2007年03月23日

能高越嶺古道−1

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【写真説明】能高越嶺古道西側入口、トンバラ(現代表記:屯原)の地に立つ国家歩道の道標。「ok」ではなく、「0キロ」の意である。道標上にある四角形のマークの拡大が右イラスト。色違いの四つのモチーフで構成され、それを一本の道が貫く。濃い緑が中央山脈、薄緑が西側(台湾海峡側)の低山、青が東側、太平洋に臨む険しい海岸線、原住民が茶色で表現されている。国家歩道に指定された道路にはこのシンボル・マークの付けられた左写真と同様の道標が、500メートルから1キロごとに敷設されている。
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2007年03月30日

能高越嶺古道−2

kodou-62.JPG【写真説明】能高越嶺古道の途中から霧社方面の灯を見下ろした写真。午前四時過ぎに撮影。霧社は既に標高が1,000メートルを越えているが、古道入口のトンバラは標高2,000メートルあるので、正に「見下ろす」ということになる。古道自体も霧社事件縁(ゆかり)の地である。暗闇の中で彼の地を歩くというのは実際勇気のいることである。


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2007年04月06日

能高越嶺古道−3

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【写真説明】現在の台湾電力雲海保線所、元々は日本時代の尾上駐在所である。標高は2,360メートル。尾上の名は、この保線所後方にある尾上山(標高2,652メートル)として残っている。古道歩きの一つとして古道入口からこの尾上山頂上までの往復日帰りという方法もある。雲海保線所は西側古道入口から約4.5キロの距離にあり、2時間程度の歩行、最初の大きな休憩地となる。保線所の建物は日本時代の駐在所からはすっかり改築されてしまったが、日本建築を受け継いだ木造である。日本時代の遺物としては建物後方に貯水槽がる。広い庭が保線所の前に広がり、能高山に臨む。正に雲海の名の通り、台湾3,000メートル峰の絶好の展望所である。又、この庭での露営は自由である。
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2007年04月14日

能高越嶺古道−4

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【写真説明】能高駐在所跡地にある天池山荘とその近くに残る日本時代の弾薬庫。当時は神社もあった。今は、観光局、林務局、南投林区管理処の共同管理となっている山荘は元々は台湾電力の天池保線所。山荘前は広場になっており、休日はハイカーのテントで埋まる。この写真は2004年当時のもので、その翌年100人ぐらいが宿泊可能な一大山荘を建てる計画が発表されたが、今現在でも工事は始まっていないようだ。毎年台風の度に古道西側は崩壊を繰り返している為だ。2005年には鉄砲水による土砂崩れでハイカーの遭難・死亡事故も発生した。山荘の標高は2,860メートル、能高越嶺古道の最高点である。古道入口の標高が2,000メートル少しなので、この間の標高差は800メートル、他方距離は13キロあるので、この古道の勾配は緩やかである。尚、天池と呼ばれているのは、この山荘の上部、能高・奇莱連峰稜線上に池塘(ちとう)が存在するからである。
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2007年04月20日

能高越嶺古道−5

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【写真説明】天池山荘の後方に聳える南華山(能高山北峰、標高3,184メートル、台湾百岳75号)頂上稜線より、北側稜線(左写真)と南側稜線(右写真)を望んだもの。左写真右側一番奥が奇莱主山(標高3,560メートル、台湾百岳20号)、そのすぐ左側が奇莱主山南峰 (標高3,358メートル、台湾百岳41号)である。右写真の右側尖峰が能高山(標高3,262メートル、台湾百岳58号)、その頂の奥に雲に掛かった玉山連峰(最高標高3,952メートル)が僅かに写っている。これら写真の撮影地点である南華山、また奇莱主山南峰までなら少々足に自信があれば、天池山荘をベースにして一般のハイカーでも登山は可能である。
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2007年04月28日

能高越嶺古道−6

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【写真説明】左写真は南華山稜線から霧社方面を望んだもの。写真では少々判り難いが白い雲の下当りの白い粒粒が町々である。同写真右の山肌を天池山荘に至る古道が走る。写真右下の白い部分が天池山荘と広場である。中央写真は、天池山荘から南華山稜線に登り切った所にある天池(池塘:写真やや右下の白い部分)。すっかり干上がっている。右写真は中央山脈を横断する高圧電線架。同写真下方に稜線を東側(花蓮側)に下っていく古道が見える。稜線最下点に小さく送電線完成を記念した蒋介石の筆になる「光被八表」の石碑が写る。写真の一番奥の尖峰が能高山。
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2007年05月04日

能高越嶺古道−7

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【写真説明】能高越嶺古道東段の実質的な入口となる銅門発電所。右写真は、同発電所内にある日本時代の銅門駐在所跡と思われる遺構。銅門はタロコ族群の村落、花蓮市から少しばかり南下し、木瓜渓を渡るとその付近では有数の観光スポットである鯉魚潭のすぐ北側にある。
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2007年05月11日

能高越嶺古道−8

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【写真説明】これら二葉の写真は本文の記事とは関係ない。能高越嶺古道西段途中から撮影した能高山である。右側は「国家資料庫」のアーカイブに保存されているものを拝借した。昭和10年(1935年)撮影とある。それから70年後、偶々ほぼ同地点と思われる地点で撮影したのが左写真、当時と現在の古道とが同じコースを辿っていることの証左であろうか。尤も、思わずカメラを構えてしまう場所は今も昔も変わらないということだろう。

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2007年05月18日

能高越嶺古道−9

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【写真説明】花蓮市から省道9号丙線を南下、吉安の中心街を通り抜け刑務所(花蓮監獄)を過ぎた辺りの沿道にある「横断道路開鑿記念」碑(中央・右写真後方)と「横断道路開鑿殉職之碑」(同前方)。横断道路とは能高越嶺古道のことである。幹線支線の沿道の脇に佇みながら、以前は注意しないと見過ごしてしまうとよく言われていたが、現在では道路上に標識(左写真)が立つので見落とすことはない。能高越嶺古道の存在と歴史を証明する完全な遺跡である。ちなみに、これらの写真は朝方五時頃撮影されたものだ。
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2007年05月26日

能高越嶺古道−10

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【写真説明】左写真について。霧社から合歓山(3,417メートル、台湾百岳36号)へ登り詰める省道14号(甲)線(合歓山越嶺古道)の途中から、能高山(写真左上の最高点)と能高越嶺古道西段を抱く山稜を望む。写真中段上を横切り右側から高度を左側に上げていく稜線がそれであるが、古道はこの山並みの反対側の山裾を貫く。この稜線の写真右側の白い部分はタイヤル族の集落、現在は南投県仁愛郷合作村、平和、平生、静観等の部落を有する。静観は、このブログ(「霞喀羅古道−8」等)で触れたことのある新竹県尖石郷鎮西堡と併称される台湾最奥の村ということだ。日本時代はサード社、トロツク社等で呼ばれていた地域である。これらの部落へは盧山温泉を経由してまず仁愛郷精英村盧山部落に入る。日本時代にボアルン社と呼ばれていた部落で、霧社事件の際蜂起した六社の中の一つである。西側に辿れば現在の能高越嶺古道の入口に至り、そのまま北上すれば合作村である。尚、写真は10月初旬に撮影されたもの。台湾の薄(すすき)は日本のそれに比べて小振りな感じだ。又、台湾ではセイタカアワダチソウの侵入を受けていないようにも見受けられるが実際はどうだろうか?[写真をクリックして拡大] 本文へ...
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2007年09月15日

能高越嶺古道−11:花岡富士

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【写真説明】左写真は南投県仁愛郷春陽村で撮影したもの。この地が嘗てどういう土地であったかを連想させる唯一の便(よすが)。「富士山」の上の文字「荷戈」は旧ホーゴー(社)の漢音表記。「史努」(SNU)の意味は判らない、聖なるの意か?「風」は「風中緋櫻」に引っ掛けてあると思われるので、この看板、その放映後に設えられたのかもしれない。中央に写る山が「花岡富士」、その下の写真はこの山の頂上に到る遊歩道である。但し、何故か、この遊歩道、山へ到る道しるべの類は一切設置されていない。中央写真は、盧山温泉に更に近付いた地点から望んだ花岡富士(写真右上の尖った山)と濁水渓両岸に跨る春陽村の全景。但し、人口が密集しているのは、同写真では写っていない写真右上の省道14号線沿いである。右写真は花岡富士頂上。
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2007年09月22日

能高越嶺古道−12:雲龍橋

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【写真説明】新旧の雲龍橋。現在のものはアーチ橋、旧のものは吊橋、但し、旧橋の方も戦後架け替えられたもので、日本時代は「スーク鉄線橋」と呼ばれた吊橋で、主塔が残る側の上流域に居住していたスーク社と対岸のボアルン社との間の連絡道であった。共に霧社事件当時蜂起した部落である。
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2007年09月29日

能高越嶺古道−13:富士温泉

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【写真説明】左写真は、台湾中部の有数の温泉街、盧山温泉の中に設けられた公園内で見掛けた日本時代の石碑。この地が嘗て「富士温泉」と呼ばれたことが判る。右写真は同公園内に建てられている蒋公行館。その前身は日本時代の警察招待所で、復元されたもののようであるが判然としない。松と石垣だけが日本時代の名残りである。
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2007年10月06日

能高越嶺古道−14:マヘボ社

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【写真説明】左写真は、前回紹介した富士温泉由来の石碑の横にあるセデック族の女性のモニュメント。盧山温泉の紹介には必ず出て来る。右写真は盧山部落(旧ボアルン社)に登る途中で撮影した盧山温泉の一部と旧マヘボ社全景。写真に写っている温泉街はタロワン(塔羅湾)渓沿いに作られているが、写真中央付近にマヘボ(馬海僕)渓が流れ込んでおり、この合流地点に盧山温泉郷のシンボルとも言える盧山吊橋が掛かっている。
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2007年10月13日

能高越嶺古道−15:ボアルン社

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【写真説明】左写真は霧社事件当時の蜂起蕃の一つ、旧ボアルン社とその漢音表記である母安山(標高1,528メートル)、現在は南投県仁愛郷精英村に属する。旧富士社であるが、富士社になったのが何時なのかは判らない。霧社事件後のことだと思う。富士とは母安山のことで写真で見るように車で頂上まで上がれる。
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2007年10月20日

能高越嶺古道−16:能高越嶺古道登山口

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【写真説明】左写真は古道入口に向かう「十三湾」と呼ばれる九十九折(つづらおり)。写真を斜めに横切る稜線下の白い螺旋(らせん)状の線が道路である。同写真中央の点状に写っているのは盧山温泉の建物群、その右上は旧ボアルン社。中央写真は古道入口に立つ能高山とその登山者をデザインに使った古道の標示。右写真は、登山道入口から暫く辿った付近の何とも心細く危険な登山道情況。登山道は同写真中央やや左に写る樹木の下から撮影者の側へ延びている。一度大雨が降ると容易に消失してしまう。同写真左下は崖である。今はマウンテンバイクに依るハイカーが多くなっているが考えものだ。
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ラベル:台湾 古道
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2007年10月27日

能高越嶺古道−17:富士見駐在所

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【写真説明】左写真は防災対策の一環として最近付設されたと見える携帯電話通話可能地点の標示板。台湾にも幾つかの携帯電話のキャリアがあるが、山中までカバーしているのは中華電信のみだと思われる。台湾に来た当時に私が加入したキャリアでは山中で全く使物にならず中華電信に替えたことがある。防災対策と云えば聞こえはいいが、乱用されると実際救援に向かう関係諸機関にとっては迷惑この上無い。携帯電話網の発達のお陰で、日本では山中ちょっと足を挫いたぐらいで救援を求める登山者がいるとのことを聞いたことがある。非常識というより余りにも責任感が無さ過ぎる。中央写真は富士見駐在所跡地と思われる地点。「富士見」と云えども今は樹木と草薮で全く展望が利かない。右写真は雲海に浮かぶマヘボ富士山。どの山がマヘボ富士かは容易に見分けられると思う。
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2007年11月03日

能高越嶺古道−18:雲海保線所

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【写真説明】左写真はハイカーが雲海保線所に到着すると最初に目にする光景。既に建て替えられてはいるが、小道に導かれる保線所は恐らく尾上駐在所時代もこのような佇まいだったと思わせるイメージである。中央写真は保線所の中庭にある標高2,360メートルを示す碑であるが、ここが尾上駐在所であった折の国旗掲揚台を利用したものだと思われる。右写真は雲海保線所から暫く天池保線所方面に向かう古道沿線上に咲き乱れる山百合(やまゆり)。台湾の山地では五〜七月に掛けて一斉に花を開く。日本の山百合に比べれば相当小振りであると思うが、本当にそうかは余り自信が無い。
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2007年11月10日

能高越嶺古道−19:尾上駐在所

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【写真説明】雲海保線所内、即ち尾上駐在所の遺構各種。左写真は保線所の裏にある貯水槽。中央写真は同じく保線所裏に残る弾薬庫だったと思われる倉庫。右写真は、保線所東側の畑の中に残るこれも弾薬庫と思しき倉庫。
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2011年03月26日

能高越嶺古道−20

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【写真説明】左写真は、能高山越嶺古道西段入口、屯原に立つ二つの国家歩道、「高山歩道」(登山道)と「歴史歩道」(古道)の標識。標識に示された距離は、国家歩道に指定された歩道全長。南華山(能高山北峰)と能高山主峰を結ぶ稜線の最低鞍部までの最初の約15キロは、この二つの歩道の共通部分である。以前は無かった標識なのでここに掲載した。中央写真は古道沿線の紅葉、台湾の場合、11月下旬から12月に掛けてが最も見頃。右写真は、雲海保線所(旧尾上駐在所)から望む夕陽。

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2011年04月02日

能高越嶺古道−21

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【写真説明】「能高山越嶺古道−17」で紹介した富士見駐在所跡であるが、これまでは大凡の位置は判っていても実際の駐在所跡は特定出来ていなかった。今回探し当てたのが掲載した三枚の写真である。古道の脇に小道が付いていたのには前回まで気付かなかった。そこを入っていくと、ちょっとした広場になっており、原住民の狩り場の休憩所になっていた。そこが駐在所跡であったことは残っている石塁で十分確認出来る。

富士見駐在所は、古道西段入口付近にあったトンバラ駐在所と今は雲海保線所になっている尾上駐在所の中間に配置されていた駐在所で、富士とは、マヘボ富士のことであろうというのが、前回の記事で書いた私の推察である。(続く)
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2011年04月09日

能高越嶺古道−22

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【写真説明】天池山荘はその改築が2005年には発表されたにも拘わらず、その後なかなか着手されなかったが、今回行ったら山荘の外壁は粗方剥がされ改築が開始された所に出食わした。改築が完成するまでの間は、山荘側がテントを貸し出すようになっているようだ。現在の山荘自体は1993年(民国82年)設立、今年改築を完了させられれば、目出度く中華民国百年事業の一つに列せられるかもしれない。

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2011年04月23日

能高越嶺古道−23

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【写真説明】キャベツは台湾の高山野菜を代表する。初めて清境農場付近まで上がってきてキャベツ畑を目撃した時は、新鮮な驚きがあった。そのくすんだ緑色とキャベツのサイズ、それに山のガスが絡んだ風景に対してである。清境農場付近(左写真)と濁水渓を挟んで対岸の精英村平静部落(中央写真)のキャベツ畑を並べた。右写真はその平静(トーダ社)から清境農場側を平静国民小学校越しに望んだもの。同写真下に写る建物群後方に濁水渓があり、建物後方に写る岩峰、斜面とも対岸である。

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2011年04月30日

能高越嶺古道−24:精英村平静(1)

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【写真説明】南投県仁愛郷精英村平静部落、トーダ社(右写真にローマ字表記)の国民小学校。当時ここにテントを張らせていただいた。前にも書いたことがあるが、台湾では学校は露営地としては最高級の場所であるが、次第に締め出されつつある。但し、原住民主体の学校はまだまだ親切だ。

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2011年05月07日

能高越嶺古道−25:精英村平静(2)

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【写真説明】前回の記事で紹介した大同村と精英村+合作村の境界部分の濁水渓に何本の橋が掛かっているのか?は私は知らない。写真は実は平静部落ではなく、お隣の平和部落と対岸を結ぶ吊橋だ。対岸に渡り坂を詰めれば最後は清境農場方面に行き当たる。日本統治時代から、両岸のセデック族は吊橋を介し行き来きしていたようだが、それは日本人がそうさせたのだと思わざるを得ない程に谷は深い。何故、今回は吊橋の写真を持ち出したのかは、本文を参照願いたい。中央写真は現在の吊橋の遥か下に掛かる今は廃棄された旧橋で、日本時代にも同じ場所に掛かっていたかもしれない。濁水渓の水は実に鮮烈!

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2011年05月14日

能高越嶺古道−26:精英村平和

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【写真説明】平和部落、ルクダヤ社は、平静部落から北へ2キロ弱の場所にある。左写真は部落の俯瞰、奥に写る立派な峰を持つ濁水渓対岸の山はそのものズバリ、三角峰(標高2,376メートル)、日本時代からそう呼ばれていた。合歓山に至る現在の中部横貫公路(中横)霧社支線はこの三角峰の西側、同写真に写る峰の向こう側を巻いている。同峰南面下は嘗て「追分」駐在所が置かれていた場所で、現在は翠峰と改称され同場所に派出所がある小さな村を形成している。右写真はルクダヤ社内で見掛けた「高脚屋」(のはず)、日本だと高床ということになろうか?以前大安渓沿いのタイヤル族の村々で目撃したことのあるのは観光客を意識した複製だったが、このルクダヤ社のものは現役の倉庫である。「北坑渓古道−6」に掲載した写真と記事を参照にして欲しい。ここのオリジナルの集落は霧社事件後、他所に強制移遷させられている。(続く)

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2011年05月21日

能高越嶺古道−27:合作村平生

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【写真説明】タロコ族最古の村と言われるのが、トルワン社、平生部落である。つまり今現在花蓮県側で最大勢力となっているタロコ族の発祥地は、この南投県仁愛郷合作村最奥付近の地だという意味だ。中央山脈を越え勢力を伸張、やがて佐久間左馬太と対峙するあのタロコ族である。左写真はトルワン社内の一人家。

右写真は合作産業道路脇にある「太陽を射る」像である。「徳鹿湾」はこの集落の現代台湾の漢音訳である。像下には以下の説明プレートが嵌めこまれている。筆者拙訳である:

「伝説に依ると、嘗て二個の太陽、二個の月が同時に出現した。一人の壮年の父親が青年になった息子とまだ少年の息子二人を伴い、太陽退治に出掛けた。父親は目的を果たすことなく死んでしまった。青年だった息子の方はやがて壮年になり、一個の太陽と一個の月を退治し、且つ、もう一個の月に傷を負わせることに成功した。つまり、昼間に輝く太陽と夜に輝く月はこのようにして誕生した。その太陽と月とを射落すことに成功した息子は帰郷の途中、死んでしまった。父親が太陽退治に出掛けた折、まだ少年だったもう一人の息子はこの間、青年を経て父親と同じ壮年になっていたが、最後に故郷に辿り着いた時は、白髪の老人になっていた。」(続く)
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2011年05月28日

能高越嶺古道−28:合作村静観(1)

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【写真説明】左写真は静観部落の入口に立つ指導標。二つ、或いは、三つ(左から、Sadu、Truku、Busiq)の部落名が記されているが、今回の記事を書くに当たって色々調べやっと「解読」出来たと思う。中央写真は、部落全体を撮影した積りでいたが、静観部落内の最大集落、サード。右写真は合作産業道路の実質的な終点、合作国民小学校の校庭。サード集落のドン突きである。

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2011年06月04日

能高越嶺古道−29:合作村静観(2)

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【写真説明】台湾最奥部の原住民部落に敬意を表し、もう二枚写真を掲載することにした。前回掲載写真では全然伝わってこないその奥深さが少しは出ているのではないかと思う。教会の方は既に廃棄されていた。

ここまで、6回に渡り、能高山越嶺古道の延長線として合作産業道路沿いのセデック族の村々を紹介してきたが、やはり文字だけでは読者の方々に非常な不便を強制している心苦しさに堪え切れず、もう一度グーグル・アースに依るダイヤグラムを試みた。濁水渓谷は、合歓山群峰と奇来主山連峰の境界を形成しており、これらの村々と中央山脈両稜線の標高差は約2,000メートル、つまり山中と言う'より谷底にあるわけで、その谷の深さを表現する為に3Dのダイヤグラムにしてしまうと、全村落を見通すのが難しくなることが判り、教科書的な完全2Dにせざるを得なかった。

最後に。。。何故、私が村とか部落に拘るのか?一つには、私の生まれ故郷も以前は山中に部落が散在していたが、それらのすべてが宅地造成の為に、文字通り山は削られ谷は埋められ、土砂の下敷きになり、これらの部落は完全に消失してしまった。それでも父は自身の部落を何とか残そうと、その後に出来上がった団地内の公民館と公園の一つに部落の名前を残すことに成功した。(終わり)
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2020年02月22日

能高越嶺古道−30:古道東西分岐点

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【写真説明】筆者が能高越嶺古道分岐点として長らく勘違いしていた、南華山−能高山稜線と天池山荘から続く古道西段との出会い附近のパノラマ写真。同稜線南側の俯瞰で同写真中央に蒋介石筆に成る「光被八表」記念碑が写る。同写真中央が卡賀爾山、能高山頂上は僅かに右側に覗く、左側山塊は能高山南峰。この出会い、三叉路は能高[土|亜]口と呼ばれ、標高は約2,800bあるが、古道東西分岐点では無い。ここに掲載した三枚の写真は、古道東西分岐点の2019年10月時の状況。古道東西段と能高山登山道との三叉路に為る。同地での写真はこれら三枚しか撮影していない。能高山登山の復路時に再度撮影すれば良いと簡単に考えていたが、実際は、陽は完全に没し真っ暗闇、この分岐点迄戻って来たことすら判らなかった。
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2020年02月29日

能高越嶺古道−31:古道東西分岐点−2

【写真説明】前回記事で、能高越嶺古道東西分岐点が草深く東段の行方が見渡せず拍子抜けしたと記した。これは拍子抜けした記憶のみが強く残っていたからだと、その後当時撮影した写真を眺めながら気付いた。分岐点を能高山登山道の方に切れ上がると、南華山と能高山の稜線が狭い台地上に盛り上がっている部分に出る。此処迄辿ると、太平洋岸迄広がる古道東段を抱合する山と谷が連続する勇壮な俯瞰となる。それがこのパノラマ写真である。前回の投稿を起こす際にこの写真を撮影したことはすっかり忘れていた。能高越嶺古道の国家歩道に指定され林務局が管理している総延長は26.5`、西段延長は15.5`、高度差約800b、東段延長は11`、高度差約1,300b、これに加え、国家歩道登山口から更に車乗り入れ可能地点である宿泊施設のある奇莱保線所まで台電道路を歩く必要がある、その距離約5`、高度差約200b。斯様な塩梅なので、古道全段を踏破したい場合、西段から入り東段に抜けるのが普通である。更に、東段踏破の面倒な所は、一般自動車道省道9号丙線終点の銅門から旧省道14号線を経て台湾電力道路(奇莱路)を奇莱保線所迄辿る約14`間は車乗り入れ可能とは云え、必ず車をチャーターする必要あり、その費用5,500台湾ドル!(終り)
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2020年03月07日

能高越嶺古道−32:能高駐在所−1

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【写真説明】天池山荘の前身が日本時代の能高駐在所であることは、このブログ並びに弊別ブログ「台湾百岳」で繰り返し説明した。今現在は天池山荘の由来を説明した林務局の案内板が山荘敷地内に二種立っているので、ハイカーの誰もがその歴史を認識出来るようになっている。筆者自身は当時の同駐在所の名残りは、同山荘の西側出入口(屯原側)脇に残る弾薬庫だけと認識していた。2019年10月の能高山登山の際に、弾薬庫に加え、更に二件の遺物を「発見」した。発見を括弧付きにしたのは、最近になり新たに出現したのでは無く、元々現地に有ったのだが、迂闊にもこれまで気付かなかっただけなのだが。この古写真にあるように、当時の造りは壮大である。所謂総檜造り、檜御殿である。昭和5年(1930年)に勃発した霧社事件で焼け落ち、翌年新装された写真と思われる。現在の天池山荘はその敷地をそのまま引継いでいる。その敷地を前後左右で囲っていた石垣の相当部分がそのまま残っているのに気付いた。左・中央写真は山荘正面広場を支える石塁、右写真は山荘裏側を撮影。ところで、当時は、敷地内に神社が設けられていたと云う記事を何処かで読んだことがあり、筆者のブログの中でもそれを能高神社と説明した記憶があるが、台湾サイト上でその証拠は探し当てられずにいる。譬え嘗て当地に神社があったにせよ、能高神社の呼称は誤りである。と謂うのは、能高神社は別に存在し、在処は、埔里市街地、現在の台湾地理中心、虎子山頂上が元々の建立の地である。(続く)
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2020年03月14日

能高越嶺古道−33:能高駐在所−2:「能高」水準点

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【写真説明】天池山荘のトイレの傍に頭を覗かせている、大日本帝国参謀本部陸地測量部(略称陸測、現在の国土交通省国土地理院の前身)埋定の一等水準点標石。2019年10月以前は全く目に留まらなかったのが不思議である。尤もその時ですら、これが日本時代の遺物であることは即座に判断出来ても、何故元駐在所前に水準点が存在するのか?無知な状態だった。それで当時撮影したのは、今回掲載の1枚のみと云う杜撰さに相成った。今回の投稿に抜粋した記事を書き起こすに至り、サイトを渉猟し漸く日本時代の台湾に於ける測量事情の全体像が判って来た。現時点で台湾に現存する日本時代埋定の水準点一覧は、本ブログ左側メインメニュー「台湾現存水準点一覧」からファイルをダウンロードして欲しい。
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2020年03月21日

能高越嶺古道−34:松原駐在所−1

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【写真説明】能高越嶺古道西段起点から天池山荘迄の間に設置された駐在所はトンバラ(現代台湾表記は「屯原」)、尾上(現雲海保線所)、能高(現天池山荘)の三箇所であるが、霧社事件後、トンバラ−尾上間に富士見、尾上−能高間に松原の各駐在所が増設された。この内、本ブログで未紹介の駐在所跡はトンバラと松原の二駐在所であるが、トンバラ駐在所跡は古道出入口から相当離れた場所にある模様で、ここでは2017年10月に踏査した松原駐在所跡を紹介する。古道約7.5`地点、古道沿線の日本時代遺物としては明瞭な、炭焼窯跡(古道8`地点)が天池山荘側に歩けば往き当たる、目立って平坦な場所なので判り易い。丁度塩梅良く林務局に依る鳥類解説板が立っている(左写真)。(続く)
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2020年03月28日

能高越嶺古道−35:松原駐在所−2:「深堀山西南」水準点

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【写真説明】松原駐在所を過ぎ古道約10.5`地点に至ると、天池山荘の物と同じデザインの石柱が古道脇に頭を覗かせている。実はこちらの方は2017年10月に能高山を目指した時に目撃、写真に収めていたのだが、当時はそれが水準点と云う知見が無く、但し、以前八通関古道東段で目撃したことのある石柱と同じデザインであることには気付いていた。八通関古道東段起点から蕨駐在所間の通称「瓦拉米(蕨の日本語漢音訳)歩道」間に四基の水準点標石が残っているのはハイカーには良く知られており、筆者も最低二基は確認している。「総督府遞信部」の刻字があるので、地籍水準点でもなく陸測水準点でもないのだが、その時点では、八通関越嶺警備道に通信用電線が張り巡らされていた証拠だと勝手に思い込んでいた。実際は水準測量用標石であり、陸測水準点標石と同じく標石頭部に半円球の突起がある。
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