2021年12月11日

《雲林県の古道》苦苓脚古道−鐵國山

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【写真説明】明治28年(1895年)の下関条約締結後、台湾内では各処で所謂抗日事件(武力抗争)が頻発するのであるが、筆者自身は戦後の赤化教育を受けた身故、「抗日」の文字を見るに付け心穏やかならぬものがある。そこでそれら対台湾総督府の戦場跡地を見て回ることに熱心では無いというのが正直な所である。台湾では武力衝突の現場は古戦場と呼ぶ人々がいる。偶々隔月誌『台湾山岳』の特集「福爾摩沙400年古戰場特捜」(2013年4〜5月号)を見ていたら、「鐵國山傳奇」とのタイトルで一つの古戦場が紹介されていた。筆者が興味を持ったのは「鉄国山」という固有名詞である。要は字面のことなのだが、旧字体だと迫ってくるものがある。最初は山名だと思った。色々関連サイトを渉猟しても釈然としない。先ず日本語サイトで該当する説明を探し出せなかった。そこでウィキペディア中文版にその定義を委ねることにした。こう記してある(筆者拙訳):

鐵國山」とは、1896年(明治29年)、簡義(字(あざな)「精華」)と柯鉄(号「鉄虎」)他を首領とし、雲林古坑大坪頂を根拠地に、日本統治に反対し武装抗戦した軍事組織である。(中略)1895年、清国政府は日本と馬関条約(下関条約)を締結、台湾を日本へ割譲した。翌1896年夏、雲林県の義民(日本統治への反対者)は同県梅坑(現在の嘉義県梅山郷)出身の簡義と、柯鉄他二十数名を首領と仰ぎ、二千余人が参集、この義軍(義勇兵)は雲林県東端の大坪頂を基地と為し抗日戦争を展開した。又、この大坪頂は峻険な山岳を形成していたので、「鐵國山」と改称、その意味するところは、「堅きこと鋼鉄の如し、何人も攻め難し」難所である。

この「鉄国山事件」は柯鉄が総督府と和睦する明治35年(1902年)まで続く。詰り、鉄国山とは大坪頂に拠った武装蜂起軍そのものを指すと同時に、地名にも転じたということだ。この鉄国山の字面にのみ引かれ現地に出掛けてみたが、峩々たる山が聳える代わりに、最高点が標高463bの平凡な台地(右写真、南西方向眺望と思しき地点)で、雲林県経済農場と刻まれた古ぼけた杭の立つ凡庸な畑が広がっているのを見せられたに過ぎない。抗日記念碑が立っているらしいが、運よく(?)往き当たらなかった。鉄国山と赤いペンキで古い農家の壁に大書きされたのを見せられた(左写真)のが少しばかり慰められた。この地が鉄国山であることを示す、当日目のあたりにした唯一の証だった。中央写真は目的不明の東屋風施設。(続く)
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2021年12月18日

《雲林県の古道》苦苓脚古道−2

Kodou-2578.jpg【写真説明】前回今回と日本人には何と読めばよいのか判り辛い古道名を冠したが、元々この古道を目指したわけではなく、目的は前回の鉄国山の現場を確認することだった。どういう理由でその古戦場の南側の小さな街に足を向けたのか?もう思い出せないが、偶々同古道を示す石碑(上段左写真)を見掛けとにかく歩いてみたのだ。従って予備知識も無く、歩道として整備してある階段を登り降りしただけの記憶しかない。当時撮影した写真を見る限りは結構歩いているようだが、撮影した写真の殆どに対し記憶が飛んでいる。歩き始めた古道の階段脇の意匠(上段中央・右写真)に以下の紹介があった(筆者拙訳):苦苓脚古道」−昔は苦苓脚村民にとって唯一の外部への交通手段であり物品の販売購入の為にこの石段を何往復もしなければならず、毎日家に帰り着くと両足の筋肉痛が酷く、村民はこの村を「可憐脚」(台湾語発音:「可憐」はかわいそうの意)と呼んでいた。民国60年(1975年)になり「苦苓脚」と改名した。この古道と前回記事の鉄国山との関係は有るのかないのか?は判らないが、ネット上の紹介記事を見る限りでは大概セットだ。下段の写真は順不同で古道上で見掛けた古道の証らしきものを並べた。少なくとも両足が腫れ上がるような坂には出会わなかったと思う。台湾では「汗路」、或いは「汗路古道」という通称を用いている。これまで紹介してきた嘉義県の古道は全てこの人生重き荷を背負いて往くが如し山道である。(終り)
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