2020年11月14日

壽山古道−1:「登山街60巷歴史場域」

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【写真説明】左写真は行政区画では高雄市鼓山区壽山里に属する登山街60巷(巷は丁等に相当する住所の単位)入口を登山街西側から望む。中央写真はその登山街60巷に入り込み、そこに最近になり(2017年9月)設営された「登山街60巷歴史場域」を背にして撮影。右写真はその歴史場域の最下段を一望したもので、パノラマ写真も添付した。この広場は元々高雄築港出張所官舎跡地だったと現場に説明がある。
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2020年11月21日

壽山古道−2:「壽山清代古道」

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【写真説明】壽山清代軍事道路の一本である「哨船頭古道」の「歴史場域」内段、登山街60巷の入口付近の景観を三枚掲載する。住宅街の路地の登り一方の階段である。左写真の左側に写る日本式家屋は歴史場域のトイレ、詰り登山街60巷は歴史場域の西側に沿った路地。中央写真は、歴史場域内の4番目の案内板「壽山清代古道」の案内板が立つ辺りの景観。右写真はその案内板を過ぎ更に登山街60巷上方を望んだ。
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2020年11月28日

壽山古道−3:「哨船頭古道」

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【写真説明】左写真は、「登山街60巷歴史場域」内の清代古道部分の丁度中間地点、F「サンゴ石の排水溝」の案内板が有る辺りの古道の景観、南側を振り返った。中央写真は、歴史場域内で最高点で最後の案内板、10「清代の古道と日本統治時代の展望道」(同写真右奥)越しに嘗ての打水湾、現在の高雄港側を望んだ。右写真は、中央写真とは反対方向から、登山街60巷方面を望んだもの。旗津-鼓山往復フェリー上からの撮影だが、清代古道を意識していたわけではなく、同写真上側の真っ直ぐな稜線上に写る白色の建物群の内、中央やや左側に写る黒っぽい屋根をいただいた建物(日本時代設営のゴルフクラブと謂われる。高雄人は「小白宮」、ミニ・ホワイトハウスと呼んでいる。国軍管制区域内に付き進入不可)を確認するのが目的だった。清代古道の目的地、大坪頂砲台は同じ稜線左側、裕仁親王が足を運ばれた最高点(「登山記念碑」が建てられた)は逆に同稜線を右側に進む。同写真中央奥のレンガ色の建物群は中山大学構内。そのまま右側に辿ると、裕仁親王のご宿泊地である「壽山館」なのだが、今は同大学職員宿舎に襲われている。
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2020年12月05日

壽山古道−4:「哨船頭古道」−2:「壽山館」

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【写真説明】左写真は、「壽山館」跡地に立つ中山大学職員宿舎B棟西端から裏側に抜ける自動車道、筆者の背中左手から宿舎裏の山域に入り込んだ。そこは小さな空き地になっており、国軍管制区域警告板が立っている。中央写真左奥にサンゴ石の石塁が覗いている。この写真を撮影した際は意識していなかったが、右写真に写るコンクリートの階段を支えている。即座に、壽山館後方に開削された登山道、前回投稿で紹介した「展望道」の一部、裕仁親王も歩かれた古道だと判断した。
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2020年12月12日

壽山古道−5:「哨船頭古道」−3:「打水」水源地

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【写真説明】「歴史場域」が中山大学敷地と接する最上部の直ぐ下にG番案内板「打水湾の水路跡」が立つ。即ち、壽山の中で希少な水源地から流れ出た湧き水を、嘗ての打水湾まで誘導するサンゴ石を積んだ水路が残っている。その付近はその湧き水が染み出し、水生植物の群生が見られる(左写真)。中央写真はG番案内板附近の景観、カヤツリグサが群生している。右写真は、G番案内板から下り、F番案内板「サンゴ石の排水溝」が立つ辺りの景観、水生植物が繁茂する排水溝とはG番から流れ落ちて来た飲料水の水路である。
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2020年12月19日

壽山古道−6:「哨船頭古道」−4:「龍目井」

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【写真説明】左写真に写る柴山こと寿山への最も伝統的な登山口は鼓山区龍井里にある万寿山龍泉禅寺横にある。ハイカーの登り降りの洪水の切れ目を狙って撮影したら、却って高雄人のこの山への愛情が霧散してしまった。この登山口は寿山古道の内、内惟越嶺古道の東側起点ではないか?と筆者は睨んでいる。その登山口脇(左写真の日傘下)に格子状の蓋を被せた水路(中央写真、登山口を背にして撮影)があり、通常はそこを「龍目井」と呼んでいるようだが、実際の水源地は山中のはずだ。右写真は登山口に至る道路の一つ、「青泉街」の指導標、その意味する所は本文記事を参考にして欲しい。
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2020年12月26日

壽山古道−7:「哨船頭古道」−5:「高雄温泉」

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【写真説明】左写真は、寿山国家自然公園北寿山駐車場出入口脇にある土地公「石頭公」、この下に青泉街に沿いに渡した側溝があり同駐車場との間に小さな橋が架けてある。その下に嘗ての高雄温泉ETtoday新聞雲、2019/01/08記事より転載)の冷泉(鉱泉、又は冷鉱泉)が湧き出している。中央写真は、その湧水が冷泉である証左であろうと思われる水泉花と呼ばれる麺状の白色物質が側溝を覆っている様子。呼び名は雅だが、昔、何処の溝川でもお目に掛かれたような気もする。右写真は、高雄温泉の露頭と思われる附近の側溝の景観、中央写真と同じ側溝で、前記の駐車場出入口から龍目井方向へ100bぐらいの場所。同写真右側に温泉館が建っていたかもしれない。
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2021年01月02日

壽山古道−8:「哨船頭古道」−6:「壽山館」−2

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【写真説明】左写真は、前回投稿記事「壽山古道−4」の右写真に写る登山道階段を軍管制区側から見たもの。中央写真は、実際の登山道階段、直に百年を越そうとしているが、残存状況は驚く程良好だ。右写真は東屋の遺構状況。同写真奥の樹木が切れた部分から中山大学職員宿舎が望める。同東屋は裕仁親王高雄巡啓時に撮影された写真にも写り込んでいる。ここでは、「登山街60巷歴史場域」内の案内板Iに掲載されたものを転載、マーキングを加えた。
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2021年01月09日

壽山古道−9:「哨船頭古道」−7:「打狗水道」

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【写真説明】左写真は、旧打狗水道浄水池入口。団体で見学申請すれば入れて貰える。同写真右側に覗くドームは浄水井戸の上部構造物。中央写真は浄水池。右写真は、浄水池下方の市街地内に残る打狗水道量水器室、浄水池同様市指定古蹟だが、全く保護されている気配無し。文化資産局の登録申請文の中には、西洋古典様式とかトスカナ柱とかの単語が散りばめてある。
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2021年01月14日

壽山古道−10:「哨船頭古道」−8:「打狗英國領事館及官邸」と「登山古道」

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【写真説明】哨船頭古道の西側起点(古道最低点)である著名な国定古蹟「雄鎮北門」砲台の僅かに東側は「打狗英國領事館文化園区」として整備されている。元々丘の上にある英国領事館官邸が高雄市指定古蹟として開放されていたが、丘の下の領事館も修復・復元された。これら二つの遺構を結ぶ通用道は今は「登山古道」として修復され、三つながらにして国定古蹟である。掲載した写真は左側から領事館側古道出入口、その上部、更に領事館官邸側古道出入口の景観。埋め込んだパノラマ写真は、サンゴ礁の中をうねるように伝う古道途中の白眉部分。実際この古道、登りでも五分程度で歩けてしまう。
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2021年01月22日

壽山古道−11:「哨船頭古道」−9

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【写真説明】哨船頭古道に関する最後の二回の投稿は東西の古道起点を簡単に押さえておこうと思う。左写真は登山街が哨船街と交わり南下、高雄港に出会う部分でカーブし西子湾方面に抜けるが、そのカーブする辺りに設けられた哨船頭公園。こうして哨船頭の古名が維持されている。中央写真は哨船街が古道西側起点雄鎮北門と出会う地点、筆者の背中右側が打狗英国領事館文化園区である。右写真は現時点では工事中の北門砲台。(続く)
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2021年01月30日

壽山古道−12:「哨船頭古道」−10

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【写真説明】嘗ての壽山山頂は、陸測一等三角点が埋定された標高355bの点名「打狗山」或いは「高雄山」(筆者自身は未特定)だったが、その山頂は今は消失しているので、台湾小百岳の一座としての壽山は嘗ての高雄山の南側にある、標高337bの通称「南壽山」を代理壽山としている。但し、行政院体育委員会(台湾小百岳の選定母体)の登録では355bの標高を残してある。左写真は南壽山山頂直下の東屋(涼亭)、山頂が軍管制区内にあるのでこの東屋を公式の台湾小百岳の代理山頂として認定されている。中央写真は、山頂の高雄市政府に依る主控点、目的は判らず、ハイカーは三角点と称している。右写真は山頂から南側の俯瞰、裕仁親王の歩かれた「皇太子殿下御登山記念碑」から哨船頭古道の北側起点の大坪頂砲台方面を見降ろす。哨船頭古道の壽山館附近より上部、大坪頂砲台までの区間は全て軍管制区内なので一般人が肉眼で確認するにはこのような方法しかない。
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2021年02月06日

壽山古道−13:「内惟越嶺古道」-1

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【写真説明】「内惟」とは地名であり台湾鉄路(鉄道)の駅もある。ウィキペディア中文版の「鼓山区」の項には日本時代の高雄地区の行政区画の変遷が詳述されているが、日本語版は僅か一行、「日本統治時代の田町、寿町、山下町、湊町、新浜町、哨船町、大字内惟が戦後統合され鼓山区が誕生した」とだけある。ところで「惟」は「思惟(しい)」という日常語があるように「おもう」が訓読みだ。そんなことを知り始めたのは、前回投稿で紹介した幻の高雄山一等三角点の行方を捜索している途次、標高70bの「内惟山」なる三角点が埋定された一座が存在することを確認(中央・右写真)してからである。三角点と言っても戦後のもので、台湾省政府圖根補点である(下掲写真)。戦後も点の記が引継がれたとすれば点名は「内惟山」では無く「内惟」では無いか?と筆者は勘ぐっている。「山頂」は壽山登山口としては最も伝統的な龍泉禅寺(龍目井)脇から登り始め、木製階段の最初の坂を登り切った踊り場から左手に辿った、大振りのガジュマルが纏わりついたサンゴ岩礁の上である(左写真)。最初はネット上で得たGPS座標を携帯に仕込んで出掛けたが見付けられず、二回目の捜索で行き着いた。最も伝統的な登山道であるだけにハイカーの往来は壽山の中で最も激しい。この登山道は壽山北側最高点付近まで木製或いは疑似木製階段が付けられており万人が歩けるようになっているが、その登山道の一部が内惟越嶺古道を襲っているはずだと容易に想像された。その通りだった。(続く)
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2021年02月13日

壽山古道−14:「内惟越嶺古道」-2

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【写真説明】龍泉禅寺登山口から龍門亭(東屋)を経て小坪頂方面へ向かう壽山北側の登山道目抜き通りが中心亭に至る分岐点手前で内惟越嶺古道と交差している(上掲左写真)。上掲中央・右写真はその古道部の情景。古道は中心亭上部で目抜き通りと交差(下掲左写真)する。その後、雅座方面へ登山道目抜き通りを辿ると雅座下で古道は越嶺点に至り古道を離れる(下掲中央写真)。越嶺点以降台湾海峡へ抜ける古道部は柴山部落越嶺古道と称されている。下掲右写真は柴山部落越嶺古道の越嶺点から暫く入り込んだ部分の情景。
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2021年02月20日

壽山古道−15:「柴山部落越嶺古道」−1

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【写真説明】壽山の西側は台湾海峡に臨む美景の海岸線である。この海岸線から立ち上がる壽山西面はサンゴ岩が露出した絶壁を擁しており、登山に興味の無い人には、実は市街地側東面程では無いが、登山道が縦横に張り巡らされているのを想像するのは難しい。中山大学キャンパスの最北端の大学施設である文学院脇から登り始めるのが一般的である。前回紹介した内惟越嶺古道越嶺点=柴山部落越嶺古道越嶺点から台湾海峡側へ下ると2百b程で鉄門で登山道が遮断され軍用道路に突き当たる。そこから軍用道路は海岸線の小漁港、高雄市鼓山区桃源里柴山部落まで降りて行くのだが、軍管制区内なので軍用道路に襲われた古道部は大っぴらに歩けない。但し、柴山部落自体は軍管制区内に有り、明末〜清初代に掛けての創建である柴山山海宮、漁港(2020年撮影)、居住地、畑地、果樹園を含む。嘗ては壽山西面側は頻繁に登り多く撮影した記憶があるのだが、やっと探し出して来たのが今回掲載した三枚である。左写真は地元ハイカーにA、B、C線と呼ばれる西斜面主要登山道の内のどれかの登山道風景、中央写真は西側最高点付近のサンゴ岩絶壁、右写真は西側最高点付近より俯瞰した柴山部落。何れも2003年撮影。(続く)
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2021年02月27日

壽山古道−16:「柴山部落越嶺古道」−2

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【写真説明】繰り返すが、壽山の西側は台湾海峡に臨む美景の海岸線である。中山大学キャンパスの最北端の大学施設である文学院脇から海岸への降口が設けられており、海岸に降り立ちそこから北側約3`の海岸線は歩行が可能である。海岸線を含む古道として著名な台東県の阿朗伊古道に肖り最近は「柴山阿朗伊古道」と呼ぶ向きもあり、この呼称が人口に膾炙するにつれネット上での紹介数も市民権を得つつある。筆者自身も柴山漁港以外はこの新歩道に踏み込んでみたことは無かったので、先日その起点の海岸まで降りてみた。驚いたことが二つあった。一つは海岸の漂着物、詰りゴミが非常に少ない事、二つ目はそれも手伝って海岸線は非常に美麗である事。左写真は、自動車道柴山大路脇の柴山阿朗伊古道への降口直下の光景、中央写真は降り切った海岸の光景(同パノラマ写真)、右写真は前回投稿写真と同じく、柴山西側最高点付近からの海岸線俯瞰。(終り)
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2021年03月06日

壽山古道−17:「浅野セメント株式会社打狗(高雄)工場)」

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【写真説明】壽山東側は台湾セメント公司(略称「台泥」)の石灰岩採掘場とセメント工場が拡がるが、今現在は殆ど営業を停止していると思う。前身は浅野セメント高雄工場であるのは高雄人には良く知られている。但し、その敷地内に浅野セメント時代の遺構が存在しているのを知る高雄人は少ない。左写真は壽山山腹から台泥敷地内を俯瞰したもの。工事中だが「柴山滞洪池公園」と呼称される親水公園を設えている途中。2017年3月の撮影だが、未だに完成せず、連日土を掘り返している。同写真の中に、浅野セメント時代の三箇所の遺構が写り込んでいる。中央写真はその遺構の一つ、昨年2020年3月になり漸く文化資産局に歴史建築として登録された「石灰窯」。動物園と北壽山登山口を結ぶ登山道沿い、台泥の敷地内の最も西側奥にあり、台泥の敷地が東側で接する幹線自動車道鼓山路からは以前は草木に埋没していた為、看難かった。右写真は石灰窯基部、既に百年を経過したレンガ壁は実に精緻、台泥はよくぞ排斥しなかったものだと半ば感心する。
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2021年03月13日

壽山古道−18:「浅野セメント株式会社打狗(高雄)工場)」−2

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【写真説明】文化部文化資産局に「歴史建築」として登録された旧浅野セメント打狗工場内遺構の正式名称は「原淺野水泥台灣工場(紅磚倉庫及石灰窯)」(旧浅野セメント台湾工場、赤レンガ倉庫及び石灰窯)、公告日は2020年3月26日である。今回掲載した写真はその丁度3年前の2017年3月11日に撮影されたもので、前回の投稿で述べたように今は鉄骨スレートで保護されている。この倉庫は日本時代の当地の写真に明瞭に写り込んでおり、前回引用した報告書中の紙袋に詰めたセメントの袋詰め出荷用倉庫だったと思われる。ここから高雄運河を通じ高雄港へと運ばれたのだが、その高雄運河自体は前回モノクロ写真上で示したように今でも残っている。尚、浅野セメントに代表される浅野財閥の創業者、浅野総一郎と台湾との関り合い、同会社打狗工場の操業等に関しては、古川勝三氏のニッポンドットコムへの寄稿『台湾を変えた日本人シリーズ:高雄港の開発に尽力した浅野総一郎』に詳しいのでそちらに譲ることにして、同寄稿の中から以下の下りのみ抜粋しておく:「ロシア革命が起きた大正6(1917)年になると、打狗山の良質な石灰岩を原料にする「浅野セメント打狗工場」を新設し、縦貫鉄道と打狗港を利用して、インフラ整備が加速されつつあった台湾全土にセメントを供給し続けた。その結果、やがて台湾におけるセメントの80%を賄うまでになり、台湾の近代化と打狗港の発展にも大きく貢献した。」(続く)
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2021年03月20日

壽山古道−19:「日軍爐灶」

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【写真説明】左・中央写真は高雄人ハイカーに依り唯一「日軍」を冠せられた壽山山中の軍事施設遺構、厨房跡である。2017年撮影。当時は有志の方に案内して貰ったが、筆者一人では今でも現地まで辿り着けそうに無い。右写真は高雄市軍事遺址シリーズの一つ、壽山山裾の鼓山洞(防空施設)の前に立つ案内板。2019年撮影、当時の高雄市市長をモチーフにした案内板だ。軍事施設遺跡観光なるフレーズで内外の観光客を呼び込もうとの苦心が滲み出ている。

現在でも壽山の三分の二は国軍の管理下にあるので、壽山山中、その周辺には戦前の軍事施設遺構、加えて、建設時は軍事目的では無かったが最終的に軍事施設に改編された遺構は多い。高雄市街地内の一地域である壽山ですらそんな調子なので、旧高雄県まで広げると実に多く、高雄市政府観光局は整備と紹介に努めているが、整備の方が全く追い付かない状態だ。紹介の方は遺構の案内板を「高雄軍事遺址」のタイトルで統一し「高雄市軍事遺址觀光」促進活動を鋭意展開中である。壽山山中にも砲台、トーチカ等無数にあるのだが、国軍のそれらと区別を付けるのは難しい。そんな中で、高雄人に依り壽山山中で唯一「日軍」を冠せられたものが今回紹介した厨房跡である。(続く)
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2021年03月27日

壽山古道−20:西子湾蒋介石行館

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【写真説明】蒋介石行館、略して蒋公行館は台湾に三十余箇所あるそうだ。蒋介石の別邸、別荘、招待所等に使われた。国立中山大学内に残る蒋公行館は西子湾行館と通称され高雄市指定古蹟だ。文化部文化資産局登録名は本投稿のタイトル通りである。更に現在は「西湾芸廊」として中山大学の管理下にある(左写真)。西子湾ギャラリーとでも訳せようか?様々な文化活動の場を提供しているはずだ。筆者自身は蒋介石並びに、殆ど日本時代の建物・施設を接収し蒋公行館として仕立て直された建築物群に興味があるわけではない。従って、中山大学構内のそれも初めて今月になり出掛けてみた。建物全体を鉄骨スレートが覆い修復工事を待っているのか(中央写真)、閉鎖されていた。中山大学敷地が日本時代、並びに、中山大学キャンパスとして選定された1979年までの間、何に利用されていたのか?少しネットを渉猟してみたが判らず。終戦直前に米軍が作成した地形図で同地を見ても建物群で覆われているが、軍病院(Military Hospital)以外の記載が無いので軍事施設と想像され、四子湾行館も軍司令部等の建屋が前身だったと勝手に想像していた。これは強ち間違った想像とも言えない。大学構内には日本時代の軍事施設遺構が点在しているからである。ところが最近になり、実際は昭和10年(1935年)に挙行された「始政四十周年記念台湾博覧会」の際竣工させた「高雄観光館」が前身であることを知り俄然興味が湧いた。そこでこれも竣工当時から軍事施設と思い込んでいた西子湾隧道(歴史建築指定、文化資産局登録名は「西子湾隧道及其防空設施」)(写真は隧道の中山大学側出入口間近に建設された「堡塁」の案内板が附された大防空壁)を徒歩で潜り中山大学のキャンパスを観光館まで出掛けたわけだ。日本時代、「壽山洞」と呼ばれた全長260bのトンネルは、元々は西子湾海水浴場へのショートカットを目的に壽山記念公園の一部として昭和2年(1928年)に完工した。大東亜戦争の深化に伴い防空施設が追加された。2017年になりこれら日本時代構築の防空施設は軍事遺址として一般開放され観光客を集めている。尚、右写真は西子湾行館正面玄関脇に展示されているPackard製蒋介石のお召車のようだ。(続く)
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2021年04月03日

壽山古道−21:金光教打狗教会所

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【写真説明】三件の遺構の紹介を追加して「壽山」シリーズを閉じる積りでいたが、もう少し追加することにした。名山の誉高い壽山山中、その周辺共に土地公、廟堂、寺院が乱立している感がある。これらの多くの前身が日本時代に起源を持つのだろうと漠然と想像しており、その数の多さから逆に興味が削がれていた。が、実は日本時代まで遡れるものは案外少ないようである。旧高雄神社、今は忠烈祠に成り代わっているが、余りにも人口に膾炙しているのでここでの紹介は控える。又、その前身になる金刀比羅(金毘羅)神社跡も殆どの高雄人は知見があるとは思われないが、完全に排斥され今は何も残っていないのでこれも殊更取り上げない。高雄神社、金刀比羅神社以外の日本時代の遺構が残る宗教施設は実は二箇所しかない模様だ。その一つが今回の金光教打狗教会所遺構である。高雄市動物園への登り口は鼓山路沿いに南北二箇所あるが、当該地は南側登り口脇である。普段素通りしながら何かしら古色芬々とさせている場所なので気にはなっていたので、グーグル・マップで位置を特定出来た時はやはりそうかと思ったものだ。明治44年(1911年)創建。左写真はそのまま残る当時の教会所主要施設(本殿と呼ぶべきか?)に至る階段。中央写真はその階段を登り切った地点で今はバトミントン・コートになっている。右写真は左写真の階段に至る手前の民家の門口に無造作に置かれていた宝珠。金光教は黒住教、天理教と並ぶ幕末三大新宗教なので、新興宗教と雖も歴史は古い。(続く)
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2021年04月10日

壽山古道−22:打狗本願寺布教所

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【写真説明】旧本願寺布教所も旧金光教教会所と同じく壽山東側山裾、鼓山路から少しだけ入り込んだ場所に建設されている。場所は紹介済みの打狗水道量水器室遺構のある通りを二百b程北側に辿った地点である(左写真最奥のクリーム色のビル)。本願寺布教所の創建は明治39年(1906年)、往時の布教所施設の遺構は残留していない模様だが、当時の写真に写り込んだ布教所前の民家、或いは布教所施設の一部かもしれない家屋が現存している(中央写真)。古写真に写るその家屋は瓦が葺かれていないが、今に残るそれは瓦葺だ。驚くべきことに、いまだに居住されている(右写真)。筆者が現場を探し当てた時、その古建築を丸ごと取り込み支えるように囲っている追加された住居の前に老婆が椅子に座り若い男性とお喋りの最中だった。そこに割って入り、老婆に古い家屋の由縁を尋ねてみることはしなかった。日本語が話せるとしたら国語(台湾北京語)が話せる確立は低い。白壁のドアの上には小さな十字架が嵌め込まれていた。筆者自身は本願寺に関する知識はゼロである。日本全国の全ての本願寺が東西どちらかに分れていると勝手に想像していた。高雄の旧本願寺布教所はどちらだろうなどと思いながら、ウィキペディアを覗いてみて仰天し、筆者の細やかな疑問など吹っ飛んだ。宗教施設ではないが、昨年遅くに高雄市街地内にある、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代門主大谷光瑞の台湾別邸「逍遥園」が一般公開された。高雄市の歴史建築に指定されてから10年が経っている。逍遥園の創建は昭和14年(1939年)。武漢肺炎渦中にあるので日本人観光客には未だ露出度が極めて低い新しいアトラクションだ。(続く)
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2021年04月17日

壽山古道−23:田町斎場

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【写真説明】鼓山路は嘗て高雄市街地で最も賑わった、当時の寿町、湊町、新浜町から為る、今に謂う哈瑪星(台湾語読みで「はません」)地区を貫き、壽山東側山裾を北上、その西側(壽山側)に山下町、東側に堀江町、北野町、更に田町に相当する地区を遡る。既に紹介済みの浅野セメントは田町三丁目にあった。ここら辺りまでが当時の市街地と言えそうだ。従ってと謂うべきか、鼓山路の両側には日本時代の家屋が良く残っている。始終バイク、自転車で往復しているのだが、何時も何かしら新しい発見がある。旧浅野セメントの僅かに南側の鼓山路沿い東側に以前から気に掛かっていた、殆ど倒壊寸前の大振りの日本時代の家屋がある。その建築様式は独特のもので何に利用されていたか想像出来ずにいた。鉄板の塀で囲まれ中には入れないようになっているので、その内修復作業でも始まるのかと思っていた。文化部文化資産局のサイトに入っていたら偶々この家屋らしきものが登録されているのを見付けた。「斎場」と記載されている。昭和8年(1933年)竣工の高雄市指定の歴史建築だ。登録は2017年である。修復される前にボロボロの状態を撮影しようと思い立ち先日出掛けた。鉄板の塀に「田町斎場」と明記された紙が貼り付けてあった。鉄塀の隙間から中を覗くと修復に用いる煉瓦が運び込まれているのが確認出来る。斎場とはこの場合、葬儀場である。昭和12年の高雄市都市計画図を見ると「葬儀堂」の記載になっている。台湾では斎場とは言わず、殯儀舘が一般的である。戦後は永らく市場(いちば)として利用されて来たとウィキペディア中文版に解説があり、これはG博士の記憶と一致している。又、同解説の中に、台湾唯一の日本時代の葬儀場の遺構ともある。歴史建築指定から四年で修復工事に取り掛かれるのは速いと思う。前回紹介した「逍遥園」の場合は10年掛かっているのだが、土地・家屋の買収交渉に費やされているのだろうか?因みに、これも先に紹介した打狗水道量水器室遺構、古蹟指定は2004年、保護が加えられないまま15年以上が経過していることになる。(続く)
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2021年04月24日

壽山古道−24:大公陸橋

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【写真説明】古道ブログらしくこのカテゴリーの最期は「古道」で〆よう。

高雄捷運環状軽軌(略称「高雄軽軌」)は、日本語では「高雄ライトレール」と呼ばれる高雄市街地に新しく導入された路面電車である。2015年に開業したが、環状線としては未完成だ。通常の交通手段と言うより高雄市観光の目玉の一つと説明した方が良さそうである。前身は台湾鉄道高雄臨港線、日本時代は高雄港への引込み線、通称「濱線」である。嘗ては高雄市街地で最も栄えた哈瑪星(台湾語読みで「はません」)地区の再開発の梃入れとして高雄ライトレールを現在開業させている。筆者はレール・ファンではないので開業以来全く興味が湧かず乗らず仕舞いだったが、前回紹介した田町斎場跡の写真撮りに利用しようと思い立ち乗ってみた。ところが、今現在開業している区間が鼓山区役所駅までで、田町斎場までは未だかなりの距離がある。それで予てはバイク・自転車で往復している同通りをもう一つ手前の駅までテクテク歩いてみた、何か新しい物は発見出来ないだろうか?と期待して。鼓山路が大公路と交わる部分は西側はフラットであるが、東側は深く沈んでいると云う変則的な公差点になっている(左写真)。この公差点北側に高雄ライトレール文武聖殿駅が設えてある。ここまで歩いて引き返したら、交差点南脇に色が落ちてしまった金属の案内板(中央写真)が立っているのを発見した。その内容は筆者にとっては十分に目から鱗物であった。交差点の片方が深く沈んでいるのはそこにフラットな陸橋が架けられていたからだ。目的は、鉄道を跨がせる為だ。その陸橋は昭和11年(1934年)に開通、当時高雄市で最初の陸橋、加えて高雄市で最初の鉄筋コンクリート製の橋梁であったと説明されている。当時から陸橋を支えていたサンゴ石に依る土台が一部残存している(右写真)。ウィキペディア中文版ではこの高雄市一番が台湾一番との記述になっている。そして陸橋撤去が2012年。待てよ、筆者が台湾に起居し始めたのは2000年である。爾来この場所は数限りなく通過しているのに、この陸橋の記憶が無い!日常とはそういうものか?いずれにしても、新種の台湾古道である。(終り)
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2022年10月22日

壽山古道−25:『壽山古道−19:「日軍爐灶」』(2)

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【写真説明】壽山国家自然公園はこのダイヤグラムに示された東側から壽山(地図上では柴山)、亀山、半屏山の三山を抱合する。左写真は亀山と半屏山の間に鎮座する蓮池潭の畔のアトラクションの一つ、巨大な龍虎の張り子(2002年8月撮影)。嘗ては国内外双方旅行者向け定番観光地だったが、当時からここに写る巨大な張り子は定番化と陳腐化を促進する道具建てだったと思う。実際蓮池潭は清の時代からの由緒正しき名所旧跡であり、国家自然公園として新たな装いを整えつつあると思う。中央写真は高雄空港へ着陸寸前の機内から撮影(2005年8月)した壽山(左側)と半屏山、亀山は標高が低く写真上では認識し辛い。右写真は壽山山中の展望台より望む蛇山(壽山北面、2017年5月撮影、亀山に対する風水上の命銘だと思うが今は殆ど死語、軍管制区域で一般人は入山禁止)、亀山、蓮池潭、半屏山。このように三山共々お互いに見通せる位置関係にある。
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2022年10月29日

壽山古道−26:「日軍爐灶」(3)

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【写真説明】柴山登山を日課の宗としている向きには「四口灶」で通じる日本軍厨房遺蹟は以前から良く知られた場所なのだが、人口に膾炙している割には、何故日本軍が当時柴山山中に厨房など設営したのか?その由来は語られないのが通例だった。筆者が現地に案内を得たのは2017年4月、当時は一人での再訪も可能と考えていた。丁度五年後の今年、実際一人で辿ってみたのだが、GPS情報を持参しながら大いに迷い、再訪初回は現地に行き付けなかった。再訪二回目も初回と同じく遺構現地の直ぐ傍まで達しているのは理解できてはいても遺構への出入口が見付けられなかったのは初回と同じ。最後はその出入口の上空から侵入するような無様な塩梅になった。五年を経て再度四基の竈(かまど)が並ぶ遺構を尋ねる気になったのは、一つは厨房が震洋特攻隊の「預備撤退山洞」(退避壕とでも訳せようか?)であったと云う情報を得たこと。本ブログの読者には蛇足と思うが、ウィキペディア日本語版に曰く「震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器(小型特攻ボート)」。『壽山古道−16:「柴山部落越嶺古道」−2』にてさらりと「柴山阿朗伊古道」に言及したが、壽山の震洋格納庫・発進基地はこの新規のハイキングロードの延長線の海岸線上にある。因みに、「爐」の訓読みは「いろり」、「炉」は異体字、「灶」のそれは「かまど」、「竈」は異体字。二つ目の理由は厨房として独立した箇所に加え、三箇所の退避壕と一箇所の給水遺構も残存しているらしいとのこと。殊に後者は新規の『水の古道』の発現となるか?こんな情報、過去二十年柴山へ通い続けても入って来ず、従って、筆者自身の五年前の探訪時の知見は皆無。今になってと嘆きたくなるが、これも国家自然公園への昇格と武漢肺炎禍と無関係であるまい。上段は竈の詳細描写を11x9版で。下段写真は、厨房に近い方から退避壕1、2、3号(現地では「坑道」と通称)、各退避壕は百人近い人員を収容可能との記述を見たことがある。初回探訪時撮影された「壽山古道−19」に掲載の一番左側写真はどうも第1坑道入口の様だが、実はこれらの退避壕に遭遇した記憶が無い。第2坑道の近くに上述の素人目にも特殊な供水システム遺構がある。(続く)
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2022年11月05日

壽山古道−27:「日軍爐灶」(4)

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【写真説明】筆者の手元のネット情報だと「震洋特攻隊撤退點戰備小水庫」、詰まり貯水施設であるが雨水の収集・貯蔵システムと云うことになる。第2退避壕に近接し、左写真が入口正面の様子、中央写真はその下部構造、右写真は上部構造だが、素人にはこの構造の理解は難しい。それでも機能美は伝わって来る。以前の投稿記事で紹介したことがあるが、壽山はサンゴ礁が隆起して形成された山なので全山石灰岩、水持ちが悪いことは特記すべき事項だ。(終り)
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2022年11月12日

壽山古道−28:左營龜山

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【写真説明】標高が僅かに60b少し、三角点も無い都会の喧騒の中にある山に誰が登ってみようと思おうか?筆者は2016年になり初めて全山歩いてみた。そして、それっきりだ。従ってその時の記憶を掘り起こしこの投稿記事に向かっている。その際山中に既にお役御免となった複数基の軍事施設を見ているのであるが、中華民国国軍に依るものだと思い込んでいた。実はそれらが全て旧日本軍が設営したものだと云うことを後日知る事になる。繰り返しになるが、亀山は清朝より名所だ。今は、蓮池潭に接した部分は勝利路と呼ばれる車道で区切られ小亀山と大亀山とに分けられている。亀山とは余りにも陳腐な山名、地名で、台湾、中国、韓国、日本共々多数存在するが、台湾版ウィキペディアではこの左営亀山がトップにリストアップされている。にも拘らず、日本版では外され台湾他地区の亀山が挙げられている。左写真は亀山頂上付近から蓮池潭越に望む半屏山。中央写真は右写真と同位置から左営旧城北門方面の俯瞰。右写真は壽山をシルエットにした亀山。(続く)
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2022年11月19日

壽山古道−28:左營龜山(2)

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【写真説明】壽山国家自然公園の公式サイトでは各三地区に対し絵地図一枚と付属解説一枚が提供されている。その亀山の絵地図には頂上付近に「戰事營房遺址」 (戦時建築遺構)、「碉堡防空洞」(防空陣地壕)の二箇所の軍事遺蹟しか示されていないが、筆者が2016年当時に訪れた際の現地の案内板には、それらに加え「坑道」(トンネル)、「碉堡」(陣地壕)等も複数箇所示されていた。以上の戦事用語の翻訳は筆者の一存、だいたいバンカーとトーチカの区別も付かない。左写真は北側から亀山頂上にアクセスしようとしているところ。中央写真は中途の歩道景観。右写真は頂上付近の旧日本軍に依る砲台遺構と思われるもの。前出の絵地図には示されていない模様。何せこの一枚を撮影した当時は筆者はこの亀山頂上上の軍事設営の全てを国軍に依るものと考えていたのだ。(終り)
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2022年11月26日

壽山古道−29:半屏山(1):半屏山概観

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【写真説明】最高点200b強、南北長3`弱、東西幅1`弱の半屏山は「ミニ壽山」と呼べるかもしれない。そんな中で半屏山の自然遺産を代表するのがここに掲載した「千年石壁」と呼ばれる同山脊梁西側に位置する石灰岩の大岩壁、どう撮影で切り取ろうか迷ったが、読者に想像して貰うしかない。台湾ネット上で岩壁高度情報見付けられず。ウィキペディア台湾版でも同じ岸壁が紹介してある。本来自然遺産としての側面には触れない積りだったが、半屏山紹介の初回として僅かに紹介することにした。ところで、両者一つだけ大きな違いがある。半屏山には猿が生息シテいないことだ。これは奇異な感じを与えられるし、此れ故、半屏山を贔屓にするハイカーがいるかもしれない。
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2022年12月03日

壽山古道−30:半屏山(2):半屏湖(半屏山湿地)

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【写真説明】壽山国家自然公園の一画としての半屏山に関し、次の二点は前回の投稿に含めておくべきだった。一つは、現時点では台湾新幹線(高鉄)の南側起点である左営駅に隣接していること。左営駅は高雄地下鉄(捷運)、台湾鉄道(台鉄)も相乗りしており、市街地から半屏山へのアクセスは非常に便利になった。もう一つは、同山西側に沿った部分は半屏湖と呼称される、嘗て石灰岩採掘の際に利用された沈砂池、即ち人工湖があり、国家自然公園管理処は湿地帯として売り出し中である。この人口湖の存在は以前から知っていたが、実際現場に立ったのは今年になってからである。ここだと左営駅から本当に近い(左写真:左営駅から湿地帯へ最短の入口)。湿地帯としての魅力が出て来るのは、石灰事業の残骸が高い草と湖水で隠される時だ(中央・右写真参照、同一点から南北を望む)。国家公園開園から十年を超えてしまったが、目の肥えた鑑賞眼に耐えられるには時間が掛かると思う。イントロが冗長になってしまったが、次回以降は国家自然公園管理処の委託報告書『半屏山日治時期戰備設施先期調査計畫成果報告書』(各遺構の位置概念図はこちらのダイヤグラムを参照)に沿いながら駆け足で紹介していく予定だ。ところで、半屏山と古道の接点は何か?と訝る向きもあるかもしれないが、あくまで旧軍事道、旧工業道路と云うことになる。(続く)
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2022年12月10日

壽山古道−31:半屏山(3):半屏山戦備水池

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【写真説明】台湾新幹線左営駅から最も近い半屏山内旧日本軍設営の軍事遺構、貯水槽。左写真は南側、槽幅4b、中央写真は槽長12bの東側側面、右写真は北側、同写真右側に写る道路は現在の湿地帯内の遊歩道、当該遺構との位置関係から、嘗ての軍用道だったはずだ。
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2022年12月17日

壽山古道−32:半屏山(4):半屏山洞窟工場

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【写真説明】前回の記事で案内板を訳出したように、台湾新幹線左営駅真向かいの後巷通りに沿い、三組の米軍爆撃避難地下工場(『半屏山日治時期戰備設施』論文、第77n)が日本海軍第六燃料廠に依り設営された。北側から、(半屏山)第四原油(洞窟工廠)、潤滑油、酸素の順にレイアウトされ、順に4、3、2連のトンネルで繋がっていた。これらの9箇所の出入口は今でも容易に見て取れる。今回はランダムに選んだ3箇所の現在(2022年4月現在)の洞窟工場東側出入口の現況。左写真が第1号、中央写真は第4号、右写真は第5号。
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2022年12月24日

壽山古道−33:半屏山(5):半屏山南砲台

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【写真説明】半屏山を登山対象とし最高点の展望台を目指す場合、正規の登山口は脊梁西側の南部に三箇所ある。その内、最南部の登山口から入り木製の遊歩道の最初の踊り場の先の薄い藪の中(左写真)に、分厚いコンクリートの塊がバランス悪く居座っている(中央写真)。半屏山の登山道の中のメインストリームの脇に転がしてあるように存在する(右写真:実際は滑落、倒壊した後の状態)のだが、意識して歩かない限り目には飛び込んで来ない。事実、筆者はそれとして意識して初めて在処を確認したのだが、それ以前は全く筆者の視野外だった。不思議としか言い様がない。(続く)
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2022年12月31日

壽山古道−34:半屏山(6):半屏山防空壕

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【写真説明】脊梁西側の最も北側の登山口は左営慈母慈恵堂と云う廟堂である。ここの登山口は二つのルートに分かれており、一つはメインストリーム、もう一つはメインストリームより標高の低い場所に開鑿されており(左写真はその登山口、鉄条網は軍事施設)北側でマージするのだが、狭いサンゴ礁中の登山道で嘗て軍用道路(戦備道)だったと考えられる。中央写真は防空壕全体、約7bの長さで同写真画面を斜めに横切っている。又、同写真右側に排気口が突き出ている。その他の部分はカモフラージュされており構造物が見えない。右写真は防空壕出入口。台湾にはまだまだ多くの防空壕が存在するのだが、その効能は如何に?(続く)
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2023年01月07日

壽山古道−35:半屏山(7):半屏山機槍堡

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【写真説明】明けましておめでとうございます。今年も弊ブログを御贔屓賜りますよう御願い申し上げます。持病に依る体力低下に加え、タイプ等の細かい作業に対する生理的・心理的抵抗が次第に大きく為りつつあることを考慮し、本年年初より本ブログの更新頻度を二週間に切り替えさせて頂きますので御了承お願い致します。

前回紹介した防空壕を過ぎ北側に僅かばかり辿ると、当該遺構に行合う。試しに「機槍堡」をグーグル翻訳に掛けてみると「機関銃砦」と返された。恐らく別な専門用語があるはずだが、今はこれで良い。左写真はサンゴ石を利用したプリミティブな塹壕と、サンゴ礁内に開鑿された戦備道と併せ南側から撮影、台湾南部のユニークな軍事インフラ遺構だ。中央写真、右写真は同じ塹壕の正面、並びに内側。現在迄の所、同種の塹壕遺構は半屏山内でここ一箇所の模様。(続く)
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2023年01月21日

壽山古道−36:半屏山(8):半屏山北砲台

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【写真説明】旧戦備道を半屏山北端迄詰めると学術調査上は「北砲台」と呼称される三層構造の大砲台遺構に至る。最初に目に飛び込んで来るのは三層構造の内中層の砲口(左写真:パノラマもここに埋込み)で、当時南進政策の最前線基地左営港を睨んでいる。その上の上層構造物は中央写真に写る観測所で、ロッククライミングを思わせるハングオーバーの構造物(パノラマもここに埋込み)だ。右写真はこれらの北砲台遺構を擁する半屏山北峰を南側から望んだ。同写真右側に写る軌道は台湾高速鉄道。
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2023年02月18日

壽山古道−37:半屏山(9):半屏山地下水庫(配水池)

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【写真説明】今回紹介する遺構のみ、肉眼に依る確認が未達である。高雄市が調査・研究・報告を委託した高雄市舊(旧)城文化協會(会)が、戦後70余年封印されていたとされる、この「地下水庫(配水池)」(「地下貯水施設」)を「発見」したのは、2017年12月である。台湾メディアが騒ぎ出したのは翌月、2018年初旬だと想像されるが、筆者のアンテナには掛からず仕舞いで、昨年前半に半屏山に関し調べ物をしている途上で知る事になる。従って、当該ニュースが実際台湾メディアの報道合戦の様相を呈したかどうか?一般人の反応がどうだったのか?は実は筆者には判っていない。加えて、「発見」(旧城文化協会作成の報告書中の単語)と云う単語が適当かどうか?も筆者には判然としない。壮大な地下貯水施設の少なくとも配水管の大部分は今は台湾中油の管理下にあるはずで、戦後の国民政府の接収時に引き継がれたはずだ。『半屏山日治時期戰備設施先期調査計畫成果報告書』(70〜75n)中掲載の各ダイヤグラムを見ると筆者の使った「壮大」の意味が朧気乍ら見えてくると思う。「地下水庫 半屏山」でユーチューブ検索した結果を埋め込んだが、各タイトル何れも扇動的だ。序でに貯水タンクの規模が視覚的にイメージ出来る絵を右側に配した。

メディア関係者以外の一般人がこの新発見の現場をシェアして貰うにはどうすればよいのか?中油幹部とのコネクションがあれば良いのだろうぐらいは考えつくが、それ以上のアクションを起こしていない。地下ダムの配水管の延長線が偶然かどうか?は判らぬが、半屏山脊梁最高点の展望台に突き当たる(前出論文70n掲載写真参照)ので、地下50bに設営された巨大貯水タンクの在処を想起させる何物かが地上に突き出ているのではないかと云う原始的な想像に尽き動かされ、勝手に半屏山脊梁西側を徘徊し撮影したのが今回掲載した写真である。北砲台へ至る旧軍備道沿線に中油がフェンスを張り巡らせているのは既に述べたが、#2ゲートの中油側にカメラが据え付けられていた。又、同じゲートの自然公園側の間道にはロープが引っ張ってあった。右写真は防火設備の様で日本海軍とは何の関係も無し。詰まり、結局何の収穫も無かったのだが、今はこの程度でお茶を濁すしかない。そのうちに壽山国家自然公園と中油とで外部向けの常設示を企図する可能性があるかどうか?筆者の感覚では中油が同意するとは思われないが。いずれにしても、極めてユニークな『水の古道』だ。

以前同カテゴリー内で「打狗水道」として、その取水から給水までのインフラを紹介したことがある。今現在の高雄市への原給水システムである打狗水道と、旧日本海軍の半屏山地下ダムへの給水システムは同一かどうか?というのは筆者の素朴な疑問だったのだが、旧城文化協会論文では、後者の水源地は大泉浄水場(Googleマップ上には「政府機関」のマーキングあり、軍管理下と云う意味だろう)、打狗水道の水源地、竹寮取水站の同じ高屏渓右岸沿いの約3`北方に位置する。その後、現在の自來水仁武浄水場を経由し半屏山まで運ばれていた。どちらの浄水場も筆者はまだ足を運んだことがなく、宿題が積み上がったが、それはそれで良いことだ。(終り)
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