2019年07月27日

『水の古道』八奨渓義渡−1:道将圳−1

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【写真説明】嘉義市市街地南端、西側軍輝橋と忠義橋とに挟まれた八掌渓の両岸は親水公園として整備されている。これら二架橋は幹線自動車道であるが、その間八掌渓親水公園施設として彌陀映月橋が架けられている(左写真)。彌陀の由来は、この橋の北東、八掌渓右岸にある1752年(乾隆17年)建立、日本時代の嘉義八景の一つ、名刹彌陀禅寺である。中央写真は、親水公園内八掌渓左岸側から固定堰(と呼べるのかどうか?自信無し、『台灣全覧』には「道将圳攔水堰」)とその奥突端に位置する道将圳取水口付近(青いペンキ構造物)を望んだもの。同写真右に彌陀映月橋が写る。その道将圳取水口付近も公園仕立て(右写真)になっており、同写真中央に写るプレートに道将圳の紹介が記されている。以上の位置関係はこのダイヤグラムを参照にして欲しい。
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2019年08月03日

『水の古道』八奨渓義渡−2:道将圳−2

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【写真説明】八掌渓右岸に位置する道将圳取水口を構成する構造物の二態。コンクリート製の奇妙な構造物は曲線を描き、加えて人が十分歩けるよう設計されており、実際今現在は錠の掛かった門がある。回廊に沿い草が生い茂っているのは古さを思わせるが、日本時代の竣工かどうかは判ら無い。何よりもまずこの構造物の機能が想像付かないのだが、筆者には優美なデザインを持つオブジェだ。筆者はこの奇妙な物体に遭遇し幸福を感じる始末。右写真は現代の取水堰。(続く)
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2019年08月10日

『水の古道』八奨渓義渡−3:道将圳−3

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【写真説明】道将圳取水口から取り込まれた八掌渓の水はごく普通の水路(左写真:「道将圳幹線」)を通り嘉義市街地に流れ込んで行く。取水口から忠実に水路を辿るのは住宅地の建て込みの関係で無理なので、少し回り道をして、シリーズ『台灣的古圳道』に掲載されている糯米(モチゴメ)橋をグーグルを利用し探した。グーグルが指したのはダイヤグラム上の福安宮(中央写真)横の小橋で、日本時代架橋の橋が下敷きになっているはずなのだが、見当たらず。代わりに発見したのは同橋の名前が「道爺圳橋」(右写真)であること。あれあれ、道将圳が何時の間に道爺圳に代わったのやら?と訝ったが、元々は道将圳は道爺圳と将軍圳の集合名詞なので、筆者が取水口から辿って来たのは幹線とは言え道爺圳だったらしい。いずれにしても、筆者が辿り着いたのは1864年(同治3年)架橋、今は嘉義市指定古蹟の芳草橋(又は草地尾橋、古名は、道爺橋、又は道爺圳橋!)では無いのは確かで、次回の機会に委ねることにした。(続く)
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2019年08月17日

『水の古道』八奨渓義渡−4

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【写真説明】彌陀映月橋途中から八掌渓右岸を望むと、その橋端より僅かばかり上流側の彌陀禅寺伽藍と共に二柱の直線のコンクリート製構造物が目に飛び込んで来る。刹那に日本時代の鉄線橋の橋柱を想起させるのだが、筆者の『台灣全覧』を見ると丁度同じ位置に二つ、記念碑が明記してある。それでも旧橋柱を利用し記念碑に仕立てた可能性もあるので、とにかく現場、彌陀禅寺迄出掛けてみた。二本の構造物は設計上は平凡そのもので、加えて一切の銘が無い。一体全体対岸の左岸には対になるべき橋柱は起立していない。それでこれら二本はやはり地図にあるように兎に角記念碑であろうと結論付けて彌陀禅寺を後にした。その後ネットを渉猟していたら、やはり、これら二本の構造物は日本時代竣工の鉄線橋の橋柱であることを確認した。その名も「八掌渓義渡鐵線橋」。現地にある鉄線橋に関わる事蹟は「奨」の字が「掌」に代わっている。何故右岸側に二柱あるのかは不明。左写真は八掌渓縁に建つ彌陀禅寺の山門と旧鉄線橋第一橋柱、中央写真は、彌陀禅寺山門脇に小高く設えられた筆者に依る仮称、八奨渓義渡公園から山門、橋柱越しに望む八掌渓と日本時代の鉄線橋に取って代わった忠義橋、右写真は義渡公園脇に起立する鉄線橋第二橋柱。幾ら何でも左岸から移動させて来たとは思えない。(続く)
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2019年08月24日

『水の古道』八奨渓義渡−5

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【写真説明】嘉義市の古刹彌陀禅寺山門前の駐車場横に設えられた仮称「八奨渓義渡」公園内に起立する事蹟は全部で四基、「八掌渓義渡記念碑」、「義民塔」、「義民神位碑」、「土地公像」、この内、日本時代建立のものは、前者二基である。左写真はその二基も含め、同写真右側に写る義民神位碑を含む三基が写り込んでいる。義民神位碑はレプリカだと思われる。右写真は、彌陀禅寺の駐車場から義渡公園への階段を登り切った場所に建つ渡しの絵が入った洒落た案内板(中・英文)と土地公像。土地公像は新しいがその土台は日本時代の神社の灯篭を拝借して来たように見える。
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2019年08月31日

『水の古道』八奨渓義渡−6

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【写真説明】八奨渓義渡公園内に小屋掛けしてある「八掌渓義渡記念碑」(左写真)は殊更日本式漢字の「記念碑」を充ててあり、中国式の「紀念碑」では無い。しかもこの碑は元々は別々に建立されたものを合体させたようにも思える。具体的には、石碑本体が道光年間の「八奨渓義渡碑記」であり、基部が日本時代の「八掌渓義渡鐵線橋(重修碑)」である。道光年間のものは、建立の期日がまだ明確に読める。他方日本時代のものは向かって右側に年号、左側に月日が銘記されているが、摩耗が激しく漸く紀元節年号になっているのが判る程度である(中央写真)。この基部は元々「八奨渓義渡碑記」のものであり、後年書き込まれた可能性もある。但し、基部裏側の銘はまだ鮮明である(右写真)。尚、日本時代の鉄線橋竣工は、初代が大正12年(1923年)、修復されたのが昭和15年(1940年)、今に残る記念碑は後者のものである。
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2019年09月07日

『水の古道』八奨渓義渡−7:道将圳−4

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【写真説明】【「道将圳−3」追記】その後機会あり再度嘉義市指定古蹟の芳草橋を探しに出掛けた。グーグル・マップで「芳草橋」を検索しても代わりに芳草公園と全家(ファミリーマート)芳草店が出て来るだけだが、「嘉義市 糯米橋」で検索すると見事に行き当たった。ところで、筆者自身は台湾内にはまだ五万と糯米橋は残存していると勝手に想像していたが、グーグル・マップで検索すると、嘉義市のものも含め全国で僅かに四箇所だけだ。これは驚きの発見、嘉義市がこの現代自動車道の下敷きになった小さな橋を古蹟扱いにするのも納得出来ると云うものだ。前回の調査時は、道将圳取水口から流れ出した所謂幹線に掛かる橋を取水口から二つだけ追い掛けた。暑い一日で徒歩で確認出来るのはそれが精一杯、最初の架橋が福安宮横の道将圳橋であり、二つ目が無名橋であった。糯米橋は、この無名橋より東側ワンブロックだけ離れた場所に別の道爺圳が走っており、そこに架橋されていた(左写真)。幹線は水が滔々と流れているが、こちらは水の流れ自体が無し。幹線に対する支線?糯米橋の部分は北側側面が僅かに確認出来るだけ(中央写真)、南側は完全にコンクリートに埋もれているが、嘉義市東区芳草里の誇りらしく色鮮やかな意匠に取り巻かれている(右写真)。(終り)
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