2008年02月02日

八通関古道−6

Kodou-173.JPG Kodou-174.JPG
【写真説明】これからも本ブログで八通関古道沿いの駐在所跡地・遺構を写真で紹介するケースは多いと思う。今回は鹿野忠雄の「山と雲と蕃人と」にもしばしば登場する「バナイコ駐在所」跡地、現在は「巴奈伊克」の表記で同名の山小屋が立つ。山小屋というより作業小屋兼用である。実は本当にここが駐在所跡地なのかどうかは余り自信は無いのだが、八通関駐在所から東側約5キロの位置になるので当時の駐在所設置の間隔から行けば妥当な場所だし、わざわざ小屋に当時の駐在所と同じ名を冠してあるからである。右写真はバナイコ小屋付近の古道の様子。

台湾領有後、総督府は清代古道の東側を整備(1909年、明治42年)、理番事業として駐在所を設置していく。1915年(大正4年)、理番事業の一環としての全面武器・弾薬没収の政策に不満を募らせたと言われるブヌン族のラホアレとその同志はカシハナ駐在所(現代表記:喀西帕南)を襲い(カシハナ事件)、五日後、更にダーフン駐在所(現代表記:大分)を襲撃(ダーフン事件)、合計二十名強の警察官が殺害される。ラホアレ(現在の台湾側資料のローマ字表記はDahu-Ali、漢字表記は拉荷阿雷)は現在、日本時代の抗日闘争の雄として霧社事件の主謀者と目されたタイヤル族のモーナ・ルーダオと並び称され紹介されるケースが多いが、その後山間部を転戦、最終的に日本側に投降するまで実に二十年に渡り抗日闘争を繰り広げている。

Dahu-Aliを当時どうカタカナ表記していたのかなかなか判らなかったのだが、別にRa’hoareという表記を見つけたので試しにそのままカタカナ表記したもので検索した所、台湾山岳人士に今でも読み継がれている台湾山岳のバイブル、鹿野忠雄の「山と雲と蕃人と」の次のような一節に行き当った:「密林を伐り開いた斑点は耕作地であろう。山肌の赭く剥げた斜面に認められる条痕は、狩猟路であろう。そして青い煙の立ち昇る谷間の一角は蕃社であろう。これらはいずれもラホアレ一味と、郡大社の脱出蕃の、この広大な天地に生を営む象徴である。我が官憲の処置を潔しとせずして、この奥山に立て籠った彼らは、見方によっては、痛快なる風雲児である。」実際、鹿野忠雄はラホアレ一味の襲撃に戦々兢々としながら山を登り続けていた。(>(メルマガ「台湾の声」2005年4月26日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 八通關古道-西段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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