猟していたら、タバロン社に西隣、マタアン社にも納骨碑が存在することが判った。将来、こちらの方も探訪する機会があったら、上述の三種の形態を一堂に並べてみたい。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 磯崎越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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