2008年01月19日

八通関古道−4

Kodou-170.JPG Kodou-171.JPG
【写真説明】沈葆驍フ命を受け実際に八通関を経由し中央山脈を横断する道路開鑿を指揮したのは呉光亮提督で、現在国家古蹟に指定されたものは彼に因むものが多い。南投県鹿谷郷にある鳳凰山寺は八通関横断道開鑿に因む寺であり、彼の銅像が立つ。台座に「開台英豪」のプレートが嵌めこまれている。寺は921地震で倒壊したが再建された。寺の中には彼の親書と言われる「佑我開山」(我が開山するを佑け給えの意)の実物扁額が訪れる人を見降ろしている。右写真は鳳凰山寺本殿(という表現が正しいか?)、写真では全部は見えないが左右両側入口上部に「山通大海」と「萬年亨衢」の文字が掛かる。字体は同じく呉光亮の親書として別な場所に石碑として残存しているものの模写である。(但し、「山通大海」碑の方は近年洪水で消失)。

八通関古道の歴史は、清国、台湾、日本の近代史と密接に関わっている。1871年(明治4年)、現在の屏東県満州郷八瑤湾(恒春半島の東海岸で一部は墾丁国立公園内)に漂着した沖縄宮古島民が牡丹社のパイワン族による殺害されるという牡丹社事件(その後、近代日本初めての海外出兵を挙行、日本側では「征台の役」)を契機に、日本側の台湾侵略の意図を敏感に察知した欽差大臣沈葆驍ヘ、1874年(明治7年)、朝廷に対しそれまで「化外之地」とされていた台湾経営の大転換を建議、「開山撫番」(山を開き蕃人を慰撫する)の名のもとに南部、中部、北部の各々に西海岸から東海岸に達する道路を開鑿した。これはそれまで殆ど開発されていなかった東台湾の経営に先に手を付けることで日本側を牽制しながら台湾全土を押えるという意図があったと謂う。

南部側道路は崑崙拗古道、高雄県鳳山市から台東に抜ける古道で今でも一部が残っている(ブログ記事「崑崙拗古道」を参照)。中部に開鑿されたのが八通関古道、北部の道路は蘇花古道で、宜蘭県蘇澳と花蓮を結び途中有名な清水断崖を含む、日本時代に自動車道として開通した蘇花公路の前身と考えられていたが、現在では両者の関連性に疑義が唱えられている。(>(メルマガ「台湾の声」2005年4月26日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 八通関古道-西段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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