2022年09月24日

内本鹿越嶺古道西段−6:バリサン段(6)

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【写真説明】桃源中学生に依る旧バリサン社尋根踏査ビデオの内容は判りにくい。判りにくいと云う意味は、バリサン社の末裔の人々は何処に移遷しそこは今現在何と呼ばれているかということだ。林一宏リストのバリサン駐在所の「現在地名」の項には「無」と素っ気なく書かれている。でも今になりバリサン旧社に対し尋根の旅を続ける人々がいるのだ。そもそも桃源国民中学の現在行政区画は高雄市桃源区桃源里、当時の日本橋より更に北になる。他方、この尋根踏査を引率したのは宝山部落の長老、現在の行政区画では同市同区宝山里、藤枝林道途中にある集落、内本鹿警備道西段、嘗ての中心崙(チュウシンロン)社である。桃源中学と中心崙社の距離は相当あり、これら二つを繋ぐ契機をイメージ出来ない。今回踏査した出雲山林道沿いにブヌン族の旧社遺構、或いは住居遺構は二箇所、一つはバリサン駐在所遺構南側300b、もう一つは同駐在所遺構北側900b(林道1,600b付近)である。筆者のスケッチ、各々右側下と右側上に相当する。桃源国中踏査行の尋根の地と駐在所遺構南300bの住居遺構が同一かどうか?確認する術はないのだが、桃源国中動画に写る住居遺構は集落遺構の趣があり、筆者のイメージに残るスケールに大きな差がある。掲載写真左は林道東側の住居遺構、中央写真は林道西側。右写真はもう一つのブヌン族住居遺構と想定されるもの。(続く)
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2022年09月17日

内本鹿越嶺古道西段−5:バリサン段(5)

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【写真説明】バリサン駐在所遺構の筆者に依るスケッチを元に紹介するのが手っ取り早いのでそうさせて欲しい。出雲山林道は駐在所遺構の真ん中を正門から入り裏門に抜けていくような錯覚を覚える。林道は単純に遺構中央を北から南へと貫いていると云う意味だ。実際何処が正門なのか?は皆目見当が付かなかった。規模が大きかっただけに神社も建立されていたことは十分に想像が付き、その神社跡地と思しき残骸もあり、そこら辺りから正門の在処を予測出来たのかもしれない。上段左写真は、出雲山林道がバリサン駐在所遺構に入り込んだ時点で林道中央に設えてあった炉、前回のコメント通り、今年1月の尋根(魂)踏査の際に使われたものだと思われる。林道最南側から左側(東側)に延びる石塁が見事な部分のパノラマ写真を埋め込んだので御閲覧頂きたい。上段左写真と相向き合う形になる。恐らく石塁遺構としてはこの左側石塁が最高級のものだ。その石塁のクローズアップが上段中央・右写真、筆者の現場スケッチのハッチング右側と左側に相当する。下段写真は筆者現場スケッチの補完、左写真は駐在所敷地東側と思われる方面の遺構だ。ブヌン族石板意匠(無論意味判らず、尋根踏査の際置かれたものか?)と見事な石塁。中央写真はその見事な石塁を抱合する敷地東側に設営された正門かもしれない遺構、その右側は神社遺構ではないかと推論、四角形の台状を為しているからだ。右写真は水槽遺構?(続く)
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2022年09月10日

内本鹿越嶺古道西段−4:バリサン段(4)

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【写真説明】左・中央写真は出雲山林道と馬里渓との初めての出会い、馬里渓は荖濃渓の大支流である濁口渓の源流、濁口渓は最後は大津にて出遭い高屏渓に統合される。ここの渡河地点は小川程度だ。繰り返しになるが「蕃里」も「馬里」も「バリサン」の漢音訳だ。中央写真はその馬里渓を渡り切りバリサン駐在所まで最後の登りに掛かろうとする場所、同写真の手前に河原の石が写る。その坂を登り切り先ず目に飛び込んで来たのが、原住民が張ったと思われるテント、狩猟ベースキャンプと推測されるが彼等にとり招魂の地だ。但し、末裔の居住地を特定出来ておらず。次回は広大なバリサン駐在所遺構の概要紹介を試みる。(続く)

(追加コメント)ネットを渉猟していると『踏査「馬里山舊址」 桃源國中帶學生尋根』と云う今年1月22日付けのニュースに当たった。筆者の入山より僅かに一箇月前だ。高雄市桃源区文物館員に引率された桃源国民中学生に依り実施されたニ日間の踏査行なのだが、筆者が目撃したテントはこの時のベースキャンプ設営に使われた模様だ。彼等の目指したものはバリサン旧社、筆者の目標は駐在所遺構と云う違いがあるので、バリサン社の末裔の話も含めて別の稿を起こそうと思う。
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2022年09月03日

内本鹿越嶺古道西段−3:バリサン段(3)

【写真説明】林一宏『日本時代臺灣蕃地駐在所』目録上のGPS情報と今回筆者自身が踏査した現地のGPS情報は大きく異なる点(添付ダイヤグラムの上段が今回の踏査対象、下段が林目録情報)に関しては、これ以上の詮索は止めにする。両者の乖離が大きくそうそう容易に現地調査は無理と考えたからだ。この詮索途上で京都在住のM氏より京都大学のデジタルアーカイブ『台湾演習林植物調査報告』(一予報、1931年、 植物調査班、京都大学デジタルアーカイブシステム)の中から実際バリサン駐在所が写り込んでいる写真(第五十五写真)を紹介いただいた。筆者が当日撮影した中に同じ方向を写したものがないか確認したところ、先の投稿で掲載した内本鹿警備道越嶺点を含む南一段方面の写真がそのものズバリだった。その古写真に写り込んだバリサン社と今現在残されているバリサン駐在所遺構位置はどうも異なるようである。古写真のものは中央山脈により寄っている。それで一つの可能性を示唆する為に、バリサン段(1)の中に『理蕃誌稿』からの引用を含めた。要は理蕃事業の変遷に連れ居住地も変化した可能性が高いということである。筆者が起こしたダイヤグラムは筆者の今回の踏査行のGPS情報をベースにグーグル・アースに落とし込んだのだが、これらブヌン族旧社とハイキング目的地が本当に見えていたか?大いに疑問だ。いずれにしろ、そのダイヤグラムと対比させるために、林道第二崩壊地点から撮影した中央山脈東側眺望写真をクロップした。筆者手元の記録では、林道起点1,618b、第1崩壊部1,533b、第二崩壊部1,426b、バリサン駐在所遺構1,277b、蕃里山1,216b。。。と云う具合の下り、写真撮影箇所と遺構との高度差が150b。写真を使った後追いは難しい。(続く)

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2022年08月27日

内本鹿越嶺古道西段−2:バリサン段(2)

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【写真説明】二箇所の林道崩壊箇所から東側には、中央山脈南一段核心部の実に壮大なパノラマが拡がる。実はこの核心部に視覚的にも対峙したのは初めての経験だった。核心部とはこの場合、内本鹿越嶺古道の越嶺点である。左写真は最初の崩壊箇所より撮影したものだ。林道を含む斜面そのものが流失してしまった部分。越嶺点は、最後方稜線中の中間地点に双耳峰を呈している部分があるがその鞍部で、越嶺点を乗越し中央山脈西側に転じた後、古道は写真左側へと辿る。越嶺点が稜線の真ん中に来るように配したので良く分るかと思う。双耳峰に見える左側が見晴山(標高2,720b)、そのまま稜線を写真左端迄辿ると複数のピークが見えるが、最も左側ピークが卑南主山(同3,295b)だ。中央写真と右写真は、2009年の八八水災から13年目の出雲山林道の荒廃の景観例。(続く)
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2022年08月20日

内本鹿越嶺古道西段−1:バリサン段(1)

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【写真説明】左写真は藤枝林道方面から国家森林区入口・森涛派出所、(出)雲山林道主線(石山林道と交差)、同林道旧線(見附山登山口方面)を望んだ。前者は同写真左側から真っ直ぐに横切る道路、後者は同写真中央部崩壊部、前者の下側を走る道路。中央写真は筆者の手元の市販地図上では「出雲山管制站」、出雲山(雲山)林道と石山林道の分岐点、嘗ては大型観光バスが行き交いした場所で駐車場だけは残されている。後者は内本鹿古道東段を襲ったもの、現在は専ら卑南主山方面への登山道で、筆者も過去数回自身で車を走らせたことがあるが、この管制站の印象はゼロ。その駐車場脇に、藤枝分遣所跡地から続く、島田、金谷、日坂跡と想定される天通山北峰、天通山の稜線への入り口があることを事後知ることになる。右写真は林道起点から0.75`の崩壊部、最初から修復にダメを押されているようなもの、詰まり雲山林道は全面車乗り入れ禁止である。
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2022年08月13日

六亀特別警備道−61:第49宿「土山」(2)

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【写真説明】此処迄書き殴るようにして綴って来た六亀警備道の踏査行だが、大津〜土山間最南段の終りのみに留まらず、六亀警備道踏査行としても恐らく最後の稿となるかもしれない。土山分遣所跡地迄を踏査し判った事は、草津〜水口間の分遣所は痩せ尾根気味の稜線上に設営された為、設営地を囲む石塁は力学的には稜線両側に引っ張られる格好になり崩壊も速い。この為遺構としての残存状況が極めて悪い。従来の登山道としての六亀警備道南段起点は南真我山、ここから北側へ向かい稜線を登り詰めていく恰好になるのだが、稜線の広がりが大きくなる。こうして土山分遣所跡地の石塁はそれまでの南側駐在所遺構に比べると格段に良い残存状況を呈していた。上段左写真は、南真我山山頂直下の登山口からそのまま山頂を経ずして延びる農道(同写真左側)と、山頂を経由する農道との出会い、農道と旧警備道が並行して開鑿されている部分。中央写真はその農道(同写真中央)と旧警備道が交錯しており、農道は登山道として右側に分岐していく地点、石塁が残っている箇所があり、筆者が以前坂下分遣所跡地として推定した場所である。しかし実際の分遣所跡地はこの分岐点と出会う旧警備道と思しき別の農道を僅かに南側に戻った場所にあるがほんの僅かに戻るだけである。その旧警備道と思しき別の農道との出会いが右写真である。下段左写真は上段右写真より更に土山分遣所に寄った地点で分遣所跡地出入口、中央写真は最初に出会う土山分遣所正面石塁、右写真は分遣所後方の石塁、これら正面裏面石塁の規模が判るようにパノラマ写真を埋め込んだ。土山分遣所遺構の残存状況と規模の大きさを感得出来るかと思う。土山の次の宿場、坂下分遣所跡地以降は従来より歩かれて来た古道としての六亀特別警備道沿線で確認可能となる。(終り)
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2022年08月06日

六亀特別警備道−60:第49宿「土山」

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【写真説明】石部-水口-南真我山間は旧警備道の風貌を色濃く残す段である。石部、水口の各分遣所跡を正確に特定するには各々の遺構の残存状況が芳しくない。それでも現在の登山ルートが警備道を襲った部分か産業道路と錯綜している部分なのかは想定がそうそう難しくない。左写真は南真我山直下の警備道の景観、但し警備道は同山山頂を越しているわけではなく、あくまで頂上直下、付近である。中央写真は南真我山頂上、以前「六亀特別警備道−13(南真我山基点)」でも紹介済みでもある。当時は南真我山頂上直下を土山駐在所跡地と想定していた(「六亀特別警備道−12(土山駐在所?)」)のであるが、実際の跡地は更に北側の当時坂下駐在所跡地と想定していた場所(「六亀特別警備道−14(坂下駐在所?)」)とニアミスしていた。ニアミスの意味は次回の投稿で説明する。右写真は南真我山頂上を超えて真我山方面、詰まり伝統的な六亀警備道南段の南側端緒である。(続く)
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2022年07月30日

六亀特別警備道−59:第50宿「水口」

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【写真説明】二回目の大津段踏査の際辿ったルートを三回目も忠実に辿った後、水口分遣所跡地、南真我山山頂、更に土山分遣所跡地を確認した。大津、草津、石部間は赤色ビニールテープが張られる形で旧警備道に沿う登山道は確保されていたが、石部-水口-南真我山(筆者が嘗て頂上直下を土山分遣所跡地と推定)間は乏しい布条(登山用マーカー)に頼るしかなかった。それでも旧警備道部分は左写真に見るような路側石が残存している部分があり、目指す南真我山の方向は明確だった。分遣所跡地遺構は草津、石部と同様特筆すべきものは無かった。中央写真はハイカー、或いは警備道踏査チームに依って掘り出されたもの、右写真は分遣所跡地と推定される平坦地。(続く)
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2022年07月23日

六亀特別警備道−58:第51宿「石部」

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【写真説明】草津から石部に至るに旧警備道に依って辿ることをせず、セブンイレブン駐車場から茂林市街地北側へ移動、姿沙里沙里歩道(左写真)から辿ることにした。理由は前述したように世界二大胡蝶越冬地を目撃したかったからだ。今現在は大量のルリマダラ類胡蝶の乱舞のピークを迎えているので、確かに個体数は多いと形容するには相応しいとは思へど、筆者の目撃したものが、典型的な個体数なのかは判らず。当該歩道は胡蝶生態園を離れると旧林道を伝い高度を稼いで行くが、九十九折を繰り返す旧林道のカーブ地点二箇所で旧警備道と交差する。左写真は下側の交差点から入り込み警備道と交差したことを確認した地点、旧警備道沿いの赤のビニールテープは石部分遣所跡地まで張られているのを確認した。草津分遣所跡地と同じく、石部跡地も右写真で見るように石塁の残存状況は悪い。旧警備道は、上側交差点で突然ビニールテープ誘導が打ち切られていたので、そのまま旧林道を辿る(下段左写真)とその終点に至った(中央写真)。林道はそこで終わりだったが、そこから更に南真我山山頂へ向かう登山道が確保されているのを確認(右写真)出来たので、次回踏査の目標とした。(続く)
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2022年07月16日

六亀特別警備道−57:第52宿「草津」(2)

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【写真説明】左写真は前回掲載下段右写真に写る稜線最上部の景観、低価格のビニールテープだが実に心強い。中央写真は左写真の稜線を登り詰めた箇所で見出した、正にそのテープ張りの現場、散乱している飲み物容器からテープ張り作業は原住民に委託された模様だ。右写真は草津分遣所跡地、同写真左側に崩壊した石塁が見られる。右側が旧警備道。このように分遣所跡地としての遺構は僅かに平坦地と嘗ての石塁が見て取れる程度の残存状況だ。それでも草津-大津間は往時の警備道の景観が良く保たれている段だ。(続く)
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2022年07月02日

六亀特別警備道−55:第53宿「大津」(3)

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【写真説明】左写真は、ウィキペディア中文版『六龜警備線』中の「大津」分遣所の位置情報「推定地点はコンクリート階段の左側」のコンクリート階段、茂林風景区大門駐車場北端のコンビニの台27線を隔てて向い側、何故今までこの階段に気付かなかったのだろうか、極めて不可思議。その左側は空き地だ(中央写真)。右写真は、階段上から台27線向い側(コンビニ側)を望んだ。

品川分遣所跡地を押えた後、俄然第53宿大津以北を南真我山迄辿れるだけ辿ろうと云う気が湧いて来た。大津分遣所跡地が茂林国家風景区大門駐車場だとして、第52宿「草津」分遣所跡地迄辿る為の出入口は何處か?2016年という古い投稿にその写真を見付け、灯台下暗しを恥じた。2016年の段階で大津より艱難辛苦して南真我山まで至っているので、今現在は更に入り込むハイカーの数は減っているのが予測され、草津分遣所跡地まで辿れれば善しとすることにした。品川跡地と同じ扱いと云うわけだ。件のコンクリート階段を登り切ると直ぐに旧警備道と思しき道が現出している。既に廃棄された産業道路と交錯しているが、大概の部分で旧警備道とその後開鑿された産業道路は区別出来る状態にあると思った。驚くべきは、旧警備道と産業道路を交差させつつ高度を稼ぐ六亀警備道最南端の登山道に沿い赤いビニールのテープが張られていることだった。古道研究グループか心あるハイカーか?何れにしても、この分だと筆者が以前特定を試みた南真我山登山口イコール土山分遣所跡地までテープが張られているのを必然と思い出してしまった。

今回、第53宿「大津」から東進(実際は北進)、第49宿「土山」迄をコースを変えて踏査した。添付ダイヤグラムの赤線が第一次、グリーン線が第二次、オレンジ線が第三次、各々今年2月13日、3月5日、3月13日に敢行した。大津-草津間は忠実に稜線を踏んだ。草津-石部間は稜線を辿らず、姿沙里沙里歩道から旧林道を辿り石部に至り、更に林道を終点迄辿り、水口方面へのアクセスを確認した。第三次は第二次と同じルートで石部に至り、林道終点から南真我山、土山に至り下山した。従って、草津-石部間の警備道踏査はスキップされたことになる。このようなルートを組んだ理由の一端は、夙に有名な「紫蝶幽谷」(日本人観光客向けには「茂林ルリマダラ生態公園」)にて「世界二大越冬型蝶谷」(以上、茂林国家風景区公式日本語サイトより)の一つで胡蝶の乱舞する様を垣間見たかったからだ。初めて茂林風景区大門を潜った時より既に二十年を超えてしまった。
(続く)
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2022年06月25日

六亀特別警備道−54:第1宿「品川」(2)

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【写真説明】品川跡地はの石塁は残存状態の良いものは見当たらず、残骸が散乱しているような塩梅だった。分遣所建屋敷地は二段、若しくは三段の層構造を為しており複数箇所でビン類、碍子の散乱場所があった(以上、現場スケッチ参照)。左写真は最初に行き当たった竹林の中の土塁跡と思しき地点で掘り起こされたビン類、その中に、中央写真に写る瀟洒なガラス瓶があった。化粧水か薬液かは判らないが、ビン底に旭日旗に似たものがあしらわれている。ヤフーの古瓶のオークションの中に同じ物を見付け、少し驚いた。留佐屯山西峰頂上は地形的に突出してはいないので、GPS情報は手元に在りながら三角点を探し出すのに苦労した。そこから川崎、神奈川方面へどう辿るか?は考えないことにした。第1宿分遣所遺構を確認出来ただけで大いに満足したからだ。(続く)
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2022年06月18日

六亀特別警備道−53:第1宿「品川」

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【写真説明】([口|戛][口|拉]鳳(カラブン)吊橋を渡り切りそこを走るセメント舗装の道路(ガニ農路)を右側、即ち南側に折れる。直ぐに留佐屯山西峰方面への三叉路に行き合う。最初からいきなりの登りで筆者の運転技術では疑問の急坂が見て取れる。。。と以前書いた。日本橋分遣所の踏査が今年1月16日、約一箇月半後の2月26日にガニ農路に車を乗り入れ品川分遣所跡地の踏査を目論んだ。予想通り、ガニ農路は悪路であった。四駆は必須の悪路を普通乗用車で挑戦した。無論、筆者の運転に非ず、G博士の弟にお願いした。農路入口から品川跡地と目される留佐屯山西峰頂上に至る登山口まで落差600b、距離7〜8`を見込んでいた。当日、農路約1.5`地点で農道は倒木の為に大いに崩壊(上段左写真)、前日か当日早朝に発生したものと思われた。そこから徒歩を強いられたが、3`弱で登山口の貯水槽に辿り着いた(中央写真)。詰まり、品川跡地に至るには、ガニ農路の落差、正確には550b、距離大凡4.5`を征する必要があると云うことだ。熟練ハイカーなら最初から徒歩でも苦にはならないと思う。農道進行方向左側にある貯水タンクを横切り斜面を僅かに上がる(右写真)と、警備道跡を想起させる窪地(下段左写真)に出会う。そのまま辿ると石塁の残骸(中央写真)を見付けた。この石塁の後方は竹林で土塁跡を思わせる土手があり(右写真)当時の生活遺物が多数掘り起こされていた。明らかに品川跡地である。筆者の現場の簡単なスケッチを添付した。(続く)
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2022年06月11日

六亀特別警備道−52:第12宿「沼津」(2)

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【写真説明】沼津分遣所跡地では正面門に至る回廊ばかりに関心が集中し、駐在所構内の遺構の確認は疎かになった。残存状況の優れた石塁二箇所と使途不明の遺構ぐらいしか撮影したものが残っていない。。。記事の穴埋めを意図しているわけではないが、読者の方々の混乱と筆者自身の困惑を少しでも緩和する為に、ここで少々脱線することにした。これまで、駐在所、警戒所、監督所、分遣所という呼称を横断的に使って来たが、これはウィキペディア中文版「六龜警備線(警備道)」に収録されているリストに依っている。その情報源の大部分は台湾大学登山社(山岳部)の踏査結果がベースになっているというのが筆者の理解だ。台大学側の拠り所は不明だが、以下三つの資料に依り、前出の対原住民警察機関に関し些かコメントする:

『戟戰奇萊−隘勇線與駐在所』、林一宏、國立臺灣圖書館《臺灣學通訊》第82期
『從隘勇、警手到蕃地警察』、鄭安睎、國立臺灣圖書館《臺灣學通訊》第88期
「隘勇」、『ウィキペディア』(中文版)
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2022年06月04日

六亀特別警備道−51:第12宿「沼津」

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【写真説明】旧沼津分遣所跡地(その景観は[1][2][3]の埋込写真参照)の稜線上平坦地に掛かり再び下り斜面を降り切る(上段左写真)と、あっという視覚衝撃を受ける回廊が現出する。台湾人の言う「完整」な浮築橋である。目測40bの完璧な残存状況を呈した先に、日本人なら思わず「大手門(追手門)」を想起させる駐在所正面門が待ち構えている。そう、山中の城である。中央写真はその回廊にステッキを渡し幅をイメージ出来るようにした。優に2bはある。右写真は石塁の高さをイメージ出来るように撮影したもの。下段左写真は正面門を背にし回廊を撮影したもの。中央写真は正面門の景観、右写真は正面門下に設営された階段。更に二枚のパノラマ写真を添えた。[4]は上段左写真と同じ大手門、[5]は更に宝来渓方面に進んだ先にある裏門、搦手門の風情がある。(続く)
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2022年05月28日

六亀特別警備道−50:林務局護管所(廃棄)

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【写真説明】例えば、ウィキペディア中文版の「六龜警備線(六龜警備道)」項の解説では、二箇所の護管所(遺構)を警備線沿線の駐在所遺構の中に含めている、或いはそのような意図が見える。筆者には日本時代の警察機関としての駐在所と、これら戦後の林業行政統括機関とがどのような関係にあるのか?未だ明確ではない。が、林務局公式サイトを閲覧してみると、護管所という林務局機関は最早存在しないようだ。その意味では今回の投稿に掲載した写真を見ていただければ感得いただけるように、日本時代の駐在所と同じように護管所も「古蹟化」しつつあるということだ。林務局サイトのホームページを「山林資源」→「森林保護及管理」→「森林保護」→「森林護管」という順で追い掛けて行くと、最後は以下のような説明に当たる(筆者拙訳):「本局は管轄する全台湾の国有林を8箇所の林区管理処(管理事務所)とそれらの統括下に35箇所の工作站(事業所)に分割し、国有林巡視並びに管理業務を実施している。同時に千人以上の森林護管員(巡山員)を配置し森林巡護の責任体制を敷いている」。要は、林務局の「護管」とは「森林巡護」のことであろう。尚、台湾の森林護管員は、日本の「自然保護官(レンジャー)」と同等のものかどうか?筆者は知見無し。いずれにしても、現在の六亀特別警備道が属するのは屏東林区管理処、その公式サイトの沿革の部分には、現在の機関の前身として明確に「高雄州産業部林務課出張所」との記載があるも、警察機関との関係に触れた部分は無し。上段左・中央写真は残存状態の最も良い棟、右写真はその棟の東側にある崩壊した別棟、下段左写真は日本時代との関係を示唆しているような古石塁、中央写真は沼津分遣所跡地に近付くにつれ立ち現れる宝来渓対岸の急斜面、第13宿「原」分遣所以降が設営された方面になる。右写真に写る最高山塊は渓南山、同写真中央手前の丸い稜線を呈するのは小田原山、渓南山右側の三角錐を呈するのは渓南山前峰、その頂上南側が第17宿「興津」分遣所跡地とされている。原宿から、藤枝国家森林遊楽区内の府中宿までの警備道概念図を埋め込んでおいた。「小田原」、「七坑温泉」、「渓南山」、「渓南前峰」等が警備道開鑿位置をイメージするのに便利だ。兎にも角にも、ため息が出る程に圧倒される高度と距離だ。(続く)
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2022年05月21日

六亀特別警備道−49:第11宿「三島」

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【写真説明】「沼津」分遣所遺構の踏査には丸一日を充てたことは既に紹介した通りである。小関山林道約10`地点にある路側に駐車スペースのある場所に車を停め、林道入口方面に歩き返しながら宝来渓方面への折口を探した。すると直ぐに廃棄された林道支線に当たり(左写真、筆者の正面が林道入口、林道支線は左側イコール東側)その廃棄林道を暫く辿った後に谷側へ降りた(中央写真左側が谷側への折口、GPS軌跡も参照)。右写真は谷側へ下り出した斜面の景観。そこから200b程度下ると三島分遣所跡地と思しき平坦地に往き当たる。沼津跡地に至るまで基本同じような景観で、明晰ではないにしろ大凡旧警備道跡をトレース出来る状態にある。三島跡地は目立った駐在所遺構が無い代わりに、次に立ち現れる林務局護管所遺構までの間に駐在所遺構と思しき小規模の石塁が間歇的に続く。そんな中で割と残存状態の良い石塁のパノラマ写真を埋め込んだ。(続く)
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2022年05月14日

六亀特別警備道−48:第10宿「箱根」

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【写真説明】「箱根」分遣所跡地は、小関山林道沿いの六亀特別警備道の最南の駐在所跡地となり、林道約10.5`地点から西側(林道起点を背にして左側)に入り込むとそれらしき石塁(左写真)に突き当たる。パノラマ写真も参考までに添付しておく。駐在所跡地として疑いようがないのだが、ダイアグラムを見て判る通り、箱根−沼津間は駐在所遺構と思しき箇所が一箇所多い。この謂わば「字余り」の解決策として、台湾ネット上の公開報告を見ていると、二通りある:一つは、ダイヤグラムの様に、沼津分遣所を新旧の二つに分ける方法。これはそういう歴史的なイベントが存在したのかもしれないが、二つの沼津跡地は接近しているので説得力はある。もう一つは、小関山林道西側遺構は無視して、ダイヤグラム上に筆者の方で「三島」分遣所跡地と表記した地点を箱根跡地として見做す方法。筆者の手元の市販地図帳では、この箱根跡地と思しき場所に「林務局富園駐在所(廃)」の標記がある。林務局機関としての駐在所という呼称を目にしたのは初めてのことだ。日本時代の警察機関としての駐在所と混在して使用しているのかどうか?は定かではない。現地には塩ビの水管が渡されていたるのを目撃した(中央写真)ので、林務局の苗圃が嘗て在りその為の駐在員の作業場兼宿泊所が存在し地図帳の標記になったかもしれない。六亀警備道は箱根を過ぎると、小関山林道を離れ、沼津分遣所に向かい急降下、そのまま宝来渓まで降り切り渡渉し対岸の山に取り付くのだが、その宝来渓沿いに湧き出る温泉の中に、富園橋温泉と云う標記を見付けた。宝来渓は、玉山連峰に源頭を持つ荖濃渓の支流の一つだが、渓谷沿いに複数箇所で温泉が湧き出しており、地図上では通常「七坑温泉」から始まり「十三坑温泉」までの標記がある。要は古来から十箇所以上の湯場があったという意味だ。これらの温泉は、極めて著名な温泉街を形成している宝来温泉の源頭になるはずだ。何れにしても、富園駐在所と富園橋温泉の標高差は500bもあるのだが、何故これら二つの地点を結び付けたのかは不明。右写真は箱根跡地で目撃した約9箇月前の日付けをマークした布条、「六亀警備道踏査」と読める。これも筆者が当地を箱根跡地として特定した理由の一つである。(続く)
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2022年05月07日

六亀特別警備道−47:第9宿「小田原」

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【写真説明】今回の三日間の踏査行の中でどうしても尋ねたかったのは、小田原と沼津分遣所遺構である。規模が極めて広大と聞いていたからだ。小関山林道沿線の藤沢〜箱根間で、最も林道からの距離が長いのが小田原分遣所跡地である。それでも林道からの距離と落差は各々凡そ200b、50bに過ぎなかった(筆者の現場での実際のトレース参照)。小関山林道11`地点に車を停め適当な入山地点を物色、最終的に選択したのが左写真だ。中央写真は小田原跡地の最も南側と思われる地点に現れる、殆ど崩壊した石塁。最も丈の高い石塁は跡地の最も北側に位置する分遣所遺構を支えていたと思われる。右写真に見るように大人の背丈を超えている。遺構のスケールを感じ取って貰う為に、以下三枚のパノラマ写真を添えた。先のトレースでも判るように傾斜地に設営された駐在所である::

パノラマ#1:跡地の東端の石塁の一部。
パノラマ#2:南端に位置すると思われる最も規模の大きな石塁。上段右写真の石塁を抱合。
パノラマ#3:跡地の西側の景観、何処まで広がりがあるかは未確認。(続く)
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2022年04月30日

六亀特別警備道−46:第8宿「大磯」

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【写真説明】大磯分遣所跡地は小関山林道約12.5`地点、立地は平塚と全く同じだと言えるが、更に林道に隣接している(左写真は筆者の背中が林道起点側、左側土手から進入)。これも平塚と同じだが、旧警備道と思しき跡を辿る(中央写真、右側が林道側)。平塚跡地と比べると藪から解放されており、嘗て畑地、恐らく林務局の「苗甫」(花卉樹木の苗育成所)として利用されていた可能性は平塚より更に高いと予想する(埋込パノラマ写真参照)。但し、遺構の残存状況は平塚に比べると見劣りがする。右写真の中央部に写る石塁が唯一の駐在所遺構かと思われた。(続く)
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2022年04月23日

六亀特別警備道−45:第7宿「平塚」

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【写真説明】平塚分遣所跡地も大磯分遣所跡地も、小関山林道の起点を背にして左側(西側;右写真右側土手)にあり、林道に隣接していると云う表現でも良いぐらいの距離しか無い。但し、藤沢跡地の三角点のようなマーキングがあるわけではないので、GPS座標無しで探し出すことは困難だ。平塚分遣所は林道約13.5`地点、林道から入り込んだ地点が実際の跡地より北側だったので、暫く林道沿いに警備道の痕跡と思われる部分を南側に歩かされる羽目になった。跡地は山側だが平坦地、以前は畑地として利用されていたのではないか(前述の警備道痕跡も農道跡かもしれない)と思わせるような茅が大勢を占める立地である。石塁の丈が高い分遣所遺構はかなり良く残っている(埋込パノラマ写真1とパノラマ写真2を参照;中央写真はパノラマ写真2に写る石塁の拡大図、両遺構は別棟)。(続く)
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2022年04月16日

六亀特別警備道−44:第6宿「藤沢」

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【写真説明】六亀警備道上の駐在所遺構を求め小関山林道を何処まで辿るかについては、実は藤沢分遣所跡地が適当でないか?と最初から目論んでいた、と言うより決めていたというのが正直な所だ。何故なら、森林三角点を擁する小斯拉巴庫山(標高1,377b)山頂が藤沢であるという知見があったからだ。筆者は日本時代に埋定された三角点は山頂の高低に拘らず機会があれば尋ねることにしている。しかも林道脇の登山口から5分程で山頂まで辿れるという山行記録も目にしていた。登山口は二箇所、林道起点を背に右側(東側)にあり、南北両方から林道に沿い、緩い登りが付いている。これがそのまま警備道であることは、僅かに路肩擁壁の石塁が散見されるので直ぐに感得出来る(左、中央写真)。三角点は分遣所跡地の中に埋定されている(埋め込みパノラマ写真;三角点は左端に小さく写る)。殖産局森林課に依る三角測量は、大正14年(1925年)から始まり昭和19年(1944年)迄継続されている。六亀警備道の整備が進むのは五箇年計画理蕃事業の最終年、大正4年(1915年)なので、分遣所設置の方が明らかに早いはずだ。三角点が埋定された時は、藤沢分遣所自体既に閉鎖されていたかもしれない。小斯拉巴庫山山頂はそれ程広いとは思えなかったが、敷地を囲む石塁は殆ど崩壊している様子が落ち葉に覆われた起伏で判る。山頂南側の正門と思しき遺構の石塁の残存状況(右写真)は良好だった。尚、「斯拉巴庫山」(標高2,757b)と云う玄人ハイカー向けの山が、藤沢分遣所が設置された小丘陵より遥か北側にある。ブヌン語の漢音訳だと思うが、日本時代のカタカナ表記は「スーラバタン」、由来判らず。藤沢分遣所が設置された山はこのスーラバタン山に対峙させたものらしい。(続く)
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2022年04月09日

六亀特別警備道−43:小関山林道

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【写真説明】上段左写真は小関山林道約7.5`附近の検査哨、正式には、高雄市政府警察局六亀分局宝来検査所、今回の六亀警備道の踏査に際し、実に2006年以来久々にここのゲートを越した。既に標高1,200b程度ある。中央写真は、今回の踏査行の北限の駐在所、藤沢分遣所の在処、小関山林道14`地点の今は廃棄された検査哨、林道起点に向かい撮影、藤沢遺構直下南側、同写真左側から駐在所跡地へ辿れる。右写真は、中央写真撮影地点から林道を更に600b程北へ辿った先の新(左)旧(右)林道分岐点、右側林道は既に封鎖、藤沢遺構直下北側、同写真右手から駐在所跡地へ辿る。詰り、小関山林道14`附近で、林道脇の南北両方から藤沢跡地にアクセス出来るという意味である。尤も、この地点迄入り込み南北何れか側から進入する物好きは駐在所ハンターには非ず、三角点ハンターである。藤沢分遣所跡地=小斯拉巴庫山山頂だからだ。
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2022年04月02日

六亀特別警備道−42:第28宿「見附」(3)

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【写真説明】見附の次は第29宿「濱松」分遣所に至るわけだが、GPS情報を取得出来ず、見附分遣所から緩く広がる下りをどれほど辿れば行着くのか見当付かず。しかも見附山山頂まで至るのに随分時間を要してしまった。それで、六亀警備道関連の投稿サイトに最近よくアップされている五輪塔だけは見ておこうということで、濱松方面へ下った。それらのサイトでこの五輪塔は「神社」遺跡として紹介されているが、これは仕方のないことだろう。神社とお寺の区別をきちんとできる台湾人はそう多くないはずだ。サイト内に「日本人祭祀先人的紀念塔」のコメントを見付ける。そもそも五輪塔は卒塔婆、墓である。高さ40a程度の五輪塔は稜線右側(西側)端に佇んでいた。土台はセメントで固定されている。台湾サイト内の写真では転がしてあるように見えていたものだ。誰が何時どういう事由で持ち込んだのか?五輪塔は日本で独自に発達したとも言われるので、戦前の日本人だろうが、警備道開鑿と関係があるのかどうか?五輪塔はその下方の平坦地(中央・右写真)を望むような場所に立っているので、その平坦地が濱松分遣所跡地ではないかとも考えたが、見附分遣所との距離が200b程、近過ぎる。それでも中央写真に見られるような人工の石塁があった。(続く)
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2022年03月26日

六亀特別警備道−41:第28宿「見附」(2)

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【写真説明】見附分遣所跡地は、見附山頂上から僅かに南側に下った場所にある。跡地は広大でその敷地を囲む石塁の残存状況も悪くない。上段左写真は分遣所の正門を分遣所内側から撮影した。濱松方面はこの正門を右に折れる。中央写真は正門に外側から対し左側(左翼)の石塁、右写真は右翼の石塁。下段左写真はその右翼の石塁の延長である。中央写真は正門に繋がる石塁ではなく、左翼の囲み、右写真は撮影場所を失念したが、人工の石積が如何に崩壊していくか?の一例。筆者はこのような遺構を基本どのように記録していくかの教育を受けたことがないので、このように適当に撮影して並べているだけだ。従って広大な遺構という表現しか出来ないのだが、分遣所を囲む凡その石塁の四辺のサイズ、残存箇所、方向ぐらいはスケッチ出来れば望ましいと思う。それには時間と体力が必要で既に遅きに失した。撮影したのも正門の両翼中心、実際は正門の向い側も含め分遣所を囲む石塁はぐるりと残っている。筆者の踏査をサポートしてくれた登山ガイドに依ると長辺は目測35bあると言っていた。(続く)
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2022年03月19日

六亀特別警備道−40:第28宿「見附」(1)

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【写真説明】先ずは見附山(標高1,686b)頂上で出遭うのは台湾省政府図根点(左写真)。更に歩を進めると陸測三等の標石(中央・右写真)に迎えられる。中央写真は筆者背中が袋井方面、向い側が見附分遣所へと繋がる。山歩きが専門の筆者としては三角点標石の紹介のみで今回の投稿を完了させることにする。(続く)
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2022年03月12日

六亀特別警備道−39:第27宿「袋井」

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【写真説明】バリサン警戒所跡地を含む二つの丘陵上のピークを越えた後は大きく高度を落とし袋井分遣所跡地に至る。丁度見附山との鞍部になる。小規模な遺構であるが、分遣所跡地を即座に特定出来るだけの石塁は残っている。上段左写真と中央写真は分遣所跡地。右写真は分遣所の掛川側出入口と思しき石塁、下段左写真は見附側の出入口と思しき石塁。袋井分遣所の見附側下方には小さな沢が流れ込んでいた。六亀警備道の場合、駐在所は稜線上のピークに設けられたケースが多いので意外に思った。袋井から見附山頂上までは長い登りの連続となる。その間に掛川〜見附間の警備道上路肩擁壁の最も残存状態の良い部分があった(下段中央・右写真)。(続く)
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2022年03月05日

六亀特別警備道−38:バリサン警戒所

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【写真説明】「バリサン」の漢音訳は種々ある。元々はブヌン族バリサン社に対し使われた表記で、日本時代は片仮名で統一されていたが、戦後の漢字表記は様々。基本カタカナで表記されていた原住民集落の漢字化にルールが存在しないからだ。「媽哩散」、「蕃里山」、「馬里山」、「巴里山」。。。当時の地形図を見ると、三つの「バリサン」表記がある。原住民集落、内本鹿越嶺警備道(内本鹿古道=黄色線)上の駐在所、加えて、六亀警備道(=赤線)上の駐在所である。本投稿記事は無論六亀警備道上の警戒所(監督所)である。これらバリサンの在処を確認する際一つ気付いたのは、内本鹿警備道西段と六亀警備道北段の交差点、藤枝駐在所から前者の支線たる警備道が延びておりその終端がバリサン社駐在所であったことだ。通常バリサン駐在所の在処は、雲山林道(出雲山林道)起点から2.5`程南下した場所とされ壮大な遺構が残存している(後日「内本鹿越嶺古道」として紹介予定)。ところが、林一宏『蕃地駐在所建築』論文で紹介されているGPS座標は更に南下した地点を指し示しており混乱中。他方、六亀警備道上のGPS座標を何処で入手したか失念してしまった。掛川分遣所跡地とバリサン警戒所跡地(推定)の間は、掛川〜見附間警備道(ダイヤグラム上の「マリサン」は筆者の誤記)の中で最も勾配の急な部分でロープが渡してある(下段写真)。その急坂を乗り越してしまうと、二つの緩いピークを越えて往く。同時に、この区間は掛川〜見附間で警備道が最も平坦な部分に開鑿されている(中央・右写真は同区間の警備道景観)。因みに右写真は警備道がどう崩壊していくか?の一例。北側のピーク付近がバリサン警戒所跡地のはずなのだが、跡地と思しき平坦部が続々と現れ(左写真はその一例)跡地を特定出来ず。ところが、バリサン警戒所が設営された辺りの地形は外から見ると非常に特徴的だ。このパノラマ(藤枝林道18`地点から撮影)は藤枝から見附山まで連なる稜線の概念図である。(続く)
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