2008年02月09日

八通関古道−7

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【写真説明】八通関越警備道上、最大規模と言われた八通関駐在所遺構の一部。左写真はコンクリート製の門柱。中央写真は石垣。右写真は家屋の柱を受ける土台(建築用語があるはず)。丹念に探せば遺構は幾らでも出てくると思う。当時の写真を見ても辺りの風景は一切変わっていないのに驚く。姿を消したのは人と家屋だけである。自動車道が通らない限り、この地は永遠に封印されるのではないかとさえ思える。尚、八通関には清軍の駐屯所(営盤)も築かれたはずであるが、筆者は未だにその場所が判らない。

ダーフン事件後、総督府は直ちに清代古道東段を封鎖、新たに東西から警備道を開鑿し直す。これが現在「八通関古道」或いは「八通関越嶺古道」と言われているもので、1919年(大正8年)完成、当時の全長は125キロ、西側起点は東埔温泉、東側起点は清代古道と同じ玉里。清代、日本時代とも少なくとも東西の起点はほぼ同じと言える。鹿野忠雄の「山と雲と蕃人と」の中では「玉里越横断道路」、「中央山脈横断道路」等の呼称が与えられている。

実際、現在の台湾の観光案内等を見るとこの両者を明確に区別して地図上で紹介しているものは非常に少なく、林務局の「国家歩道」のホーム・ページ(www.trail.forest.gov.com)では清代の古道と日本時代の古道をわざわざ分けて紹介しているにも拘わらず、同じ地図を掲載している。このように一般の人も清代古道と日本時代古道はほぼ同じコースを辿っていたと考えがちなのだが、実際両者が交錯していた部分は八通関から大水屈に掛けての僅かな部分のみだそうだ。

現在登山道として整備されている古道の西側基点東埔と東側基点山風の間だけでも凡そ50 箇所の駐在所が配備されたのだが、当時の地図を見ると東西分岐点の大水屈西側には八通関(八通関警備道上最大規模、40人もの警官を配備)を含む8箇所の駐在所しか置かれていない。残りのおびただしい数の駐在所はすべて東側に配置された為、東側古道上には今でも日本時代の遺構が非常に多い。(>(メルマガ「台湾の声」2005年4月26日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 八通關古道-西段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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