2022年02月26日

六亀特別警備道−37:第26宿「掛川」

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【写真説明】出雲山林道脇から小さな登りとなる登山道はそのまま旧警備道なのか?という質問に対し、イエスと言える証拠は、直ぐに遭遇する短い所謂「浮築橋」(左写真:筆者の背中が掛川方面)である。その幅は2b50a程度もある。殆ど崩壊しているのだが、名残り(下段右写真)はある。未だにこの道路構造を日本語で何と言うのか判らない。「自然石に依る路肩擁壁」だろうか?台湾ではこのような石積みの壁は駁砍と通称しているが、筆者のブログでは今後も石塁とか石垣とかの単語を用いることにする。狭い尾根状の坂道を登り切るとそこはもう掛川分遣所(中央写真、右側が警備道、分遣所跡地は左側上方と推定)である。登山口から約300b、15分も掛かっていないはずだ。小さな分遣所だったらしく、駐在所を囲む石塁も見当たらず。右写真はその坂道を登り切る直前に露出していた当時日本人警吏・眷属が消費していたビン類、ハイカーが掘り起こしたものだ。分遣所跡地と思しき平坦地の中に、四周を精緻な石積で囲ってある用途の判らない掘り込みを見付けた(下段右写真)。尚、出雲山林道脇登山口から見附山までの警備道線はこのダイヤグラムを参照。(続く)
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2022年02月19日

六亀特別警備道−36:(島田、金谷、日坂)

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【写真説明】現在は六亀警備道路の全段を便宜上南北の二つに分け、各々北段、南段と称している。筆者の記憶に依ると以前は存在していなかった呼称である。その分岐点が見附山、見附分遣所だ。日本橋を起点とする北段を通しで歩くのは最早困難だが、大津を終点とする南段は元々稜線上の山々を目指す登山道として利用されて来たので、通しで歩ける。見附山から南真我山までと云う意味だが、この間通常は丸々二日間かかるが、一日で歩き通してしまう猛者もいる。見附山は単独でも良く登られているのを筆者が知ったのはつい最近のことだ。藤枝国家森林遊楽区を起点とする出雲山林道(筆者の手元の地図帳では「支線」。「旧線」と云う表現も有り)を南側に辿ること3.5`の地点に見附山への登山口があり、登り始めるとすぐに第26宿「掛川」分遣所遺構に出遭う。詰り、この3.5`の間に表題の三分遣所が存在していたことになるのだが、林道は、これら分遣所が設置されていたと思われる稜線西側に開鑿されている(ダイヤグラム参照)。この林道区間、見附山登山口に向かい緩やかな下り一方、往きは良い良い、帰りは怖いの典型で、帰りの登り返しは苦痛!左写真は林道上から仰ぐ藤枝分遣所跡地の森濤派出所である。林道東側を注意深く観察していたが、稜線への取り付きになりそうな場所は多かれど(中央写真)、布条等の物理的なサイン無し。台湾ネット上で唯一六亀警備道関連遺跡と思われる情報を含む山行記録は『高雄縣桃源郷天通北峰及天通山登山簡訊』である。天通北峰(標高1,647b)、天通山(同1,549b)の順に辿り、天通山山頂南側に住居跡地の記録あり(抜粋参照)。これが掛川分遣所との距離を考慮すると日坂分遣所跡地である可能性大だ。他方、藤枝森林遊楽区入口と天通山山頂間稜線上に島田、金谷の分遣所が設置されたはずだが、それら故地の位置情報は未だ見付けられていない。右写真は出雲山林道支線上の見附山登山口付近、実際の登山口は同写真の左側。(続く)
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2022年02月12日

六亀特別警備道−35:第22宿「藤枝」

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【写真説明】左写真は藤枝国家森林遊楽区がまだ八八水災復旧期間中、即ち閉園中だった2016年に撮影した、遊楽区入口とその奥に写る『日本時代臺灣蕃地駐在所建築之体制與實務』に依る「藤枝」分遣所跡地の森濤派出所(正式には「高雄市政府警察局六亀分局森濤派出所」)。「もりなみ」とは優雅な日本語だ。何時、誰に依る命名かと興味深い。そう言えば「六亀特別警備道−21(扇平林道)」で紹介した派出所名は「もりやま」だったが、前者の規模が格段に大きい。中央写真は昨年末、見附山+見附分遣所を目指した際に撮影、今や六亀警備道南段と云う呼称があり伝統的に登山対象として台湾人ハイカーを吸引して来た稜線を望む。特に目立つピラミダルな山容を持つ二座は手前が見附山(標高1,686b)、後方が楡油山(同1,891b)である。どちらの頂上にも警備道としての遺構が残る。
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2022年02月05日

六亀特別警備道−34:「日本橋」(3)

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【写真説明】その梅園の中は大小の自然石が散らばっており梅園に趣を添えている(上段左・中央写真)。自然石とは河岸段丘を構成する石塊である。最初はバラバラにそれらの石が散らばっているとばかりに見えたのだが、よく見ると明らかに人が積上げた石の集合体が三基あった。その中の一つは四辺を持つ台状になっているのに気付いた(上段右写真)。古そうだが駐在所遺構かどうか?確認する術は無し。先達研究者の特定に敬意を表するしかない。『六龜警備道踏調査01(日本橋段、小關山林道段、沼津段)』と題する元気の良い六亀警備道踏査記録がネット上で公開されている。元気の良いとは台湾人若者グループに依る踏査行だからだ。サブタイトルに「日本橋段」の文字が躍るが、何故かここ日本橋の踏査はスキップされている。理由は判らない。彼らにとり踏査の名に値しない、自明のしかも低地の遺構という意味なのか?いずれにしても、台湾ネット上で日本橋分遣所遺構に関するビジュアルエイド付き情報に遭遇したことがないのだ。
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2022年01月29日

六亀特別警備道−33:「日本橋」(2)

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【写真説明】高雄市桃源区区役所がある同区の行政中心地域は、玉山国家公園方面に向かう台27線沿いにあり、日本時代「ガニ社」と呼ばれたブヌン族集落である。荖濃渓右岸の河岸段丘上に集落は形成されている。集落の載る河岸段丘の標高は約615b、荖濃渓対岸の標高約560bの同じく河岸段丘上に日本橋分遣所は設置されたのだが、対岸の何処なのか?全く見当が付かなかったのは前稿で述べた通りだ。以前はこの集落から荖濃渓対岸へ渡るのに河床に道路が敷かれていた。グーグルマップで見ると以前は掛かっていなかった[口|戛][口|拉]鳳(カラブン)吊橋が掛かっている(左写真、荖濃渓左岸側から撮影)。2014年竣工、全長180b弱、吊橋名のカラブンと旧社名ガニとの関係は知見無し。筆者は、恐らく毎年ルートが変わる河床道路は昔のまま通行が可能で、新吊橋は観光用の徒歩でしか渡れないものだと想像していたのだが、どちらも裏切られた。前者は、多分昨年夏の台風襲来時の洪水の為に両岸が断裂されたまま、後者は実際歩いている際は気付かなかったのだが、小型車なら通行が可能なことだ。筆者の当初の希望は車で対岸に渡り、あわよくば、嘗ての踏査行時(前稿右写真撮影時)に徒歩で辿った農道―台湾総督府殖産局山林課埋定の森林三角点のある留佐屯山西峰へ至る登山道、頂上付近に第1宿「品川」分遣所遺構があるハズ―に普通車で乗り入れ可能か?を調べたかったからだ。

吊橋を渡り切りそこを走るセメント舗装の道路(ガニ農路主線)を右側、即ち南側に折れる。直ぐに留佐屯山西峰方面への三叉路に行き合う。最初からいきなりの登りで筆者の運転技術では疑問の急坂が見て取れる。そのまま農道主線の緩い坂を登り切ると再び三叉路に出会い、右手は荖濃渓左岸川岸方向へ下る道が付いている。その先の平坦地に農園が拡がっている(中央写真)。『日本時代臺灣蕃地駐在所建築之体制與實務』から拝借したGPS座標にどんどん近付くので、日本橋分遣所跡地はその農園内にあることは容易に想像が付いた。この二つ目の三叉路の出会いは少々意外な気がした。藪の中に切り込まねばならぬことを覚悟し鉈を携えて来たからだ。加えて、譬え嘗て駐在所遺構が残っていたにしても、農園が拓かれた時点で一掃されてしまったことも想像出来る。農園への下り坂を降り切ると作業小屋がありその脇を通る小径を行くと、農園と川岸の突端の間にこじんまりとした梅園があり、満開を過ぎてはいるが白い花を咲かせていた(右写真)。(続く)
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2022年01月22日

六亀特別警備道−32:「日本橋」(1)

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【【写真説明】当時の地形図(例:左写真『臺灣全圖』昭和14年台湾総督府警務局第五版、30万分の1)にも表記があるので「日本橋」分遣所が存在したのは明らかだ。但し、その位置については、現在の高雄市桃源区区役所(行政区画上は、桃源区桃源里)の荖濃渓を隔て対岸にあることまでは地形図でも判読出来るのだが、対岸の何処なのか?とにかく対岸に渡りそれらしい遺構に当たるかどうか試してみようと云うのが2006年2月と5月の踏査行だった。結局それらしき遺物には当たったのだが、「日本橋」跡かどうかを確認する手立ては無く、それから長らく踏査は放り出していた。同地形図上表記のある「ガニ渓頭社」住居遺構だったのかもしれない。そこで画期的だったのが、前稿出の『日本時代臺灣蕃地駐在所建築之体制與實務』に収録されているGPS座標である。この論文に日本橋が収録されているのをご教示くださったのはM氏である。筆者が踏査した区域よりかなり南側、且つ荖濃渓縁(へり)である(中央写真)。同論文のコメントは「荖濃渓畔」だ。右写真(2006年2月撮影)に写る集落対岸の畑地と思しき二つの出っ張りの内の手前の方だ。前回は、目標地よりかなり上流側、しかも標高の高い場所を徘徊していたということになる。「大津」分遣所跡地の駐車場の写真を撮りに出掛けた翌日、「日本橋」分遣所遺構を確認しに出掛けた。前者までは筆者のアパートから1時間強のドライブになるが、後者までは優にその倍の時間が掛かる。(続く)
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2022年01月15日

六亀特別警備道−31:第53宿「大津」(2)

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【写真説明】左写真は茂林国家風景区の入口の大門、2001年5月、二十年前の撮影だが今もこのまま、この大門を潜る前に右側に遊楽客用の駐車場があり、そこが「大津」分遣所跡地であることが判明した。中央写真は前回「大津」投稿記事に掲載した中央写真と同じ位置から撮影したもの(2017年4月)だが、稜線突端の右側下に写る白い路側ガードの連続点の道路を隔て向い側が大津分遣所の特定点である。右写真は、GPS座標が示す大津分遣所跡地の大門横の駐車場、この稿を起こすに当たり今朝方片道60余`、約1時間のドライブの末の撮り下ろしである。大門の後方は六亀警備道最南端稜線の終端部分だ。下段左写真は風景区大門手前にあるビジターセンター傍の掲示板(2017年8月撮影)で、大津の跡地は上から二番目の駐車場(「P」)と三番目の障害者用駐車場の中間辺りに相当する。上段左写真の大門は「牌樓」と記されている。この案内図と同じ位置をグーグルマップで切り取ってみた。案内板地図と合わせる為に上を南にした。筆者がそれまで想定していた分遣所位置である大安禪寺と実際の位置は直線距離で300b程差がある。ところが、日本時代の地形図(下段右写真)だと大津は随分標高の高い所に表記されている。詰り、実際の位置は謎と云うことになろうか?
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2022年01月08日

《嘉義県の古道》大坑山古道−2:大坑山基点峰

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【写真説明】大坑山歩道の方が圧倒的に人口に膾炙しているので、大坑山をその歩道が整備されている山間部と誤解している向きは多いようだ。三角点を擁する大坑山については、これまでの嘉義県の古道を紹介する中で、既に数葉の写真を掲載して来た。良く目立つと云うのもあるが、すくっと立ち上がった三角錐の山容は筆者の好みである。そこで是非登ってみたいと云う思いは強かった。ところが、ネット上での山行記録が非常に少ない。しかもその内容から察するに、登山口迄の道路状況が劣悪でハイカーに敬遠されているのだと考えた。要は四輪駆動車が無ければ嘗ての登山口迄のアクセスは危険極まりないと云う意味である。そこで、阿里山一帯の道路事情に精通しているG博士の弟に筆者の社有車(カローラ)を運転して貰い、とにかくアスファルトかセメントで舗装されている限りは入り込んでみることにした。大坑山歩道方面、大坑山東側からのアクセスに挑戦した。結果は散々だった。最後は最近地場の農民の作業車さえ入り込んだことが無いのが明白な、車道両側から茅が多い被さり路面が見えない状態の中をそのまま運転、そこを潜り抜けると物置らしき一軒の家屋があるちょっとした広場状の場所に出た。そこで急に視界が開けた。山頂直下である。更にコンクリートの幅の広い登りの車道が付いている。頂上だ。頂上にはコンクリート製の「逍遥亭」と額した大振りの東屋が立つ(左写真)。山頂付近に東屋が立つのはネット上で探し出した登山記録に付された写真で見てはいたが、山頂に立っているとは思わなかった。草茫々の中に寂しく佇んでいるものとばかり予想していた。竹崎市街地の足下の眺望、その先の獨立山を含む阿里山方面の山塊。。。大坑山の位置からして、息を呑むような大パノラマも当然と云ったような風情だ。地籍三等三角点は逍遥亭の東側にある(中央写真)。筆者の車より大型の乗用車で乗り付け逍遥亭で喫茶を楽しむ一団と出会う。明らかに山登りとは無縁の出で立ちだ。筆者が辿って来た同じ産業道路を潜り抜けて来たとは思えない。詰り、山頂迄至る別の車道があるということだ。筆者の車体に無数の引っ掻き傷を作りながら抜けて来た道路は、物置小屋脇の小広場からそのまま広く快適な車道に替わり西側に下って往くのだが、暫く下るとピカピカのお寺が現れた。佛寶寺である(右写真)。ここから大坑山頂上へ至る登山用階段が付いているのを確認した。漸く合点が行ったのは、何故大坑山の山行記録が極端に少ないかということだ。普通車で山頂迄辿れる山に対しわざわざ山行記録をネット上で公開する意味は無いのだ。それでも筆者にしてみれば普通車も運転手の技術と勇気の持ちようでは四輪駆動と引けをとらないぐらいに悪路を走行可能と云う痛快な発見だった。(終り)
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2022年01月01日

《嘉義県の古道》出水坑古道−2:篤鼻山・青園山(四大天王山連峰)

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【写真説明】先ず竹崎大坑山頂上から望む四大天王山連峰の大判の写真を埋め込んだ。「《嘉義県の古道》水水古道(竹崎郷)」で紹介したパノラマ写真と比較すると左側(北側)のピークが明瞭だ。出水坑古道から続く稜線で、篤鼻山、青園山北峰、青園山、知鳥山、四天王山と実際は五峰が並ぶ。篤鼻山山頂のみ三角点(地籍三等)が埋定されている。同写真の左側稜線の最初の鞍部から台地状の稜線間が出水坑歩道並びにそれに続く産業道路の部分に相当する。そこから登りの登山道となり連続する三座のピークが左側から篤鼻山、青園山北峰、青園山、そこから大きく切れ込んだ鞍部に続く右側二座が知鳥山と四天王山となる。ここに掲載した三枚の写真は筆者が先月登った三座各々の頂上の風景である。何れも眺望無し。

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2021年12月25日

《嘉義県の古道》出水坑古道−1

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【写真説明】上段は遊歩道としての出水坑歩道の景観。右写真は歩道終点であり、東側へ下り阿里山森林鉄道交力坪駅へ至る道と南側へ更に登山道へ繋がる道との三叉路になる。下段はその遊歩道部分の最下段(左写真)、最上段(中央写真)の各々に鎮座する土地公に加え、遊歩道部最上段からそのまま南側に繋がる廃棄された産業道路と四大天王山連峰への登山道とが交叉する場所にあるもう一基の土地公。これら三基の土地公は遊歩道として整備された出水坑歩道が実は出水坑古道と呼称されるべき証左であると思う。
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2021年12月18日

《雲林県の古道》苦苓脚古道−2

Kodou-2578.jpg【写真説明】前回今回と日本人には何と読めばよいのか判り辛い古道名を冠したが、元々この古道を目指したわけではなく、目的は前回の鉄国山の現場を確認することだった。どういう理由でその古戦場の南側の小さな街に足を向けたのか?もう思い出せないが、偶々同古道を示す石碑(上段左写真)を見掛けとにかく歩いてみたのだ。従って予備知識も無く、歩道として整備してある階段を登り降りしただけの記憶しかない。当時撮影した写真を見る限りは結構歩いているようだが、撮影した写真の殆どに対し記憶が飛んでいる。歩き始めた古道の階段脇の意匠(上段中央・右写真)に以下の紹介があった(筆者拙訳):苦苓脚古道」−昔は苦苓脚村民にとって唯一の外部への交通手段であり物品の販売購入の為にこの石段を何往復もしなければならず、毎日家に帰り着くと両足の筋肉痛が酷く、村民はこの村を「可憐脚」(台湾語発音:「可憐」はかわいそうの意)と呼んでいた。民国60年(1975年)になり「苦苓脚」と改名した。この古道と前回記事の鉄国山との関係は有るのかないのか?は判らないが、ネット上の紹介記事を見る限りでは大概セットだ。下段の写真は順不同で古道上で見掛けた古道の証らしきものを並べた。少なくとも両足が腫れ上がるような坂には出会わなかったと思う。台湾では「汗路」、或いは「汗路古道」という通称を用いている。これまで紹介してきた嘉義県の古道は全てこの人生重き荷を背負いて往くが如し山道である。(終り)
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2021年12月11日

《雲林県の古道》苦苓脚古道−鐵國山

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【写真説明】明治28年(1895年)の下関条約締結後、台湾内では各処で所謂抗日事件(武力抗争)が頻発するのであるが、筆者自身は戦後の赤化教育を受けた身故、「抗日」の文字を見るに付け心穏やかならぬものがある。そこでそれら対台湾総督府の戦場跡地を見て回ることに熱心では無いというのが正直な所である。台湾では武力衝突の現場は古戦場と呼ぶ人々がいる。偶々隔月誌『台湾山岳』の特集「福爾摩沙400年古戰場特捜」(2013年4〜5月号)を見ていたら、「鐵國山傳奇」とのタイトルで一つの古戦場が紹介されていた。筆者が興味を持ったのは「鉄国山」という固有名詞である。要は字面のことなのだが、旧字体だと迫ってくるものがある。最初は山名だと思った。色々関連サイトを渉猟しても釈然としない。先ず日本語サイトで該当する説明を探し出せなかった。そこでウィキペディア中文版にその定義を委ねることにした。こう記してある(筆者拙訳):

鐵國山」とは、1896年(明治29年)、簡義(字(あざな)「精華」)と柯鉄(号「鉄虎」)他を首領とし、雲林古坑大坪頂を根拠地に、日本統治に反対し武装抗戦した軍事組織である。(中略)1895年、清国政府は日本と馬関条約(下関条約)を締結、台湾を日本へ割譲した。翌1896年夏、雲林県の義民(日本統治への反対者)は同県梅坑(現在の嘉義県梅山郷)出身の簡義と、柯鉄他二十数名を首領と仰ぎ、二千余人が参集、この義軍(義勇兵)は雲林県東端の大坪頂を基地と為し抗日戦争を展開した。又、この大坪頂は峻険な山岳を形成していたので、「鐵國山」と改称、その意味するところは、「堅きこと鋼鉄の如し、何人も攻め難し」難所である。

この「鉄国山事件」は柯鉄が総督府と和睦する明治35年(1902年)まで続く。詰り、鉄国山とは大坪頂に拠った武装蜂起軍そのものを指すと同時に、地名にも転じたということだ。この鉄国山の字面にのみ引かれ現地に出掛けてみたが、峩々たる山が聳える代わりに、最高点が標高463bの平凡な台地(右写真、南西方向眺望と思しき地点)で、雲林県経済農場と刻まれた古ぼけた杭の立つ凡庸な畑が広がっているのを見せられたに過ぎない。抗日記念碑が立っているらしいが、運よく(?)往き当たらなかった。鉄国山と赤いペンキで古い農家の壁に大書きされたのを見せられた(左写真)のが少しばかり慰められた。この地が鉄国山であることを示す、当日目のあたりにした唯一の証だった。中央写真は目的不明の東屋風施設。(続く)
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2021年12月04日

《嘉義県の古道》半天古道(梅山郷):「徐徐品創」

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【写真説明】梅山は元々は梅仔坑と呼ばれていた地で、大正9年(1920年)の地方制度大改革で台南州嘉義郡小梅(庄)となる。戦後、台南県嘉義区梅山郷、1950年に嘉義県梅山郷となり現在に至っている。小梅は所謂日式地名で大正9年の行政区画再編の際、台湾全土に持ち込まれたという歴史がある。枚挙に暇が無い。梅山市街地の観光名所と謂えば日本時代に開園した梅山公園ぐらいだと思うが、印象に乏しいのは日本時代の遺物が皆無だからだろう。但し、梅の季節は賑わう。そんな中で、昭和5年(1930年)に棟上げした嘉南水利組合の事務所跡を襲った食堂兼コーヒーハウスは直ぐ目に付いた。台湾各地に少なからず水利組合関連の建築物は残っていると思う。さもなくば、跡地に戦後の水利会のビルが建っているのが恒だ。(終り)
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2021年11月27日

《嘉義県の古道》半天古道(梅山郷):「嘉義梅山乾隆民番界碑」

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【写真説明】半天古道は殊更に興味を持っていた訳ではないが、何処かで「民番界碑」のことを目にし是非見たいものだと冀っていた。第32弯から県道を離れ然る廟堂へと繋がる道を入り込むと赤地に「民番界碑」と白抜きされた標示板が立っていた(左写真)。そこから山側に入り込むとビニールに碑文をコピーした幟(下掲写真)が掛かっていたが、実際の碑が何処にあるのか俄かには判じ難かった。訪れる人は明らかに少ないと見えて竹が勝手放題に延びている。碑と思しきものは大きな岩であり(中央写真)、碑文は殆ど識別出来ない(右写真)。台湾のサイトで「民番界碑」で検索すると確実にヒットするが、この単語は通称だ。2014年に嘉義県指定古蹟となっているが、筆者が訪ねたのはその二年後ぐらいだ。文化資産局登録名は「嚴禁匠民越界私墾碑」、ウィキペディアには別称例として「梅子坑生番界碑」との付記があるが、観光用語としては、冒頭の件名に記した呼称が通例だ。筆者が興味を持ったのは開拓民である漢人と生番こと台湾原住民との抗争が実在したことを証明する生きた証だからだ。碑文には「乾隆參拾參年參月」(1768年)の銘がある。日本が台湾を領有することになる約130年以前である。碑文の中に「以大山脊分水爲界山前屬民山後屬番」と漢人開拓民と原住民との活動区域の線引きが極めて単純に定義されている。筆者が想像するに「大山脊分水」とは、雲林県と嘉義県の県境に聳える雲嘉大尖山(台湾小百岳、一等三角点、1,305b)に繋がる稜線(分水嶺)を指していると思う。その稜線の西側(山前)が漢人区、東側(山後)を原住民区として線引きしているということになる。(終り)
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2021年11月20日

《嘉義県の古道》半天古道(梅山郷)

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【写真説明】梅山市街地から東側阿里山方面へ至る車道の一つに嘉義県県道162甲線がある。この道路もそうだが、阿里山山脈の山襞にへばり付く特定の集落とそれらを繋ぐ自動車道を地理的に説明するのは難しい。162甲線は要は梅山市街地と途中半天村を通過し、阿里山山脈中でも著名な風景区に指定されている太平村市街地とを結んでおり、この間県道の延長は約12`、落差が千b程ある。現代の自動車道はカーブを繰り返しながら高度を稼ぐのであるが、「太平三十六弯」(上段左写真)と呼ばれ、カーブ毎に1〜36番迄の茶色の標識が立てられている。半天古道とはこの大規模な九十九折(つづらおり)を突き抜けていくわけだが、別名「汗路古道」と謂われるぐらいに急坂で、半天とは梅山市街地から嘗て半日掛けて辿り着くマイルストーンの地という意味だと思われ、幾つか半天の名を冠した集落が点在する。代表的な地名は半天寮である。今現在は第3弯を最下段起点として第28弯(上段右写真)迄を半天古道、それ以降36弯を経て太平村市街地迄至る歩道を太平古道と称している。半天古道部の総延長は2`ということだ(上段中央写真)だが、とにかく基本は真っ直ぐに上へ上へと階段を登るだけなので、筆者は第17弯に設けられた展望台迄足を延ばしそのまま引き返して来た。車を一番下に停め一番上迄詰めた後引き返して来る勇気は出なかった。下段左写真のように人工スレートへの置き換えが進んでいる(右脇の石組は土地公)ので古撲な雰囲気は消失している。唯一の例外は、古道途中の半天寮村(下段中央写真、同村を代表する鎮天宮)で土地の人に紹介された造紙寮(製紙工房、下段右写真)跡で、その遺構の中に「昭和」の文字を見付けたことだった。(続く)
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2021年11月13日

《嘉義県の古道》古梅古道(梅山郷)

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【写真説明】前回投稿中の上掲右写真には「安靖古道」と「古梅古道」が並列して標記してある。郷道115線上の複数箇所で目撃した。但し、この古道は筆者の手元の地図帳に記載は無い。安靖古道と同じく、車道の指導標を辿っただけで、古道らしき場所に辿り着けず。左写真は古梅古道の指導標の一つ。中央写真は恐らく古梅古道を歩くハイカーの為に設けられたガルボと思われるが、ハイカーが頻繁に立ち寄っているとは思えない。天井の梅のマークがユニークだ。右写真は左二枚の撮影地点付近の車道。(終り)
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2021年11月06日

《嘉義県の古道》安靖古道(梅山郷)

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【写真説明】梅山郷は竹崎郷の北隣である。この古道も筆者の手元の市販地図帳を眺めている時に眼に留まった。その赤線で示された古道の殆どが嘉義県郷道115線に沿っており山中に入り込んだ古道部は極僅かであるのが見て取れる。竹崎が文字通り筍の産地であるように、梅山も梅の産地である。竹崎市街地から郷道115線を東側に進んだ先にある嘉義県梅山郷安靖村は所謂ド田舎である。鉄筋コンクリートの現代建築物である安靖社区活動中心(上掲左写真)や安靖国民小学校(正式には大南国小安靖分校)が全く場違いに思える。郷道上に「安靖古道」の指導標は多い(上掲右写真)のだが、結局古道足る歩道の起点には辿り着けず。下掲載写真は古道と思われる車道上の景観。序でに加えると、古道の由来に就いては分からず仕舞い。尚、地図帳には安靖古道から枝分かれする柿仔寮古道の標記もあるのだが、指導標には出会えず。(終り)

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2021年10月30日

《嘉義県の古道》水水古道(竹崎郷)

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【写真説明】今日は筆者の63回目の誕生日である。手元の市販地図を眺めていたら、大坑山古道の更に東側に「水水古道」と云う表記があるのに気付いた。地図を見る限り、水道から凌雲巌へ辿る産業道路途中からその古道の西側起点に入り込めそうだった。その産業道路との三叉路には凌雲巌と刻まれた石碑が建っている(左写真)のだが、そこから水水古道起点まで通じていると思われる車道(同写真右側)は余りにも狭い。そこで古道東側起点である阿里山森林鉄道、水社寮駅(右写真)からのアクセスが便利そうだったので、日を改めて出直すことにした。水社寮駅は前稿で紹介した獨立山駅よりも更に阿里山側の駅である。日本時代は水車寮だった。水社寮駅迄辿り着けば、水水古道起点は自明であろうと予想していたが、然にあらず。替わりに、四大天王山歩道(中央写真)に出食わした。当初、この歩道イコール水水古道ではないかと考えていたが、直ぐに異なる山道であることが判った。先の歩道は、四天王山(1,458b)、知鳥山(1,445b)、青園山(1,437b)、篤鼻山(1,422b)の4座の稜線を貫き、阿里山森林鉄道のもう一つ嘉義側の交力坪駅とを結んでいる。これら四座を四大天王山と総称しているようにも見受けられるが、四天王も四大天も同義語だ。日本では前者が一般的、台湾では後者だと思う。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天である。埋め込んだ写真は凌雲巌に至る車道上に掛かった仁聡橋の袂から撮影したもの。恐らく快適な縦走コースと想像されるが、時間の関係で四天王山頂上まで至り引き返した。水水古道と四大天王山とは水社寮歩道と駅から程遠からぬ所で交差しているはずなのだが、交差点は判然とせず。ところで、「水水」とは、先に竹崎三大古道の番外編として紹介した水道と水社寮の頭(かしら)を取り命名したものだ。詰り、水道から大坑山古道に繋がる現在の産業道路はそのまま古道ということになる。(終り)
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2021年10月23日

《嘉義県の古道》大坑山古道(竹崎郷)

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【写真説明】左写真は大坑古道の入口。場所に関してはこのダイヤグラムを参照にして欲しい。中央写真は古道途中から大坑山を望んだ。今はマニアックなハイカーしか登らない。右は古道最上段の凌雲巌の境内。

台湾に大坑、或いは大坑山と云う地名は多い。「坑」は台湾語音訳で、河の傍、即ち谷を意味するようだ。この投稿のタイトルを大坑古道としたが通常は大坑山歩道という表記が一般的で、竹崎市街地にも古びた道路標識が良く目に付くので、昔から人口に膾炙しているのだと思う。にも拘らず筆者が現地に赴いたのは今年の春節になってからで、余り気乗りしなかったのは本当の意味での古道かどうか甚だ疑問だったからだ。ところが、この稿を起こすに当たりネットを渉猟していると、大坑山歩道を整備した際の記事があり、「数ある竹崎地区の古道の中でも塘湖古道と大坑古道が最も古い」と云う紹介に当たった。他方、日本時代の地形図を見てみると、相当する位置に道路が見当たらない。

いずれにしても、現在この地をポピュラーな観光スポットとしているのは、2,763段の階段である。これが歩道そのものである。竹崎郷文峰村大坑庄王厝の小村から凌雲巌と呼ばれる廟堂までを繋いでいる約2`の階段である。その落差600b、健脚だと40分程度で登り切れるという紹介がサイト上では目立つが、落差は実際その半分も無い。さもなくば40分では登り切れない。廟堂の創建が1964年、従って歩道は古道と言うより王厝からのショートカットと云う性格が強い。自動車道も付いており、同じ区間延々6`辿る必要がある。3,000段弱の階段と云うのは運動不足の方には堪えると思う。筆者にとり発見は先の投稿でも記したが、竹崎地区の古(いにしえ)の開拓民の艱難辛苦だ。今は舗装された自動車道がこれでもかこれでもかと云う具合に奥迄で入り込んでいるのだが、ぐんぐん高度を稼ぎながら狭く谷に張り出し、筆者の運転技術では大いに問題有りだ。(終り)


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2021年10月16日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−5(金獅寮造紙寮)

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【写真説明】蛇行を繰り返す県道166号線上には幾つもショートカット用の道路が付けられているがあくまで地元民のものである。金獅古道の廣福宮からもその一つが設けられているが、廟堂の駐車場から少しだけ入り込んだ場所に、古紙工房跡が公園として整備され一般人に開放されている。左写真にあるように、二枚の説明板があり、右側の案内板は「金獅寮−林家造紙寮(製紙工房)」と題し保存遺構の概観、左側は具体的な古紙製造方法が紹介されている。以下は右側の概観説明板の全訳である(原文は中文のみ):

「清末、中華民国成立初期は竹を原料とした産業が盛んになり、桂竹(台湾桂竹、タイワンマダケ)を利用した製紙業が本村の主要な生業(なりわい)となった。ここで製造される紙は粗紙であり、主な用途は祭祀用金子(きんす)や包装紙であり、全盛期には五十軒近くの製紙工房があった。1970年代になると手工業であるこの製紙法は、機械化に依る安価な大量生産には敵うべくもなく、伝統産業として没落してしまった。

林家の製紙工房は本村で最も完全に保存されている。一年生の竹が葉を付ける前に4.6尺の長さに切り揃えられ、更に細かく縦割りにした竹を束ねた上で、消石灰を加え「竹礐仔」(漬竹石槽)に四箇月浸けられ、その後更に真水に交換、竹の繊維が十分に柔らかくなったものを次の製紙工程で用いた。」

左側説明板は、製紙八工程を各々漢字一字で順に「輾」、「攪」、「入」、「撈」、「壓」、「開」、「晒」、「成」と代表させこれら製紙八工程の詳細を紹介している。左写真の歯車は第一工程「輾」に、中央写真は「攪」用か?(終り)
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2021年10月09日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−4

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【写真説明】金獅山登頂のみが目的であれば古道が県道と最後に交差する部分から登り始めれば良いわけなのだが、その下段の交差地点も同じで、駐車スペースが無いのが苦しいところだ。結局、古道入口の廣福宮の駐車場が最も簡便と云うことになる。前回投稿記事の左写真に写っているように、最上段の交差点から山頂までの距離は僅かに600b、左写真は途中の景観、中央写真は頂上直下、右写真は頂上のベンチと三角点頭が辛うじて確認出来る様。金獅古道最初の稿で紹介した大パノラマはここに埋め込んでおいた。同写真右端の山が大坑山(標高1,026b、地籍三等)である。(終り)
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2021年10月02日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−3

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【写真説明】金獅古道初回で、現代古道は県道と複数箇所で交差すると書いたが、その複数箇所の中から三箇所を選んだ。右写真は最上段の交差箇所でここから本格的に金獅山頂上稜線への取り付きとなる。嘉義県道166号線は台湾で三番目に長い県道で、台湾海峡沿いの東石郷市街地を発し、阿里山山脈中の梅山郷瑞里まで登り詰め、総延長が80余`ある。山岳道路に変じる水道頭から瑞里の区間は特に瑞水公路と呼ばれている。試しに、大正13年(1924年)発行の5万分の一地形図とGoogle Mapを重ね合わせて、現代自動車道と古道の交差状態をみてみた。一つ気付いたのは現在国家歩道として整備された古道はどうも地形図上の旧道(緑色)から大きく外れていることである。先ず金獅山頂上を通過していないのだ。又、運搬用のケーブル軌道も書き込まれており、この軌道跡が現在の歩道に近い。。。という具合に興味は尽き無い。(続く)
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2021年09月25日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−2

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【写真説明】今回は古道の香り高き地点を多少大判の写真で紹介する。(続く)
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2021年09月18日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−金獅古道−1

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【写真説明】国家歩道系統の中では金獅村歩道と呼称される金獅古道は竹崎三大古道の中では最も良く整備され、又、古道足る香りが最も良く醸し出されている。歩道として整備されている部分の総延長は2`、この間の落差は600b弱、往復2〜2時間半程度の昇り降りになるので、ハイキングとしては一般ハイカーにも適当である。殊に、360度の視野を埋め尽くす茶畑の只中になる歩道の終点、金獅山(点名:芋蓁坑)頂上は標高927b、圧巻の展望である。現在の古道は途中五、六箇所で嘉義県道166号線と交差するのだが、このことは取りも直さず金獅古道は県道166号線に取って代わられた事を物語る。その県道は多数のヘアピンカーブを擁するのだが、最下段に属するその一つの脇に設えられた大振りの廟堂、廣福宮(上掲左・中央写真)が現代古道の起点となる。この廟堂を潜った先に国家歩道ゼロの里程標が立っている(右写真)。そこから始まる古道部分は下掲載写真のように古道の雰囲気を湛えるように良く工夫されている。(続く)
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2021年09月11日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−番外:「水道」

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【写真説明】前回投稿で三大古道の本来の共通起点であろうと筆者が考察する「水道」に関し少し触れることにする。現在の正式地名は嘉義県竹崎郷龍山村水道頭である。妻の実家から歩いて行ける距離である。ここには所謂老街がある。手元の地図帳には「水道頭老街」との記載がある。又、ネット上で「水道檜木老街」と云う呼称を目にした。通常老街という場合、市街地の中の繁華街に多く、日本時代の建築物が中心になるが、水道老街は延長百b程の県道166線脇の路地のイメージだ。その老街の一本道、つい最近まで歩いたことが無かったし、水道が冠せられた地名であることを知ったのは更に新しい。上掲の三枚は「水道」が実際に確認出来るバス停(左写真)、中央・右写真は老街の中で見掛けた「水道」の文字。下掲左写真は老街を西側入口から望んだもの。中央写真は老街東側入口から望んだ。同写真に写る土手は日本時代建造の牛稠渓左岸の堤防跡だと思われる。右写真は台湾自来水公司の竹崎浄水場(正式には「第五区管理処竹崎営運所」)脇に設営された阿里山国家風景区に属する文峰ビジターセンター、同写真に大きく写る山は大坑山(標高1,026b)、以前は良く登られていたらしいが、今は登山道は荒れ果てている模様。この大坑山に付いては後の投稿の中で触れる予定。(続く)
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2021年09月04日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−塘湖古道−2

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【写真説明】牛稠渓沿いの平坦地である阿抜泉から急坂を登り詰めた場所になる塘湖集落の三景。左写真は集落内の一家屋。中央写真は塘湖山頂上下面の農道、頂上への道標である布条(マーカー)が小枝から下がっている。右写真は塘湖山三角点(地籍四等)だが地形上の最高点からかなり下った農道脇にあり探すのに苦労した。しかも三角点も頭が殆ど土中に埋まっていた。頂上一帯に茶畑が拡がっていた。以上三枚に写る道、いづれが古道かは特定し辛い。(続く)
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2021年08月28日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−塘湖古道−1

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【写真説明】左写真は嘉義県郷道120号線上にある塘湖古道の指導標、その古さから地元では人口に膾炙した古道であることが察せられる。同写真中の緑の指導標上の「水道」は地名であるが、文字通り日本語の水道である。中央写真は古道途中にある福建坪の集落のメインストリート上の一家屋、謂れがありそうな地名だが、日本時代の地図にはこの地名の記載は無い。右写真は塘湖古道として林務局が整備した最上段の入口。尚、塘湖の「湖」とは池の意味では無く、筆者の記憶が正しければ、窪地、山中の平坦部を指す台湾語音訳のはずだ。
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2021年08月21日

《嘉義県の古道》竹崎三大古道−独立山古道

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【写真説明】林務局が独立山国家歩道(嘉義県竹崎郷公所発行の絵地図)と指定している歩道は、三区域に分けられており、阿里山森林鉄道樟脳寮駅と独立山駅とを結ぶ区間を独立山古道、独立山駅から更に山腹を北側に奉天岩と呼ばれる廟を経て更に北へと高度を稼ぐ区間を紅南坑古道、これら二つの分岐点東側、独立山山頂を含む区域に設けられた歩道を独立山歩道として古道と区別しているが、ハイカーにとってはこれらの区別は重要とは思えない。左写真は独立山山頂、2003年の撮影だが、無基点峰であることも手伝い非常に印象の乏しい山頂、山頂まで辿り着いたことも忘れていた。2017年撮影の中央・右写真は独立山駅、阿里山森林鉄道の駅の中で最も人口に膾炙した駅の一つだと思う。
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2021年08月14日

蘭嶼−23:鰭尾

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【写真説明】蘭嶼の最北端は尾鰭(おひれ)ならぬ鰭尾である。俯瞰図で判るようにその形状から点名となったのだと想像される。最南端の南岬角と同じく地籍三等三角点が埋定されているのを知ったのは三回目の上陸前である。鰭尾は標高200bの狭い断崖であり、日本時代創建の優美な灯台が建っている。今は正式には「財政部關税局蘭嶼燈塔」だ。ここも初回の上陸時に立ち寄っているのだが、青青草原より更に印象が薄い。当時撮影した写真が一枚だけ残っており(「蘭嶼−9」)筆者の微かな記憶を証明してくれた。灯台は一般開放されていないので三角点が敷地内にあることを心配したが、敷地外にありラッキーだと思った。左写真は灯台へ辿る自動車道途中から南側、蘭嶼の表玄関、椰油村(ヤユウ)開元港方面を望んだもの。中央写真は灯台南側に位置する小天池(蘭嶼の著名な観光スポットの一つ、大天池に対する。大天池については「蘭嶼−15」参照)から望んだ鰭尾。同写真左側上に灯台の頭部が写り込んでいる。大天池の方も初回上陸時のみ探訪したが、当然の如く水を湛えていた。小天池の存在を知ったのは三回目の上陸前だ。二つながら足を延ばしたが、今年前半の台湾の異常乾燥のせいでどちらも完全に涸れ果てていた。(終り)
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2021年08月07日

蘭嶼−22:南岬角(青青草原)

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【写真説明】先ずは青青草原から太平洋を眺望した三枚の写真を並べた。三回目の蘭嶼上陸に際し初めて目にした風景だった。青青草原(本ブログ左側メニュー「俯瞰図」の[1]及び[2]を参照)は蘭嶼への初回上陸の際には立ち寄った記憶があるが、ヤミ族青年漁師の立像(「蘭嶼−4」)を撮影しただけでそくさくと立ち去ったのみだと思う。しかも環島公路から僅かに入り込んだだけで、隆起したサンゴ礁上に載っかった草原が太平洋に突き出た海岸縁迄の歩行を大いに牽制したようだ。陽が昇ってしまえばその熱帯の陽射しを遮るものが何も無いので焼き殺されるような塩梅になるのが理由である。二回目上陸の際はそういうわけで青青草原へは脚を向けなかった。三回目はこの草原に入り込みそこに付けられた遊歩道を歩く十分な理由があった。一体この草原の中のどのような場所に三角点が埋定されているのか?という興味はそうそう簡単には失せない。草原の中に小山があるわけではない。但し、傾斜が付いており海岸側が少し高い。
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