2019年12月28日

特富野古道−3

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【写真説明】左・中央写真は古道上沿線に残る伐採した後の巨大なベニヒの切り株。古道上に設えられた案内板(本稿で二基を紹介)の説明を読むと、日本人が阿里山のヒノキを根こそぎ切り倒してしまったと糾弾されるような気分になるのだが、実際は戦後も阿里山の林業は継続されたのだ。右写真は、古道が旧水山線軌道、即ち平坦部と別れ、特富野方面への下りに掛かる部分である。

古道沿線には当然「特富野古道」を紹介した案内板が立つ。そんな中に「特富野古道と水山線旧鉄道」と題された説明は興味深い。以下全文の拙訳である。[ ]内は筆者註:

「特富野古道」の全称は「特富野-自忠越嶺道」[トフヤ社-児玉越嶺道]、別名「水山古道」である。日本領有時代の初期、この古道は当時著名な文化人類学者だった鳥居龍蔵と森丑之助が、玉山[新高山]西稜ルートで登攀する際使われた路線であり、阿里山森林鉄道開通前(1912年)[明治45年、本線部が開通したのは1914年、大正3年]はこの台湾最高峰を目指す登山客の主要ルートだった。1941年[昭和16年]、日本政府は自忠[児玉]水山古道沿いに、阿里山鉄道自忠支線水山線を開通させた。全長約5.2`、ヒノキの伐採と運送が目的だった。

実はこの案内板の隣に別の古道名の紹介がある:

「水山古道」(特富野-自忠越嶺道)は、日本領有時代、日本人が当地のベニヒを伐採し阿里山に運送する便宜上、水山古道に拠り阿里山鉄道支線-水山線を開通させたもので、全長5.2`。現代の古道上には、廃棄された軌道が残り、当時の水山線旧鉄道の風雲事蹟は既に追憶のみとなってしまった。

詰り、特富野古道=特富野-自忠越嶺道=水山古道と謂うことだが、水山支線の軌道は古道平坦部で古道と別れて先に延びているのが、今回掲載した右写真で判る。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | 特富野古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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