2008年06月28日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−13

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【写真説明】前回の記事「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−12」で紹介した「恒春古城西門城文化広場」に隣接しているのが、「恒春鎮石碑公園」で一枚目の写真はその入口。公園名の横に更に「原猴洞山石碑公園」と書かれているが、頭の「原」は旧の意味、以前は猴洞山石碑公園と呼ばれていた。同写真奥、階段の上に見えているのは忠魂碑、二枚目はその碑の拡大写真、「忠魂碑」の三文字は削り取られ深く抉れている。ここに集められた石碑はすべて日本時代縁(ゆかり)のものであるが、現代の日本人からすれば実に不気味な公園だ。以下の写真を見ていただければ判ると思う。石碑の墓場である。

[恒春鎮石碑公園]
恒春城西門近くの城内に「恒春鎮石碑公園」があり、元々は別な地にあったのではないかと考えられる日本時代ゆかりの石碑が四基集められている。日本時代は恒春公園、近年は猴洞山石碑公園と呼ばれており、改名と同時に整備し直され、ごみごみした城内にしては贅沢な広さの駐車場が確保されている。

猴洞山は珊瑚礁が隆起した高さ20メートル程の小山で、今では何の変哲もない地表の盛り上がりにしか見えないのだが、元々はパイワン族の祭祀場であり、開山撫蕃下では恒春八景の一つ、恒春城築城の際、風水上縁起がいいとされ大事にされた場所である。

四基の碑とは、恒春鎮公所(役場)の説明を基に時代の古いものから並べてみると、「日軍攻略恒春城記念碑」、「日本統治台湾最南端界碑」、「忠魂碑」、「兵器整備記念碑」、このうち前者二基は土台だけが残り碑そのものは欠損、後者二基は碑としては完全ながら殆どの文字が無残に削り取られ、特に忠魂碑は碑に不気味な洞(ほら)ができているような状態にある。一体この公園は何を意図して作られたのか量り兼ねるのだが、日本時代関連の碑だけを集めてきちんとした説明を加えてあるという意味ではユニークな公園だと言えるかもしれない。(メルマガ「台湾の声」2006年11月19日掲載分の一部を改編:終わり)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
石にものを刻むという事は後世に何かを残すという意思だと思います。○○文明と言う数千年前もそうでした。“残る=ずーっと生きている”という事を考えると作られた石碑に対して尊敬や畏れが生じるように思います。だからこそ削ったりまた反対に大事にしたりするのでしょう。石碑は元々縁の場所にあるものですが、案外管理の便利さ、見学の便利さから纏めたのかも等と考えてしまいましたが、不遜なことでしょうね。

それにしても玉山さんがおっしゃるように傷ついた石碑が並んでいるのは日本人としてというのを省いても不気味ですね
Posted by メイウェンティ at 2008年06月29日 01:42
メイウェンティさん;

「別々な場所にあったものを寄せ集めた」というのは多分そうかもしれません。が、私はメイウェンティさんのコメントを読み、実は集めたのは日本人だと思うようになりました。日本時代にこれら四基の碑は既にここにあったという意味です。ここは元々日本時代から公園だった場所ですので。戦後、文字を削り取られたり、破壊されたりしたのだと思います。そうでなければ、戦後、誰もそのような碑を、しかも日本時代の碑を一箇所に集めるというようなことはしませんものね。(了)
Posted by 玉山 at 2008年06月30日 00:05
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