


【写真説明】嘗ての壽山山頂は、陸測一等三角点が埋定された標高355bの点名「打狗山」或いは「高雄山」(筆者自身は未特定)だったが、その山頂は今は消失しているので、台湾小百岳の一座としての壽山は嘗ての高雄山の南側にある、標高337bの通称「南壽山」を代理壽山としている。但し、行政院体育委員会(台湾小百岳の選定母体)の登録では355bの標高を残してある。左写真は南壽山山頂直下の東屋(涼亭)、山頂が軍管制区内にあるのでこの東屋を公式の台湾小百岳の代理山頂として認定されている。中央写真は、山頂の高雄市政府に依る主控点、目的は判らず、ハイカーは三角点と称している。右写真は山頂から南側の俯瞰、裕仁親王の歩かれた「皇太子殿下御登山記念碑」から哨船頭古道の北側起点の大坪頂砲台方面を見降ろす。哨船頭古道の壽山館附近より上部、大坪頂砲台までの区間は全て軍管制区内なので一般人が肉眼で確認するにはこのような方法しかない。
裕仁親王は壽山の山頂まで足を運ばれたわけではない。それでも、その後壽山山頂は「壽の峰」と呼ばれることになる。陸地測量部は大正10年(1921年)には台湾全土の一等三角測量を完了させており、壽山にも一等三角点を埋定した。打狗から高雄への改名が大正9年(1920年)なので、裕仁親王ご登山時には既に打狗山から高雄山へ改名されていたかもしれない。終戦の年出版の地形図では「壽(高雄)山」の標記法になっている。筆者の手元の市販地図帳には「高雄山・標高355メートル・一等三角点」の標記がある。筆者自身過去壽山に一等三角点が存在すると聞いたことは無かったので、最近までその行方を追い掛けていた。そもそも壽山の山頂(最高点)は何処なのか判然としないのが現状だ。実は、「壽の峰」こと高雄山山頂は三角点共々消失していた。1986年9月、稀有な長寿台風として台湾を襲った台風14号(「ウェイン台風」)の一撃で山頂そのものが崩落したのだ。山頂東側が台湾セメント(略称「台泥」、前身は小野田セメント)の石灰岩(サンゴ石)採掘場だった為だ。今現在壽山は行政院体育委員会選定の台湾小百岳の一座だ。幻の高雄山山頂の南側にある峰、通称「南壽山」(標高337メートル)を壽山代理山とし、その山頂が軍管制区内にあることから、山頂直下の「好漢坡」東屋を代理山頂と見做して小百岳ハンターの登頂証明に供している。但し、標高は355メートルとしている。その南壽山山頂に立ち南側を望むと、裕仁親王が嘗て歩かれた登山記念碑から大坪頂砲台跡方面の台地一帯が足下である。(続く)
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