2018年11月24日

八通関古道竹山段−16:「開闢鴻荒」碑

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【写真説明】「開闢鴻荒」碑をテーマにした公園は木組みのテラスが集集攔河堰の下段自動車道(省道3号丙線)と同じ高さであり、刻字されている岩盤そのものはテラスの高さを遥かに突き抜けているが、刻字そのものは、テラスを階段で降りた地表スレスレの高さにあるので奇異な感じを受ける。理由は、集集攔河堰建設の際、この国定古蹟保存工事時に土砂が流れ込み地表が底上げされた為である。左写真はテラスへの最下段部、中央写真はテラス下から「開闢鴻荒」岩盤を望んだもの。右写真は刻字、「鴻荒(こうこう)を開闢(かいびゃく)す」と読めるか?2005年3月の撮影。因みに、先に紹介した「萬年亨衢」碑の刻字読み下しは「万年衢(みち)を亨(とお)る」と推察した。いずれも「開山」の意気込みと苦労が伝わってくる文字群である。

まず、古蹟としての隆恩圳と「萬年亨衢」碑の位置関係はこの俯瞰図を参照にして欲しい。濁水渓を堰き止めている集集攔河堰を介し二つの古蹟が向い合っている様、隆恩圳と濁水渓との位置関係が一目瞭然である。又、約350メートルに渡る堰堤は上(上流側)下(下流側)に並行して二本の自動車道が走っており、この二本の道路は、濁水渓の両岸で省道3号線として合流するよう設計されている。二つの古蹟を直接繋いでいるのは堰堤下流側の省道3号丙線である。

もう一つ余談。既に紹介済みの「萬年亨衢」碑は巨大な自然石に刻字されているが、「開闢鴻荒」碑も同様、こちらは遥かにサイズが桁外れの岩盤上である。筆者はそれらを「碑」或いは「石碑」と日本語風に呼んで来たが、前述のダイヤグラム上の記載で判るように、台湾では「碣(ケツ)」又は「石碣」が通常使われる。実は「碑」も「碣」も日本語訓読みは「いしぶみ」(石文)であるので全く同義語である。台湾で「碑」を使いたければ「碑刻」になると思う。

清代開鑿八通関古道に纏わる石碑は五基、「萬年亨衢」と「開闢鴻荒」に加え、以下の碑がある(あった)とされる:

・「化及蠻貊」:蠻貊に化及す;「蠻」「貊」はどちらも日本語訓読みでは「えびす」、極限の艱難辛苦の様か?
・「山通大海」:山を通し大海に至る;
・「過化存神」:過ぎ化し神を存す;出典「孟子」、聖人の境地の意。

「萬年亨衢」、「開闢鴻荒」と「化及蠻貊」の三基は現存、いずれも国定古蹟だ。「山通大海」の現物は濁水渓の洪水で消失、その後建てられたレプリカも同じ憂き目に遭遇、今現在再度レプリカが建立されたようだが、筆者自身は未だ現地に行けず。「過化存伸」は研究者の間では幻の石碑だそうだ。又、「萬年亨衢」、「開闢鴻荒」と「山通大海」の三基が、八通関古道開鑿を指揮した総兵呉光亮に為るものとされている。

筆者自身に取り興味深いのは、「萬年亨衢」碑のみ、八通関古道上にあり、残り(但し「過化存伸」は在処不明)は濁水渓右岸にあることである。清代開鑿八通関古道は竹山市街を出発、鹿谷台地から鳳凰山山腹を巻きながら最後は現在の東埔で濁水渓上流陳有蘭渓に降り立ち、その後同渓谷を遡るのであるが、これら国定古蹟は古道上に無いことである。推測するに、当初は濁水渓右岸沿いを開鑿ルートとして偵察したが断念、山越えに切り替えたと考えられるが、平坦な大河沿線ルートを断念させたものが何だったか?筆者も含めお気楽現代人には難問である。(続く)
posted by 玉山 at 22:49| 台北 ☁| Comment(0) | 八通関古道‐竹山段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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