2021年01月02日

壽山古道−8:「哨船頭古道」−6:「壽山館」−2

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【写真説明】左写真は、前回投稿記事「壽山古道−4」の右写真に写る登山道階段を軍管制区側から見たもの。中央写真は、実際の登山道階段、直に百年を越そうとしているが、残存状況は驚く程良好だ。右写真は東屋の遺構状況。同写真奥の樹木が切れた部分から中山大学職員宿舎が望める。同東屋は裕仁親王高雄巡啓時に撮影された写真にも写り込んでいる。ここでは、「登山街60巷歴史場域」内の案内板Iに掲載されたものを転載、マーキングを加えた。
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2020年12月26日

壽山古道−7:「哨船頭古道」−5:「高雄温泉」

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【写真説明】左写真は、寿山国家自然公園北寿山駐車場出入口脇にある土地公「石頭公」、この下に青泉街に沿いに渡した側溝があり同駐車場との間に小さな橋が架けてある。その下に嘗ての高雄温泉ETtoday新聞雲、2019/01/08記事より転載)の冷泉(鉱泉、又は冷鉱泉)が湧き出している。中央写真は、その湧水が冷泉である証左であろうと思われる水泉花と呼ばれる麺状の白色物質が側溝を覆っている様子。呼び名は雅だが、昔、何処の溝川でもお目に掛かれたような気もする。右写真は、高雄温泉の露頭と思われる附近の側溝の景観、中央写真と同じ側溝で、前記の駐車場出入口から龍目井方向へ100bぐらいの場所。同写真右側に温泉館が建っていたかもしれない。
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2020年12月19日

壽山古道−6:「哨船頭古道」−4:「龍目井」

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【写真説明】左写真に写る柴山こと寿山への最も伝統的な登山口は鼓山区龍井里にある万寿山龍泉禅寺横にある。ハイカーの登り降りの洪水の切れ目を狙って撮影したら、却って高雄人のこの山への愛情が霧散してしまった。この登山口は寿山古道の内、内惟越嶺古道の東側起点ではないか?と筆者は睨んでいる。その登山口脇(左写真の日傘下)に格子状の蓋を被せた水路(中央写真、登山口を背にして撮影)があり、通常はそこを「龍目井」と呼んでいるようだが、実際の水源地は山中のはずだ。右写真は登山口に至る道路の一つ、「青泉街」の指導標、その意味する所は本文記事を参考にして欲しい。
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2020年12月12日

壽山古道−5:「哨船頭古道」−3:「打水」水源地

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【写真説明】「歴史場域」が中山大学敷地と接する最上部の直ぐ下にG番案内板「打水湾の水路跡」が立つ。即ち、壽山の中で希少な水源地から流れ出た湧き水を、嘗ての打水湾まで誘導するサンゴ石を積んだ水路が残っている。その付近はその湧き水が染み出し、水生植物の群生が見られる(左写真)。中央写真はG番案内板附近の景観、カヤツリグサが群生している。右写真は、G番案内板から下り、F番案内板「サンゴ石の排水溝」が立つ辺りの景観、水生植物が繁茂する排水溝とはG番から流れ落ちて来た飲料水の水路である。
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2020年12月05日

壽山古道−4:「哨船頭古道」−2:「壽山館」

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【写真説明】左写真は、「壽山館」跡地に立つ中山大学職員宿舎B棟西端から裏側に抜ける自動車道、筆者の背中左手から宿舎裏の山域に入り込んだ。そこは小さな空き地になっており、国軍管制区域警告板が立っている。中央写真左奥にサンゴ石の石塁が覗いている。この写真を撮影した際は意識していなかったが、右写真に写るコンクリートの階段を支えている。即座に、壽山館後方に開削された登山道、前回投稿で紹介した「展望道」の一部、裕仁親王も歩かれた古道だと判断した。
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2020年11月28日

壽山古道−3:「哨船頭古道」

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【写真説明】左写真は、「登山街60巷歴史場域」内の清代古道部分の丁度中間地点、F「サンゴ石の排水溝」の案内板が有る辺りの古道の景観、南側を振り返った。中央写真は、歴史場域内で最高点で最後の案内板、10「清代の古道と日本統治時代の展望道」(同写真右奥)越しに嘗ての打水湾、現在の高雄港側を望んだ。右写真は、中央写真とは反対方向から、登山街60巷方面を望んだもの。旗津-鼓山往復フェリー上からの撮影だが、清代古道を意識していたわけではなく、同写真上側の真っ直ぐな稜線上に写る白色の建物群の内、中央やや左側に写る黒っぽい屋根をいただいた建物(日本時代設営のゴルフクラブと謂われる。高雄人は「小白宮」、ミニ・ホワイトハウスと呼んでいる。国軍管制区域内に付き進入不可)を確認するのが目的だった。清代古道の目的地、大坪頂砲台は同じ稜線左側、裕仁親王が足を運ばれた最高点(「登山記念碑」が建てられた)は逆に同稜線を右側に進む。同写真中央奥のレンガ色の建物群は中山大学構内。そのまま右側に辿ると、裕仁親王のご宿泊地である「壽山館」なのだが、今は同大学職員宿舎に襲われている。
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2020年11月21日

壽山古道−2:「壽山清代古道」

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【写真説明】壽山清代軍事道路の一本である「哨船頭古道」の「歴史場域」内段、登山街60巷の入口付近の景観を三枚掲載する。住宅街の路地の登り一方の階段である。左写真の左側に写る日本式家屋は歴史場域のトイレ、詰り登山街60巷は歴史場域の西側に沿った路地。中央写真は、歴史場域内の4番目の案内板「壽山清代古道」の案内板が立つ辺りの景観。右写真はその案内板を過ぎ更に登山街60巷上方を望んだ。
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2020年11月14日

壽山古道−1:「登山街60巷歴史場域」

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【写真説明】左写真は行政区画では高雄市鼓山区壽山里に属する登山街60巷(巷は丁等に相当する住所の単位)入口を登山街西側から望む。中央写真はその登山街60巷に入り込み、そこに最近になり(2017年9月)設営された「登山街60巷歴史場域」を背にして撮影。右写真はその歴史場域の最下段を一望したもので、パノラマ写真も添付した。この広場は元々高雄築港出張所官舎跡地だったと現場に説明がある。
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2020年11月07日

出関古道−11

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【写真説明】通称「南湖遥拝所」は、南湖派出所より台3号線を僅か(恐らく100b程度)に北上、東側に登る自動車道を登り切った辺りの平坦地にあったはずだ。左・中央写真はその台3線との三叉路とその地の字(あざ)、右写真は日本時代建立の「遥拝所建設記念碑」、但し建設日、碑建立日の刻字無し(或いは故意に剥落?)。
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2020年10月31日

出関古道−10

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【写真説明】私事で恐縮であるが、昨日は筆者の62回目の誕生日だった。このブログ、何時まで書き続け、どう結末を付けるのか?考えあぐねる日々が続く。。。出関古道の周辺点景として後二箇所だけ紹介を続ける。出関古道東段北側起点を確認する為に、台3線から西側に郷道60号線を4`程辿ったと紹介した。この道中、往路か復路かは忘れたが、古ぼけた附近の名所案内板を見付け、そこに日本時代古蹟として石橋と駐在所が書き込まれていた。石橋の方は見付けられず。駐在所跡の方も殆ど諦め掛けていたが、復路、台3号線との三叉路まで降りて来た時、その交差点越し左手に明らかにそれらしい遺構が見えた。郷道60線を基準にすれば台3線の僅かに北側である。その時はそのまま高雄に戻るべく台3線を南側に下り遣り過ごした。後日、同じ苗栗県の一座に登った際、現地を時間を掛けて巡った。現在の苗栗県大湖郷南湖村南湖派出所に隣接していた。派出所勤務の警官は驚くべきこと(?)にこの遺構に関し何の知見も無かった。しかも、この遺構部分は派出所の敷地外のプロパティーとの由。但し、台湾ネット上で、この遺構の紹介を見付けられず、筆者の拠り所は、郷道60号線上の案内板のみである。(続く)
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2020年10月24日

出関古道−9

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【写真説明】出関古道東段、十份[山|東]段の北側起点の点景三枚。左写真は、台3線から自動車道である郷道60号線を西側に辿った末に往き当たる同道の最高点にある古道との分岐点。中央写真はその峠の自動車脇の意匠。この意匠の中心は、伝統様式に拠る「茶亭」、日本風に謂えば峠の茶屋である。右写真はその峠の茶屋。完全復元なのか修復なのか?は筆者は判断出来ず。但し、大正年間の建立である。
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2020年10月17日

出関古道−8

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【写真説明】新百二份山を越えさらに古道を北上すると産業道路、農道が一条の古道と数箇所で交差している部分もあり、台湾電力に依る工事現場とか意味不明の構造物と相まみえたりし、興が削がれると言えないこともないが、印象的だったのは、眼前一杯に広がった生姜畑であった。このカテゴリーの最初の投稿記事で紹介したように、この地は生姜の一大(?)生産地との触れ込みなので、ちょっと驚いたのである。実は霧が張り出して来て良い塩梅になったのだ。畑の西端は古道がそのまま農道なのだが、この部分の南側出入口(上掲写真)と北側(下掲写真)のそれを並べた。栽培状況が判るように、このパノラマ写真を添えた。(続く)
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2020年10月10日

出関古道−7

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【写真説明】雲洞山眺望台から約700b地点にある東屋「百壽亭」と、その脇にまだ立ち続ける新百二份山(847b)の三角点、正式には圖根點(地籍四等三角点)である。台湾ネット上に、この山名の別称として「菜寿凸」の表記を見付けたが、こちらが点名かもしれない。余談だが、地籍三角点の埋定、測量は、一等三角点に代表される陸測三角点のそれより早い。第三代台湾総督児玉源太郎治下、民政長官後藤新平の指揮で、臨時土地調査局(左写真に銘有り)を設立、ドイツの測量方法に拠って、地籍(土地戸籍)調査目的で三角測量を開始したのが、明治31 年(1898 年)、明治38年(1905年)に測量を完了させている。当時埋定された三角点標石は約3,300基、その一基なのだが、どんなに新しく見積もっても優に百年を越えている。それにしても「新」を冠したこの山名は悩ましい。では旧名、即ち新無しの山名がありそうなものだが、手元の地図を眺める限り見当たらない。序でに山名の中の「份」に言及しておく。安倍明義の『臺灣地名研究』に依ると、「份(分)」とは、「もともと脳灶(十灶を一份という)を設けた地に因んで名づけられたという。一説には份とは開拓した土地の股份(持分の意)の義であるともいわれている。」「脳灶」の読みは「のう・そう」、「灶」は「かまど」(竈)の意、樟脳の煮窯の事だと思う。尚、竈は「灶」の異体字である。要は附近は日本人が入り込む以前から樟脳精製の小屋が点在していたと謂う歴史点景だ。(続く)
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2020年10月03日

出関古道−6

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【写真説明】本古道の最初の投稿記事にて、古道東段(十份[山|東]段)4`、西段(聖関段)2.5`、現在歩道として整備されている部分の総延長は従って6.5`。この東段4.5`の距離は、どうも県道130号線を起点とし、雲洞山頂上の眺望台迄の距離も含めているようで、東段の実質的出入口は眺望台の北側に口を開けている(上掲写真)。そこからだと、東段の距離は約3`、筆者は時間の関係で凡そ三分の一だけを歩いてみた。古道入口から暫くの間は、古道然としており筆者を喜ばせてくれた(下掲左写真)が、直ぐに古道修復工事に往き当たった(下掲中央・右写真)。(続く)。
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2020年09月26日

出関古道−5

【写真説明】出関古道の最初の紹介記事の中で、古道東西段の分岐点を一応苗栗県県道130号線上としたが、実際古道東段の出入口は雲洞山最高所の眺望台(下掲写真)北側にある。県道からこの眺望台に至る迄は、「大湖薑麻園休阡_業区」(通称「薑麻園」)が横たわり遊歩道が付けられているので、ハイカーの好みによりコースを選べるのだが、総じて退屈な遊歩道だ。但し、眺望台からの眺望は先の投稿で紹介したように、腕に自信のあるカメラマンが群がる様が保証してくれている。その眺望台から撮影した写真二枚と聖衡宮横の民宿二階から撮影した写真を以下に掲載しておく。■マークをクリックして欲しい:

眺望台から南西方向、関刀山とその稜線。この方向からだと大人しい山勢である。
眺望台から北東方向、即ち出関古道東段を望んだものだが、実際古道がどう延びているのか?までは判らない。同写真左奥に写る小山は、古道東段のマイルストーンの一つ、新百二份山(標高856b、ネット上で「菜寿凸山」の別称を見付けた)。
聖衡宮横の民宿二階から撮影した南東方向に望む雪山山脈と雲海。2019年11月3日、朝約6時。(続く)

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2020年09月19日

出関古道−4

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【写真説明】左写真は出関古道西段を登り切った際に最初に目にする関刀山頂上の広々とした景観、三角点は同写真奥に埋定されており見えない。中央写真は古道東西段の分岐点方向、即ち関刀山登山道出入口方面に鎮座する雲洞山を望んだ。右写真は地籍三等三角点、筆者の手元にある『台灣全覧』には括弧付きで(「挿旗[山|東]」)の表記もあり、どちらが点名(点の記に記載された基点名称)なのか?は判然とせず。三角点は左写真奥のもう一つの広場脇に埋定されており、その三角点を含む▲パノラマ写真、同写真に写るカップルが居る場所が三角点。同写真に写るコンクリート構造物の残骸が元々何であったのか?は想像が付かず。いずれにしても、平坦な山の頂上はこの上無く気持ちが良い。関刀山頂上は絶品である。(続く)
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2020年09月12日

出関古道−3

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【写真説明】出関古道西段の後半部分の景観。この段の古道の魅力は雑多な植相を楽しめることだ。上段左写真では判り難いのだが、古道両側の木立は古い蜜柑の木である。とうの昔に打ち捨てられたものだが、古道沿線の嘗ての畑作の名残である。中央写真は関刀山山頂山塊を撮影したものだが、古道西段沿線からはこの程度の眺望が精々である。雲洞山頂上からの関刀山及び稜線の写真は後日紹介する。右写真は茅藪の中を潜り抜けるような感触の一段。下掲左写真は野生と思われるバナナ畑を過ぎる。中央写真は関刀山頂下の竹林、野生と謂うより筍栽培目的に植え込んだもののはずだが、美しい。右写真は関刀山頂直下、前回投稿中の下段右側に写る石段と同様の石段だが、古道本来のものかどうか?(続く)
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2020年09月05日

出関古道−2

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【写真説明】今回と次回投稿は出関古道西段(聖関段)、即ち関刀山頂上に至る迄の古道景観を殆ど写真のみで紹介したい。今回は当該古道前半、次回は後半部と大まかに分けることとし、時間、距離等の細かい数字は省くことにする。古道と呼ぶにしろ、登山道と呼ぶにしろ、この段は筆者にとっては非常に気持ちの良い景観の連続だっただけに大いに満足した。上段左写真は、関刀山への実質的な登山口、丁度階段の修復作業中だった。中央写真は、出関古道東西段の分岐点附近、即ち筆者が出発した関刀山登山口方向を振り返ったもの、同写真右奥に聖衡宮が見えている。右写真は、更に高度を稼ぎ中央写真と同方向を望んだもの。前回の記事で紹介した無基点峰の雲洞山とその平たい頂上稜線上に眺望台が覗いている。この眺望台下が出関古道東段の実質的な起点となっている。詰り出関古道西段から東段方向を望んでいることになる。下段の三枚は西段前半部の古道の光景。下段右写真は古道が関刀山に取り付く鞍部附近で産業道路と交錯している場所、右側が取り付き地点、左側の階段は古道上に元々設えられていたものか?登山道として整備された時付けられたものか?は判然とせず。筆者としては前者だと思いたいのだが。(続く)
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2020年08月29日

出関古道−1

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【写真説明】左写真は苗栗県中でも著名と思われる聖衡宮、台湾小百岳の一座関刀山への登山口への格好の道標(みちしるべ)である。出関古道は、この聖衡宮がその脇に鎮座する苗栗県県道130号線で交差、便宜上東西段に分けられているが、中央写真は県道脇の東段起点附近の賑わい。右写真は、逆に出関古道西段、即ち関刀山登山道入口である。
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2020年08月22日

虎頭埤−8:新化国家植物公園(新化林場)

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【写真説明】嘗ての台湾総督府付属の台南演習林は、今は新化林場、或いは新化国家植物園として中興大学実験林に受け継がれている。左写真は、その正面ゲート。中央写真は正面ゲートを潜った場所に置かれた今年2020年度が林場開場百周年を意味するオブジェ。右写真は林場内の最高点に設置された休憩所「自在亭」と地籍三等三角点、通称礁坑子山、正式点名は畚箕湖山。「畚箕」は見慣れぬ漢語であるが、(箒と)「塵取り」の事で、中文では日常生活用語だ。
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2020年08月15日

虎頭埤−7:鹽水埤

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【写真説明】今回から新たな古道紹介に移る予定だったが、虎頭埤のバックアップとして建設されたダムがその北側に存在することを知り最近実地検分に出掛けたので、簡単に報告しておく。バックアップとは虎頭埤の水量が乏しい時に放流すると云う意味であろうが、このバックアップ・ダム、鹽(塩)水埤と虎頭埤とは繋がっており、鹽水埤から虎頭埤へ放流されるのか?或いは鹽水埤は独立したダムで虎頭埤と同じ灌漑水経路に放流されるのか?そこら辺りまでは調査未達。二つのダムの地理的関係はこの俯瞰図を参照にして欲しい。いずれにしても、どちらのダムも、現在の台南市の行政区画内で完結し台湾海峡に流れ込む鹽水渓の支流を堰き止めたものであるが、八田與一の嘉南大圳が完成した後は、灌漑水配水システムの機能性は減衰していったそうだ。手元の地図では鹽水埤の周囲に車道があり、然程苦労せずとも行着けると踏んでいたが、鹽水埤に北側からアクセスした関係で、台南市郷道を離れてから埤畔に至るまでの数`の車道は、バイクが対抗して来ても同時通行は不能、釣客が車で入り込んで来たら逃げ場皆無、おまけに、右写真に写る警告板二基を目撃、実に緊張のしぱなっしで、現地に着いた後も、復路の心配ばかり、ここに掲載した写真(何れも埤北畔から南畔を望んだものであることを事後Google Mapで確認)撮り終わると、中央写真奥に写る閘門は確認せずに帰途に就いた。埤面には太陽電池発電用のパネルが浮かんでいたが、一体全体機能しているのかどうか?と云う疑問より、これらのパネルをどう運んで来たのか?と云う疑問が先に立った。結果は往復路で各々一台のバイクと行き当たっただけで済んだ。尚、台湾人なら「鹽水」と聞けば、同市鹽水区の旧暦一月十五夜の気違い染みた年中行事「蜂炮」を想起するが、この鹽水と云う地名と鹽水渓はどうも関係ないようだ。(終り)
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2020年08月08日

虎頭埤−6

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【写真説明】以上、これまで紹介して来た日本時代の名残りは埤の南側に集中している。日本時代に既に景勝地として整備、臺灣日日新報が「台湾八景十二勝」を募集、虎頭埤は第九勝に選定されている。今は「ミニ日月潭」の呼称有り。当時は周囲7`あったそうだが、今は最も長いコースで4.5`程、現在の遊歩道とどの位の重なりがあるのか?筆者は判らない。兎も角右回りで一周してみたが、北側は見るべきものは無かった。虎頭埤で遊楽客に最も人気のあるアトラクションは、これも南側にある埤岸と埤中の小島を結ぶ「虎月吊橋」であろう。日本時代遺物8号、前回紹介した閘門と同じく明治38年の構建であるが、現在あるのは2005年に橋柱を含め新装されたと推測される。埤畔側に一条、埤畔側橋柱(中央写真)にプラスチック製プレートが貼られているが、どちらも日本時代の吊橋の呼称が記載されていないので、当時から虎月吊橋と呼ばれていたかもしれない。もう一つ埤畔側に「重修台南縣新化虎頭埤名勝記」と題した記念碑(左写真)が立つが、異なる意趣の日本時代建立の記念碑をそのまま使い、記念碑プレート自体をすり替えたのでは?と思われる。右写真は小島側から望む同吊橋全容。虎頭埤中の吊橋の位置については、本ブログ左側メニューの「俯瞰図」を参照にして欲しい。(終り)
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2020年08月01日

虎頭埤−5

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【写真説明】正面ゲートから堤防沿いに付けられた遊歩道の右廻りを更に進めると、嘉南農田水利会の管理下にある大水門構造が現れる(左写真)。日本時代遺物の第7号である。台南市の公式案内では「溢洪道木桟橋」と記載されているが、水門上に木製の桟橋が設えてあり遊楽客が歩けるようになっているからだ。中央写真は左写真左側に見える水門構造。その水門脇に立つ案内板の文字は陽に褪せて殆ど読めなくなっているが、少なくとも「閘門」と「明治38年」と云う単語が拾えるので、1905年竣工の構造物、但し、翌年大地震に見舞われているので、大規模な修復に至ったのかどうか?は判らない。閘門は、そのまま日本語でも使われる。『デジタル大辞泉』(小学館)に依ると:@運河・放水路などで、水量を調節するための堰 (せき) ;A運河・河川などの、水面に高低差のある場所で、水面を昇降させて船を行き来させるための装置;の二つの意味があるが、虎頭埤の場合、当然@の意味である。埤に貯めた水の水量調節、或いは灌漑の為に放出するのであるが、放出された水を集め外部に流す構造を台湾では「溢洪道」と呼び、通常は大きな滑り台であるが様々な構造がある。虎頭埤も右写真に写るよう滑り台式である。同写真中央部に写る白いトタンの看板状の下に小さな橋が見えるが、これも日本時代構築のものだ。日本の建築用語では溢洪道は「放流設備」だそうだ。今回は、コンクリートの塊にお付き合いいただいたが、竣工から百年を越えており、実際は戦後も修復、改建が加えられて来たとは謂いながら、基本設計は当時のママの筈だ。その半永久性に敬服する。(続く)
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2020年07月25日

虎頭埤−4

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【写真説明】虎頭埤の周辺風景はこのくらいにして、そろそろ台湾最初のダム(台湾国語では「水庫」)の話に移ろうと思う。ダムと言っても発電所が併設されているわけではなく、虎頭埤を囲む堤防(台湾国語では「壩体」)と埤の水量を調節する大掛かりな機構から成り立っている。今に見るこれらの構造物の多くは日本時代の構建であるが、灌漑用水貯蔵機能としてのダムの先駆けは、道光26年(1846年)迄遡る。その後、同治2年(1863年)に拡張工事を行っている。正面ゲートは埤の最南端に付いており、ここを潜った後、右回り、つまり東側に堤防脇の歩道を歩き出すと、少なくとも三つの日本時代の遺物に出会う。先ずは左写真の堤防に沿い敷設され鎖を渡した欄干、日本時代遺物第4号である。
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2020年07月18日

虎頭埤−3

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【写真説明】左写真は、もう一つの神社遺構である「新化社」の石柱、何の変哲も無い石柱に見えるが、日本時代の遺物である。中央写真は、虎頭埤の由縁たる虎頭山山頂近くの旧参道と灯篭。灯籠の残存状況は良い。右写真は新化社本殿階段。下掲写真は、虎頭山山頂の地籍三等三角点と休憩所。
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2020年07月11日

虎頭埤−2

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【写真説明】前回記事虎頭埤風景区内外の日本時代遺物第2号として、新化神社の風景区外の遺構を紹介したが、今回は、風景区内にある同神社遺構を紹介する。正面ゲートをくぐり直ぐ左手にある。左写真は本殿への階段と思われる。中央写真は、現場の案内板に依ると「新化神社-神明避難所遺構」、詰り、祭神の防空壕である。右写真は同遺構の上部。その案内板の拙訳は以下の通り:

新化神社は、昭和18年(1943年)、第二次世界大戦(筆者註:大東亜戦争)末期に竣工された。日本時代に台湾各地に建立された神社の中で、同様の地下室遺構を有するものは、台湾神社(台北市円山付近)とこの新化神社のみである。驚くべきことに、日本でも類似の遺構は稀で、歴史遺産として保存する価値がある。新化神社の「地下室神明避難所」としてその構造が最も特殊な部分は、地形の高低差を利用し地下室を設け、その地下室と屋上を結ぶ階段を設営、地下室入口は切石割の土塀で囲み、屋上には洗い出し石材(筆者註:台湾国語では「洗石子」、天然石材の人造代替石材の一種)に依る欄干が敷設されている点である。

さて、ここで虎頭埤の所在地である新化の地名の起こりを、『臺灣地名研究』依り抜粋しておく:

大正九年大目降を、鄭氏時代に設けた堡名新化里に因み新化と改めた。シライヤ族タヴオカン社(蘭人のTavokang)のあった所で、西暦一六○○年代に和蘭人によって教化に着手され、次で明末鄭氏の時代には開化の地となり、清領の当初大目降荘(後の大穆降庄)と称した。大目降は即ちタヴオカンの蕃社名に宛てた近音訳字で、大目降は木岡(ボクコン)とも称した。後移民が漸く多く商民集中の区となり大目降街を形成する。 (続く)

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2020年07月04日

虎頭埤−1

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【写真説明】左写真は虎頭埤風景区の正面ゲート、虎頭埤の西端になる。そのゲートに向かい右側から南側に入り込む路地がありそこを伝い抜けると小さな街並みに出るが、そこに中央写真に写る大鳥居が立っている。その小さな街並みの風景に完全に同化している様に驚いた。嘗ての新化神社の入口になる。本殿に至るには風景区敷地内に入る、つまり入場料を支払う必要あり。大鳥居と本殿を繋ぐ旧参道の途中、詰り、風景区敷地内外を結ぶ敷地外側に太鼓橋が残っている。今回の投稿本文に虎頭埤並びに周辺の日本時代の遺物第1号を紹介してあるが、新化神社関連遺物はその第2号であり、風景区敷地内にも神社遺構は残る。
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2020年06月27日

苑裡圳−6

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【写真説明】左写真は前回投稿で紹介した涼み台から取水口を背にして撮影した苑裡圳。左側の民家を抜けた後の古圳脇に設営された構造物二体、主流の水を水圳両側の田園に配水させる分水路に設けられているのだが、残念ながらこれら二つの構造物の機能の相異は筆者では想像出来ない。初めて目にするものである。此処迄、走るような簡便な紹介になってしまったが、以上で苑裡圳の紹介は一旦終了する。(終り)
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2020年06月20日

苑裡圳−5

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【写真説明】前回の投稿記事に写真を掲載し家屋は、県道を背にして郷道の右側に立っていたが、その逆側の民家は苑裡圳に沿って建てられている。適当な路地(左写真)を選んで入り込んでみると、大木の袂に小さな公園仕立ての涼み台とも呼べる空間が設えてあり(中央写真)、その下を苑裡圳が流れていた。その流量と清烈さに、何時もながら感嘆する。既に百年を越えて基本的には当時構築した流配水のシステムを百年を経ても維持し続けて来た当時の業(わざ)に驚嘆するのだ。右写真は、台湾の、と言うべきか?、台湾でも、と言うべきか?古圳脇に設けられた古圳の水を洗濯、水浴び等直接生活水として利用する為の踊り場である。前述の涼み台脇の例。(続く)
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2020年06月13日

苑裡圳−4

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【写真説明】県道140号線から外れ暫く苑裡圳を追い掛ける為には、苗栗県郷道43号線に入る必要がある。県道から郷道に右折する際にその三叉路に立っている道路標識(左写真)の中の「水門」の二文字を見てあっ!と思った―ここにもある。日本時代の水インフラがそのまま地名になっている例がここにもあったと云う意味である。この標識から判断するに、当地の地籍は苗栗県苑裡鎮上館里水門庄と云うことになりそうだ。中央写真はその三叉路から郷道に少し入り込んだ道路脇の「水門」バス停。この付近の民家は古撲だ。右写真はその一例。(続く)
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