2021年05月01日

清代八通関古道(中路)−1

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【写真説明】左写真は花蓮県玉里鎮と同卓渓郷の境界を形成する卓渓に掛かる卓渓一号橋の玉里鎮側に立っていた、2019年度卓渓郷合同クリスマスパーティーの案内板。卓渓郷は6村15部落から成る広大な行政区画で、主要居住民は巒社群ブヌン族である。その橋を渡ると車道(花蓮郷道70号線)は卓渓郷の行政中心である卓渓村(日本時代はバネタ社、台湾漢字標記では、馬根太、巴内大等)に属する卓渓郷公所(役場)に繋がる。中央写真は渡橋後直ぐのカーブ脇に設営されている広場で見掛けたブヌン族をテーマにしたオブジェ。同写真奥に写るブヌン族集合像は著名な「八部合音」(八部和音唱法)を表したものだと思う。右写真は同地点から登山目標である北東方向の山稜を望んだもの。二つの山峰の右側が玉里山(標高2,157b)方面、左側が卓渓山(同1,129b)、これら二座の山を繋ぐ稜線上に清代八通関古道(中路)が開鑿された。結局、雨の為、玉里山登山は諦め、卓渓山への登山のみに終わった。しかもこの山行当日も含めその前後で雨は止まず、その間、解像度の低い防水カメラに頼ったのでこのカテゴリーで掲載する写真の写り具合は貧しい。右写真の撮影地点とほぼ同一地点のグーグル・マップに依るスクリーンショットでは玉里山頂上まで取り込まれている。
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2021年05月08日

清代八通関古道(中路)−2

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【写真説明】卓渓山と玉里山を結ぶ稜線、詰り清代八通関古道の出会いまでは、コーヒー栽培農家(左写真)の貯水タンクから入り込んで行く(中央写真)のだが、何の標示板も無く布条(目印)が下がっているだけだ。この登山口の標高が830b、古道出会いが同1,000b、この間を1時間弱掛けて登った。右写真は古道出会い間近。(続く)
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2021年05月15日

清代八通関古道(中路)−3

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【写真説明】清代八通関古道は古道自体が国定古蹟の筈だ。それで古道、即ち卓渓山と玉里山を結ぶ稜線上に出る間際はわくわくしたのだが、そこで見た物は左写真の三叉路を暗示した冴えないサインと踏み跡の乏しい山道だった。国定古蹟を示す標示板なぞを期待していたのが間違いだった。中央写真は三叉路に残っていた焚火趾、地元のブヌン族が狩猟途中で利用したものだと思われる。右写真は玉里山方面へ延びる清代古道。(続く)
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2021年05月22日

清代八通関古道(中路)−4

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【写真説明】清代古道の出会い三叉路から卓渓山頂上までの登山道も正真正銘の清代開鑿の古道のはずである。その間の標高差は約130b、半時間程度の歩き、左・中央写真がその間の古道景観である。やがて、嘗ては農園であったことを思わせる茅の藪に行き当たり二階建ての小屋が現れる。小屋は卓渓山頂上に建てられている。(続く)
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2021年05月29日

清代八通関古道(中路)−5

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【写真説明】林務局所有と思われる老朽した頂上に立つ二階建ての小屋に関し、筆者が過去明確に看たことがあると記憶しているのは、西巒大山の同じく頂上に立つものである。卓渓山の小屋の脇には陸測二等三角点が埋定されているので本来見晴らしは良いはずである。これを単純に作業小屋兼宿泊所と呼んでもいいのかもしれないが、二階建てになっている意味をよくよく考えてみると、火の見櫓(ひのみやぐら)だと思う。但し、この小屋が建てられたのが日本時代かどうかは判らない。(続く)
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2021年06月05日

清代八通関古道(中路)−6

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【写真説明】卓渓山頂上から清代古道は玉里の市街地へ北東の尾根伝いに下りて往く。今も熱血漢が辿っているような踏み跡があるのだが、筆者は駐車地点に戻るべく、古道が開鑿された尾根から北側に降りた。今回の踏査行で辿った古道部は僅かに2`程度に過ぎない。今後少なくとも卓渓山頂上から玉里市街地までの全段(ダイヤグラム参照)を踏査する機会はないだろう。左写真は筆者が今回踏査した古道の最期の段。中央写真は古道脇で見付けた碍子。日本時代のものかどうか判らないが、だとしたら何故、こういうものが存在するのか?興味は尽きない。右写真は古道と筆者が駐車地点に戻る為に辿った登山道との分岐地点。古道は同写真右側へ逸れて往く。(続く)
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2021年06月12日

清代八通関古道(中路)−7

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【写真説明】前回の投稿に掲載したダイヤグラムの清代古道路線は筆者手元の25,000分の一市販地図からの引き写しである。玉里市街地に入る前に玉泉寺(上掲左写真)後方に設けられた遊歩道を横切り、台北栄民総合病院玉里分院の正門に入った所で古道表示が終わっている。そこから玉里市街地内の協天宮までは筆者が任意に線を引き、清代八通關古道(中路)の東側起点とした。玉泉寺は昭和5年(1930年)の創建、明代末期に中国から台湾に渡って来た在家仏教の一つ斎教(さいきょう)の一派の斎堂(或るいは菜堂:日本語風に言えば道場、講堂に相当)が始まりとの由、玉里市街地区では協天宮と並ぶ由緒正しき廟堂である。
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2021年06月19日

清代八通関古道(中路)−8

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【写真説明】協天宮と八通関古道との関係は「安通越嶺古道−2」でかなりのスペースを割いて紹介したが、実際協天宮を清代八通関古道の東側起点とするのが正しいかどうかは未だ判らない。但し、清代八通関古道、即ち明治7年(1874年)の牡丹社事件(征台の役、台湾事件、台湾出兵等々)以降清朝に依り開鑿された三本の台湾東西横断道の中の「中路」(「北路」=蘇花古道、「南路」=崑崙拗古道)の開鑿事実を証明する「後山保障」の扁額は国宝級である。今回訪問した際は協天宮の内外を各々一枚撮影してきたが生憎の雨天、外観は普通の廟堂なだけにくすんだ写真になり残念、思わず頭(こうべ)が垂れる、長さ240a、幅75a、厚み3aの「後山保障」扁額の写真は新たに撮り直したものである。本堂内に中・英・日文で書かれた花蓮県文化局に依る新しい案内板があったので、日本文紹介をそのままここに掲載する:

玉里協天宮の後山保障扁額は木製の扁額で、黒漆の地に金漆で、中央に楷書体で「後山保障」の四字、右に「光緒七年辛巳孟冬吉立」、左には「欽加總鎮銜總帶飛虎左營兼理中路招撫墾務福建即補協鎮府提督呉敬奉納」と彫られ、額縁には金龍の浮彫が施されています。清代・光緒元年(1875)、総兵呉光亮が飛虎将軍を率いて東西山道の工事を行い、璞石閣(現・玉里)に到達し、今の協天宮の所在地に駐留した時、関聖帝君(関羽)の分霊を携えてきた人がいたと伝えられています。光緒7年、後山(旧時の花蓮の別名)に疫病が起こります。呉光亮は関聖帝君に加護を願い、陣地に草葺きの廟を建て、像を作って祀り、「後山保障」の扁額を手書きにしたのが、協天宮の始まりといわれます。後の研究と扁額にある職名から、寄進者は弟の呉光忠であることが分かっています。「後山保障」の扁額は、今では協天宮の宝になっています。清朝末期の国家勢力が東台湾に入った歴史の証拠として、史的意義をもちます。(続く)
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2021年06月26日

清代八通関古道(中路)−9

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【写真説明】玉里神社は台湾内の神社遺構としては規模が大きく地方政府が保存・啓蒙に積極的に努めている好例だと思う。筆者自身は過去複数回訪れたことがあるので、今回卓渓山から下山した後殊更再訪してみようと云う気は強く無かった。何よりもこれまでの知見で清代、日本時代双方の八通関古道との関り合いは無いと見做していたからだ。ところが新ためて第一鳥居附近に立てられている案内板を読んでいたら、日本時代八通関古道と玉里神社、その第一鳥居の脇に控える「表忠碑」は繋がるのである。「表忠碑」、「玉里神社遺址」、序でに再訪した玉山国家公園南安ビジターセンターに安置してある「八通關越警備道路開鑿記念碑」(前出は「八通関古道−10」)の順にその各々の現場紹介文を以下訳出する。更に玉泉寺の創建は八通関越警備道路より後になるので、同道路沿いに鎮座していた可能性が高い。訳出した紹介文中の[ ]内は筆者註である:
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