2007年09月15日

能高越嶺古道−11:花岡富士

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【写真説明】左写真は南投県仁愛郷春陽村で撮影したもの。この地が嘗てどういう土地であったかを連想させる唯一の便(よすが)。「富士山」の上の文字「荷戈」は旧ホーゴー(社)の漢音表記。「史努」(SNU)の意味は判らない、聖なるの意か?「風」は「風中緋櫻」に引っ掛けてあると思われるので、この看板、その放映後に設えられたのかもしれない。中央に写る山が「花岡富士」、その下の写真はこの山の頂上に到る遊歩道である。但し、何故か、この遊歩道、山へ到る道しるべの類は一切設置されていない。中央写真は、盧山温泉に更に近付いた地点から望んだ花岡富士(写真右上の尖った山)と濁水渓両岸に跨る春陽村の全景。但し、人口が密集しているのは、同写真では写っていない写真右上の省道14号線沿いである。右写真は花岡富士頂上。

去る六月に東京からみえたOさんを能高越嶺古道西段の雲海保線所まで案内する機会があったので、前回の同古道シリーズでカバーされていない部分の記事を継続掲載する。

能高越嶺古道の西段の入口は屯原(旧トンバラ社)と呼ばれているが、以前にも紹介したように大雨に拠る崩壊を繰り返しており、今回約三年振りに現地を訪れその情況を確認することが出来た。実に無惨と言うしかない。登山口辺りの現況については詳細を後述することにして、暫くは霧社からこのトンバラまでの、今は簡便に自動車で往来できるようになった嘗ての霧社事件の現場の点景を幾つか紹介する。

埔里から省道14号線を霧社まで辿って来た自動車道は三本に分かれる。即ち、霧社から14号甲線となった道路はそのまま高度を上げて清境農場を経て合歓山まで登り詰める。他方本来の14号線は霧社の北側に広がる人口湖、万大水庫(碧湖)を見降ろしながら高度を下げ、濁水渓沿いに走るが、最後は再び登り返して盧山(旧ボアルン社)の部落に到る。登り返す前にそのまま渓谷沿いに降りていけば、蒋介石が「天下第一泉」と呼んだと謂う盧山温泉に到る。濁水渓は最後は彰化県と雲林県の境界になり台湾海峡に流れ込む台湾の代表的な大河の一つであるが、万大水庫は濁水渓の上流域に設けられたダム湖である。この霧社より万大水庫の西岸を南下して台湾の紅葉の最大の名所、奥万大に到る道路が三本目の自動車道である。つまり、霧社は、清境農場・合歓山、盧山温泉、奥万大という台湾中部の有数の観光地への分岐点である。霧社からボアルン社、更に中央山脈に向かい東上して現在の古道登山口であるトンバラに到る道路も嘗ての能高越嶺警備道だった。

霧社より省道14号線を下り始めると眼前に帽子を逆様にしたような小山が見えてくる。現在の台湾の地形図上は「崗」の字を充て花崗山と表記されるが、通称「花岡富士」と呼ばれていた。霧社事件で花岡兄弟一家が自殺した山である。ここら一帯は現在は南投県仁愛郷花陽村に属しており、下春陽、春陽、頂春陽、桜山等の部落が集まる。霧社事件時蜂起したホーゴー社、タロワン社に相当する村々である。花陽村の濁水渓沿いの低地には温泉が湧くのであるが、我々が訪ねた時は、先の水害(水害には始終苛まされているはずなので何時のものかは具体的に判らない)以来道路が復旧せず温泉には降りていけないということであった。

花崗山の裾野を巻くように今は遊歩道が付けられており、頂上まで容易に登れるのだが、前述したように、遊歩道、花崗山に関する案内、道標は一切無い。登山口は少なくとも二箇所はあると思う。我々の場合、14号線の脇に地元の方が経営する然る工房の看板が出ており、これを入って工房脇に駐車して登った。ゆっくり歩いても45分程度で登れると思う。花崗山の頂上には三角点は付設されておらず、代わりに「○○補点」(筆者注:○は判読出来ず)が埋められていた。頂上にも公的機関、個人に依らず一切の表示類が存在しないので、この地が何なのかは予め予備知識が無いと皆目見当が付かないことになる。ラジオ、或いはテレビ電波受信用の古いアンテナの残骸が散逸しており、この山が嘗ては辺りの住民にとっては電波受信の妨害になっていたことが判る。(終わり)

【参考】[台湾総督府警務局「霧社事件誌」、第一編 霧社蕃騒擾事件/ 第五章 凶蕃の動静/ 第三節 花岡一郎、二郎の最後→(引用:ブログ「台湾役者日記」
http://plaza.rakuten.co.jp/michiotw/diary/200406040000/]
「右自殺現場は十一月八日に至り高井部隊小形小隊の発見セしところなるが、小富士ヶ丘稜線伝ひの櫟林には男女二十一名の縊死体連続し、其の情景は一掬の涙なき能はざるものあり。即ち二十一名の縊死体中二十名は悉く頭部に蕃布の類を覆ひて顔面の見へざる如くせるに対し花岡二郎の屍体のみは其の事なし。此れ同人は先づ他人を自殺セしめて悉くその頭部に布片を被セたるものと見るを得へく屍体を辱めざる彼れの心遣ひと推測セらる。尚ほ同人は自用の紋付羽織及セルの袴を着用し、腰には蕃刀を帯し居たる点より観るも、彼れの当時の心情を窺ふことを得へし。

花岡一郎親子三名の屍体は其の南方約十間離れたる梢々平坦の地にあり。一郎は新大島の和服を着用し、越中褌を締め、前腹部を開きて割腹自殺を遂げ、腸は露出したる侭仰向に倒れ、其の枕頭には蕃刀一本を放置され最左端に位置す。其の右側には妻川野花子の屍体あり。一郎同様に仰向に倒れ、其の左頚部に深き刀痕あるは夫一郎の加へたるものと見らる。而して花子は花縞セルの和服を着し、婦人用幅広の内地帯を締め、其の枕頭には手鏡一個を立て、白粉及財布を其の前に正しく並へて其の床しき心掛を示し、其の左手には長男幸雄(当歳)を抱きて夫との中間に置き、親子三人は川の字形に並ひ居たるが幸雄は頭骸骨露出し肉は腐爛し居れる為め致命傷は判別し難し。」
posted by 玉山 at 00:00| Comment(3) | TrackBack(1) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
霧社事件に関する本は台湾資料センターにあるものを何冊か読みました。しかし、花岡一郎、花岡二郎が自殺した時の服装にまで言及したものはなく、私もその事までは考えが及びませんでした。というのは私の考えが事件の流れの中で彼らのその時、その時の決断が自殺にまで至ったとと言う漠としたものだったからです。ここでこのような服装に関する記述に接して、何と凄まじい覚悟でこの抗議行動に望んだのだろうと思い、遅ればせながらその時の原住民の人々の思いに対する想像が少しは深まったような気がします。

一郎、二郎が和服、それも方や羽織袴、方や上等の大島紬風の新大島。二人供、小さい頃より日本人として育てられたとしても、日常的な着用はなかったのではないでしょうか。(写真で女性の和服は見たことがあるが、男性のはない。また、女性の着用例としてこの事件の時、オビン・タダオ、彼女は何処かの頭目タダオ・ノーカンの娘だったと思うが、着物を着ていたようだ)その和服を纏って死ぬ、しかも一郎は割腹自殺。彼らのものの感じ方、考え方は既に日本人的だったであろうし、しかし出自はセデック族という自覚もあったことと思います。そんな中での和服を着ての最後はどんな思いだったのでしょう?「やっぱり私はセデック。日本が育ててくれたとしても、同朋の窮状を見過ごすわけには行かない」だろうか?和服と言うのがより強い抗議のような気もしますが。

最近読んだ本(《台湾原住民文学選8》原住民文化文学言説集)に部屋の中の壁に書いた文章が二人のどちらかは忘れましたが、その遺書である(未確定)という記述があり、評論として日本人として育てられた結果だと言うようなことが書いてありました。
Posted by メイウェンティ at 2007年09月23日 01:25
「こうするより仕方がなかった」と書いた壁の

遺書は花岡一郎の残した言葉であった。日本人として教育を特別待遇で受けた彼の一面と原住民であるという誇りとの間で苦渋の選択を取らざるを得なかったのは総督府や現地での警官行政の失策であったでしょう。

こんな人々の意見、苦悶、怒りをもっと襟を
正して拝聴する心構えがなかったのはやはり殖民行政であったからか。
Posted by nichibeitaiwan 08 at 2008年06月28日 12:55
nichibeitaiwan様;

コメントありがとうございます。

森丑乃助の講演録(大正二年、霧社事件より遥か以前です)に以下のような下りがあります。少し長いですが引用します。

「...彼等が此方から征服せんとして向かって行く者に向って反抗したところが、其反抗なるものが殆ど無効であって、到底力が及ばずして自分は討たれ、遂には滅亡なり衰亡なりせなければならぬことを自分では自覚しても、それに向って極力対抗して行くと云うことに就いては、彼ら生蕃としての面目を考えて居りまして、それは日本人なり支那人なり、違った種族に対して顔が立つとか立たぬと云う意味ではなく、自分等生蕃仲間同志の者に対して自分の顔が立たない、それと同時に一つは祖先に対して相済まない、斯う云うような考えを持って居ります。其蕃人の住って居る土地と云うものは、祖先以来彼等の力に依って保存して来た所であって、他の蕃人、他の種族の迫害又は侵略を受けた時には、必ず自分等の力で以て、場合に依っては死力を尽しても之を防御して今日まで伝えて居った。何等の他の侵略なり侵害を許さず今日まで完全に保全し伝え来ったものを、今日違った種族なり又違った仲間に頭から之を蹂躙されては、又は横領されると云うことは、これは生蕃の立場としては、自分等の相手が違ってそれ以上の強い者であったから、何等の抵抗なく首を垂れて、夫等の土地を劫奪され侵略されたと云う謗を受けることは、蕃人としては非常に屈辱と思って居ります。」

当時こういう慧眼を持った人がいたわけですが、問題は誰も耳を傾けなかったことで、実際起こってしまったわけです。

私はこういうことを言うのは慎重に構えてきたのですが、実際色々山に分け入り判ってきたことは、当時の理蕃政策、少なくともその初期に於いては、原住民に対する収奪と破壊でしかなかったということは否定し難いということです。(了)
Posted by 玉山 at 2008年06月28日 23:26
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Weblog: 和服の言葉の意味を知る
Tracked: 2007-11-30 13:08