2008年04月05日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−1

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【写真説明】左写真は台湾海峡沿を走る省道1号線から分岐する屏東県道199号線に入ってすぐの道路脇の畑の中にぽつんと佇む「大日本琉球藩民五十四名墓」、良くも悪くも近代台湾の幕開けとなった牡丹社事件に因む古蹟であるが、今でも道路脇には一切の道標が無いのでここへ辿るには在り処を知った人に頼るしかない。中央写真は屏東県牡丹郷の郷公所(役場)のある石門村全景、同写真右側は屏東県では最大の水量を誇る牡丹水庫(ダム)、牡丹社は更に内陸に入った太平洋側にある。右写真は宮古島島民は流れ着いた八瑶湾全景、琉球藩民の墓は台湾海峡側であるが、八瑶湾は太平洋側。同写真右側には九棚砂丘が見える。
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2008年04月12日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−2

Kodou-201.JPG Kodou-202.JPG Kodou-203.JPG
【写真説明】牡丹渓が太平洋に流れ込む牡丹湾の小さな漁港が現在の古道入口となる。中央写真はそれから海岸沿いに続く自動車道、今は古道の一部を形成しているが将来の省道26号線である。右写真の海岸線が阿朗伊古道の「核心」部、つまり海岸線である。同写真奥は足下に旭海大草原を従える牡丹鼻。古道及び恒春半島のダイアグラムはここをクリック()。
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ラベル:台湾 古道 牡丹社
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2008年04月19日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−3

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【写真説明】左写真は古道南側起点、道路右側にパイワン族の数戸が点在する。中央写真は旭海大草原への入口に立つモニュメント。右写真はその草原内の一部を草原の最高点である牡丹鼻山の三角点付近から見下ろしたものだが、写真では草原という感じは伝わりにくい。
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2008年04月26日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−4

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【写真説明】左写真は鵝卵石の海岸と多分形のいい大物を狙らい波打ち際に目を凝らす業者。同写真奥の突端は観音鼻。左写真はそんな鵝卵石を販売している省道9号線脇の或る「石屋」。
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ラベル:台湾 古道 牡丹社
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2008年05月03日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−5

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【写真説明】左写真は、古道北側入口であるパイワン族の小村、南田。同写真奥の突端は観音鼻。右写真は海岸に遊ぶ水牛、海と水牛の取り合わせはおもしろい。
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2008年05月10日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−6

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【写真説明】台湾の国立公園第一号である墾丁国家公園は少なくとも海岸線を離れて海の色を眺めている限りは美しい。同公園の喧しさは年々酷くなるばかりで、それに関しここで特に筆を起こす気力は無い。これら三枚の写真は各々異なる時期に同国家公園の入口とも呼べる南湾を撮影したものである。いずれも南湾の海岸線と原子力発電所のドームが写る。発電所も立派に国家公園に包含されている。左写真は2001年9月、中央写真は2003年1月、右写真は2003年11月の撮影、右写真は大山母山(標高325メートル)の山裾から南湾を望んだものである。一時期、いずれも標高400メートル以下の低山である同国家公園内の山々を集中的に登ったことがある。墾丁国家公園は台湾の海洋公園の代表みたいなイメージがあるが、実は山側が麗しい公園であるというのが私の持論である。
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2008年05月17日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−7

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【写真説明】左写真の手前に写る石垣は、近代日本初の外征となった征台の役(1874年、明治7年)時に死亡した人々の霊を祀った「征蕃役戦死病歿忠魂碑」の台座。該碑の本体は既に遺棄されている。同写真の奥に写るのが嘗て「西郷都督遺績紀念碑」であったもの。今は「澄清海宇還我河山」(澄ミ清キ海宇、我ガ河山ニ還レ)のプレートに替えられている。「海宇」とは海と云うより国土に近い意味だろう。これら二つの日本時代の碑遺構は小高い丘の上に立っているが、一帯は征台の役の際の戦場、今に謂う「石門古戦場」である。台湾側の案内を見ると、この古戦場はこれら二つの碑が立つ標高370メートルの虱母山と同450メートルの五重渓山に挟まれた場所という説明がよく為されているが、もし碑の立つ小山が本当に虱母山であるのであれば、その標高は明らかに間違いである。
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2008年05月24日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−8

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【写真説明】左写真は征台の役(1874年、明治7年)の際の西郷軍上陸地点、射寮の海岸線。中央写真は国立海洋博物館の敷地内に立つ「明治七年討蕃軍本営地碑」。碑自体は明治7年当時の物だと想像されるが、碑の両面に刻まれた文字はその後故意に削られ殆ど判読不能。碑の基部には「昭和十二年三月改修 恒春郡」と刻まれている。写真に写っている側が碑の裏側、向こう側が碑の正面である。同写真奥に写っている別の碑は2000年に建てられた「日軍『討蕃軍本営地』記念碑記源」で牡丹社事件から碑の改建までを含む本営地碑の由来が説明されている。背景に写る小山は亀山。右写真は碑を囲む石塀で、昭和12年改修時のもの。当時の(陸?海?)軍様式に拠っていると思う。碑自体の大きさに比してその塀で囲まれた面積は非常に広くそっくりそのまま残してある。同写真の背景は海洋博物館の駐車場。
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2008年05月31日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−9

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【写真説明】左写真は、屏東県満州郷の郷公所(役場)付近の風景。2001年7月の撮影であるが、ここら一帯はそれ以降も全然変わらない。低い山々に囲まれた田園風景は実に落ち着く。満州郷内の景勝地を二つ;中央写真は満州郷内の最高峰、老佛山(674メートル)への登山口となっている七孔瀑布で撮影した一枚、名前の通り七つの滝壺を持ち、日本風に云えば七連の滝というところか。右写真は、墾丁国家公園内の太平洋岸の代表的な景勝地、佳楽水で撮影した一枚。層状砂岩と珊瑚石の海水に拠る侵食の妙が楽しめる。但し、海岸には漂着物が多く、当時はこの風景区への入口付近には猥雑な店舗が並びお世辞にも綺麗な観光地とは言い難かったが、今は整備されているのかもしれない。
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2008年06月07日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−10

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【写真説明】恒春から満州に向かい県道200号線を辿り満州の街が見え出す辺りの道路右脇にレンガ造りのかなり背の高い敬字亭(文字供養塔。実際には「聖敬亭」の額が掛かる)が佇んでいる。古色然とした建造物なのですぐに目に付く。敬字亭は本ブログの「浸水営古道−11」で既に説明したので、上掲写真と比較すると形状の違いがよく判る。浸水営古道上の敬字亭は清代の建造であるが、満州のものは明治時代の建造である。この敬字亭は次回のブログで紹介する「国語伝習所之跡碑」と田圃を挟んで向き合うように立っている。左写真は敬字亭の全身、中央写真はその基部の拡大、以前は鮮やかな色彩を誇っていたようだ。右写真は、敬字亭の前に敷設された寄進者名を刻んだ石版中の「明治丗七年」の銘、但し、日本人の名前は無い。

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2008年06月14日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−11

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【写真説明】屏東県満州郷里徳にある「恒春国語伝習所猪労束分教所之跡碑」。満州郷公所前から県道100号線を右に折れ里徳橋を渡り暫く行くと見えてくる。今はコンクリート製の涼亭(1997年製)に手厚く守られている。パイワン族の村落である里徳の旧社名は猪労束、今は山名として残る。森丑之助の回顧録「生蕃行脚」[簡便には、風響社出版「幻の人類学者森丑之助」(楊南郡著、2005年発行)を参照]では恒春テラソク社として僅かに登場する。左写真は、その碑と涼亭を裏側から撮影したもの。「手厚く」保護されている様子が判ると思う。奥に写る山が猪労束山(標高410メートル)である。
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2008年06月21日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−12

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【写真説明】右写真は最近になり整備され「恒春古城西門城文化広場」と名付けられた場所に立つ古城俯瞰図。プレートには「恒春県城」と記されているが、牡丹社事件以降、清朝は遅まきながら恒春県を設置、築城したものである。二枚目の写真は西門城文化広場の少し高い場所から恒春市街を俯瞰したもの。同写真左側に写るのが西門、その門より手前駐車場側が城内、反対側が城外。一枚目の古城俯瞰図と併せて見ると判るが、朱雀、白虎、玄武に相当する山々が写り込んでいる。これらの呼称は日本では高松塚古墳の壁画が発見された際、一般の人々の耳にも頻繁に入るようになったのではないかと思う。築城の際、その地を選ぶ際の謂わば験(げん)担ぎである。三枚目の写真は西門、同写真中の自転車の御仁は将に城外へ出ようとしているところ。四枚目の写真は南門と東門を繋ぐ復元された城壁。写真奥に写るのが東門である。即ち、写真左側が城内、右側が城外で、二枚目写真と同様に朱雀、白虎、玄武に相当する山々が写る。恒春県城の場合、東西南北の城門はすべて復元されている。この内、西門と北門は今でも一般道が通り抜けており、自動車も片側通行出来る。但し、東門と南門は通り抜け出来ないのは保存の為と言うより、片側一車線通行では現在の交通量を裁き切れないからである。
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2008年06月28日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−13

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【写真説明】前回の記事「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−12」で紹介した「恒春古城西門城文化広場」に隣接しているのが、「恒春鎮石碑公園」で一枚目の写真はその入口。公園名の横に更に「原猴洞山石碑公園」と書かれているが、頭の「原」は旧の意味、以前は猴洞山石碑公園と呼ばれていた。同写真奥、階段の上に見えているのは忠魂碑、二枚目はその碑の拡大写真、「忠魂碑」の三文字は削り取られ深く抉れている。ここに集められた石碑はすべて日本時代縁(ゆかり)のものであるが、現代の日本人からすれば実に不気味な公園だ。以下の写真を見ていただければ判ると思う。石碑の墓場である。
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2008年10月18日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−14

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【写真説明】恒春卑南古道シリーズは「台湾の声」では約二年前に三部に分けて投稿し、二部は今年になり既にこのブログの方へ転載した。今回最後の三部目を転載するのだが、その時期は実は何時でも良かったのである。何故、又今になり三部を転載することになったのか?実は最近台湾映画史上空前のヒットを続けている「海角七号」を観る機会があったからである。映画の舞台は恒春、そして映画の最初の場面で恒春城西門が出て来たのには驚いた。先のブログ恒春卑南古道(阿朗伊古道)-12で同城の東西南北の門の写真の中から西門の写真を選んだ筆者の「先見性」に驚いたという自慢話である。さて、この写真は所謂恒春老街で撮った写真である。この写真のテーマは何か?映画を観た方はすぐに判ると思う。ただ、何故映画の中でシューベルトの「野ばら」が使われたかは筆者には判らない。

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2008年10月25日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−15

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【写真説明】今回掲載した記事に関連する適当な写真が無い為、記事の内容とは関係の無い写真を三枚。いずれも恒春半島山中で撮影した野生の花達である。筆者は植物に関しては全く駄目なので各々の花の名前は聞かないで欲しい。一つだけコメントすると右写真の海老根は日本産と比べると実に大きい。恒春卑南古道(阿朗伊古道)−6等でも書いたように、恒春の美は墾丁に代表される海岸線にあると考えている人は多いと思うが、筆者の持論は恒春の美は山中にあり、というものである。その中でも山中に忽然と現れるように散在している草原が実に爽快で美しい。この草原に関しては後日書くことがあると思う。
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2008年11月01日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−16

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【写真説明】左写真は瓊麻工業歴史展示区内に栽培されている竜舌蘭、麻の原料である。中央写真は同区内に残る台湾繊維株式会社恒春麻場の宿舎跡。右写真は同区内に残る鳥居。
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2008年11月08日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−17

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【写真説明】大尖山は色々な機会に写真に収めていた積りだったが、特に墾丁国家公園のシンボル・マークにデザインされている針状に見える山容を写したものが無い。残念ながらここに掲載した三枚で我慢して貰うしかない。左写真は大山母山(標高325メートル)の中腹から大尖山(同318メートル)と文字通り台湾最南端、並びにバシー海峡を望んだもの。凡そ北西からの眺望。同写真左上隅に偶然ツマベニチョウが写っている。中央写真は国立公園内の一景点として青蛙石と呼ばれる露岩が海岸端にあるがそこからの大尖山を望んだもの。緯度上は完全に熱帯の草薮。凡そ真南からの眺望である。右写真は大尖山の麓に広がる牧場内から大尖山を見上げたもの。我々はこの方向から登り始めた。
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2008年11月15日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−18

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【写真説明】左写真は山麓の牧場の柵に設けられた大尖山への登山禁止の警告。見付かれば罰金3,000元(今日現在日本円8,800円程度)である。中央写真は頂上部の岩峰への取り付き地点。垂直に登るがロープが掛けられ樹木も多いので安全である。右写真は頂上の様子。このような岩のナイフを何本も突き立てたようなイメージで両側は見事に地上に向かって切れ落ちているが、その様はカメラではなかなか表現し難い。
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2008年11月22日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−19

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【写真説明】墾丁国家公園内の内陸部の白眉は南仁湖だと思う。ここに入るには予め予約しなければならない。左写真は入口の管理処(正式には「内政部営建署墾丁国家公園管理処南仁山管理站」)で渡される出入証。大尖山と空、海を意匠に使った墾丁国家公園のシンボルマークが印刷されている。中央、並びに右写真は南仁湖の風景。湖、沼、草原をすべて併せ持つ実に爽快な場所である。
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2008年11月29日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−20

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【写真説明】左写真は屏東県牡丹郷東源村にある現地では「哭泣池」と呼ばれている湖、地図には東源池と記載されている。中央写真はの同村の標示板。右写真は同じく同村内にある水上草原と通称される湿地帯。左写真の湖は右写真左奥に位置する。撮影したのは6月だがあいにくの雨天で、湖の写真も草原の写真もぱっとしないのは勘弁願いたい。
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2008年12月06日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−21

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【写真説明】墾丁国家公園の海岸線核心部を俯瞰出来る大山母山(標高325メートル)山麓の草原。この山麓から撮影した写真はこのシリーズの中で既に何枚か紹介して来た(シリーズ61517に掲載写真を参照)。中央写真は南仁湖の南側に位置する[土/卑]亦山(同363メートル)中の草原。この草原中の小さな沢近くでスッポンに出会い非常にに驚いた。屏東から恒春に掛けての山中では相思樹の「群生」をよく見掛ける。これがパイワン族に依る長年に渡る植樹の結果とは思いも寄らなかった。相思樹木の中を登山道が通っているば実に気持ちの良い登山を約束してくれる。右写真は屏東県来義郷丹林村にある棚集山(同899メートル)への登山道中にある相思樹の大木に囲まれた休憩所。写真に写る夫婦連れは思い思いに新聞を広げている。尚、「棚集」はパイワン族タナシウ社の日本語漢字音訳である。
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2009年03月14日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−22

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【写真説明】更に脱線が続く。実はここに掲載する写真が到着するのを先週末心待ちにしていたのである。今回掲載した写真はその写真が届かなかった為、窮余の策として借り物を掲載した。写真とは地中に埋もれた(どんな状態なのかは皆目見当が付かなかったが)「征蕃役戦死病歿者忠魂碑」の一部である。読者の中にも実際征台の役の石門古戦場跡にある小高い山(虱母山?)の頂上まで足を運んだ方がおられると思うが、そこに嘗ては「西郷都督遺績紀念碑」と並び立っていた。現在の様子は、「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−7」で紹介した。そこに掲載した写真手前に土台だけが残されている方に忠魂碑は立っていた。今はその石碑部分は消失しており、私は嘗てその山の頂上の縁を一通り調べたことがある。もう六、七年前のことである。当時、石碑は頂上付近の地中に埋もれておりその一部が露出しているというのを何処かで読んだことがあったからである。

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ラベル:台湾 台湾古道
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2009年03月30日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−23

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【写真説明】私は毎週土曜日に本ブログ記事をアップすることにしているが、今回は特別記事である。前回記事「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−22」で、「征蕃役戦死病歿者忠魂碑」は、その一部が現在同碑の台座と「西郷都督遺績紀念碑」が並び立つ虱母山(?)頂上の何処かに埋まっているはずだと書いた。昨日(3月29日)、G博士、T博士がそれを「発見」したとのニュースを受けたので、この両博士の快挙に敬意を表する意味で、早速T博士になる写真をアップすることにした。私自身前回の記事で書いたように七年程前から探していたものである。

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ラベル:台湾 台湾古道
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2009年06月13日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−24

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【写真説明】嘗ての宜蘭庁長官舎で今は「宜蘭設治記念館」として一般に開放されている。何故いきなり恒春から宜蘭に飛んで来たかは、本文を参照。日本時代の木造建築物を修復・復元し、歴史遺産・文化遺産として保存している例は台湾の各地で見られるが、ここ宜蘭市中心に位置する宜蘭設治記念館とその周辺の整備状況は恐らく台湾で随一であると思う。有料だが、わざわざ中に入らずとも、当時のままの庁長官舎を囲む石塀が低い為、中の様子がよく見て取れる。これら二枚は塀の外から撮影した。右写真は、その石塀の模様。清朝営盤に見られる典型的な「人」文字型の石組みであるのだが、何故それが台湾総督府下の日本人顕官の宿舎の壁に使われているかは判らない。同地の清朝役人の邸宅敷地を襲って庁長舎にしたのかもしれない。

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2009年06月20日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−25

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【写真説明】左一枚目は、2003年2月当時、宜蘭庁長官舎周辺に残されていたぼろぼろの日本家屋の一例。二枚目は、復元された宜蘭庁庶務課長官舎、2009年5月の撮影。同じ家屋かどうかは自信が無い。三枚目は、宜蘭庁長官舎付近に残されていたもともとは日本時代建設の監獄の外壁。奥は監視塔。同じく2003年2月撮影。付近の再開発にも拘わらずこの監視塔は廃棄されずに今はモダンな多目的コンプレックスの横に移されていて驚いた。同じく2009年5月撮影。

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2010年03月27日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−26

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【写真説明】左写真は屏東県牡丹郷四林村入口、同満州郷の郷公所から県道200号線を北上すればすぐに辿り着く。同村に残る「忠魂碑」、四林格事件での討伐側である日本サイドの殉職者慰霊碑。右写真は、最近、この忠魂碑と並べて建立された四林格社側の犠牲者の慰霊碑。大概は日本時代の慰霊碑は打ち壊されるか、抗日記念碑に模様替えさせられるのだが、これは珍しい例である。

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2010年07月31日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−27

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【写真説明】再度、旧四林格社付近に残る忠魂碑の紹介である。左写真は忠魂碑を裏側から見たもの。碑と土台の大きさが判るようにデイバックとステッキを添えた。中央写真は、忠魂碑正面の全体と最近になって建てられた四林格事件記念碑。右写真は忠魂碑土台の細部。

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2011年03月12日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−28

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【写真説明】とうとう「大日本琉球藩民五十四名墓」への入口に交通標識が設えられた。幹線自動車道脇の道路標識だけではない。そこから墳墓に至る道は中央写真に見るモダンな煉瓦敷きになり、且つ、右写真に見る太陽電池付きミニ灯篭が墳墓へ誘う。墳墓近くには日本の神社鳥居を意識した木製ゲートまである。以上は墳墓に纏わる歴史を知れば過剰な意匠である。昨年2010年11月末撮影。

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2011年03月19日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−29

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【写真説明】左写真は石門山の入口に立つ登山道標。中央写真は山中で見付けた台湾人が「鶏肉絲磨vと呼ぶキノコ。食用である。同写真手前のキノコ傘の径は優に十センチはあるのでかなりの大振だ。余りにも沢山あったので持ち帰るのに苦労したが、このキノコ狩りに一年後同地を同じ時期(7月)に訪ねたが、全然見当たらなかった。色が白く、鶏の腿肉のようにキノコの繊維が細かく割けるのでこの名が付いたようだが、私が一緒にキノコ狩りした台湾人からは匂い、或いは味が鶏肉に似ているからとも聞いたような記憶がある。それで私は「鶏肉香磨vだったはずだ思い込んでいた。別名「白蟻傘」、白アリと共生するのだそうだ。右写真は頂上付近、全く眺望が効かない。登山道標にある「1030」の数字は標高ではなく、登山口からの登山道の距離である。

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2011年08月06日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−30

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【写真説明】左写真は阿朗伊古道である旭海安検所。安検所とは行政院海岸巡防署の出先機関で、日本なら海上保安庁管轄ということか?この全国的に統一された派出所紛いの建物の広場には「休息所」(同写真左側)まで設けられており、写真に写るす(疲れ切った)すべての人々が炎熱地獄古道歩きのハイカーである。中央写真は、その安検所前に建てられた古道案内図。右写真は、牡丹湾漁港入口。紅牌海鮮店が私のお気に入りの食堂で、同写真右側一番手前のプレハブだ。尚、看板にある「龍蝦」とは台湾では通常伊勢海老のことだが、大陸ではアメリカザリガニを指すことが多いようだ。

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ラベル:台湾 台湾古道
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2013年05月04日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−31

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【写真説明】上掲左写真は、中国安徽省省都合肥(がっぴ・ごうひ)駅全景。中央写真は合肥旧城内で最も賑やかな「淮河路歩行街」(淮河路歩行者天国)の入口付近。淮河(わいが)=淮水は黄河と揚子江の中間を流れる河で華北、華南の境界を為す。曽国藩、李鴻章の湘軍、淮軍の「淮」である。但し、淮河自体は合肥市の北側150キロ程度の場所を流れる。右写真は、その歩行者天国沿いに立つ李鴻章故宅(正式には下掲左写真に写るように「李鴻章家族住宅」)、或いは「李府」(下掲中央写真)と呼ばれる住居群正門左側の路地。下右写真は今は博物館として一般に開放されている故宅の中の展示物例。

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2013年05月11日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−32

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【写真説明】新北市貢寮区澳底は今でも小さな漁港である。そこから海岸線を僅かに南下すると「塩寮抗日遺址」という外側は中華風の装いの記念公園がある。日清戦争後、北白川宮能久親王率いる近衛第一旅団の上陸地点である。同公園はここら辺りの経緯をすべてガラスに刻み込んで展示するユニークな歴史博物公園である。右写真奥に写るのは、現在見る抗日記念碑、建立当時は「北白川宮征討記念碑」であり、そのオリジナルの記念碑デザインが同写真に見るガラスの透かし彫りだ。下掲左写真は塩寮抗日遺址内の北白川宮能久親王レリーフ、右写真は鹿児島市南洲墓地内の篠原國幹墓碑、西郷隆盛墓碑の左翼であり、右翼は桐野利秋墓碑、2012年7月撮影。

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posted by 玉山 at 18:12| 台北 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月07日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−33

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【写真説明】左写真は琉球館に至る狭い路地の様子。中央写真は琉球館前面。右写真は琉球館横の空き地とその後方のマンション群。琉球館の存在は風前の灯か?本文記事中に挿入の写真は、琉球館入口、宮古島島民遭難事件関連の日本側公式文献は「琉球館」の記載だが、「柔運駅」が正式名。下掲左写真は、琉球墓園入口付近の様子、墓園塀上の「琉球墓園」の表記、これら二枚の写真から判る通り、これまで丁重に取り扱われて来たようだ。右写真は墓園中の狛犬で相当古そうだ。

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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする