2021年11月06日

《嘉義県の古道》安靖古道(梅山郷)

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【写真説明】梅山郷は竹崎郷の北隣である。この古道も筆者の手元の市販地図帳を眺めている時に眼に留まった。その赤線で示された古道の殆どが嘉義県郷道115線に沿っており山中に入り込んだ古道部は極僅かであるのが見て取れる。竹崎が文字通り筍の産地であるように、梅山も梅の産地である。竹崎市街地から郷道115線を東側に進んだ先にある嘉義県梅山郷安靖村は所謂ド田舎である。鉄筋コンクリートの現代建築物である安靖社区活動中心(上掲左写真)や安靖国民小学校(正式には大南国小安靖分校)が全く場違いに思える。郷道上に「安靖古道」の指導標は多い(上掲右写真)のだが、結局古道足る歩道の起点には辿り着けず。下掲載写真は古道と思われる車道上の景観。序でに加えると、古道の由来に就いては分からず仕舞い。尚、地図帳には安靖古道から枝分かれする柿仔寮古道の標記もあるのだが、指導標には出会えず。(終り)

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2021年11月13日

《嘉義県の古道》古梅古道(梅山郷)

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【写真説明】前回投稿中の上掲右写真には「安靖古道」と「古梅古道」が並列して標記してある。郷道115線上の複数箇所で目撃した。但し、この古道は筆者の手元の地図帳に記載は無い。安靖古道と同じく、車道の指導標を辿っただけで、古道らしき場所に辿り着けず。左写真は古梅古道の指導標の一つ。中央写真は恐らく古梅古道を歩くハイカーの為に設けられたガルボと思われるが、ハイカーが頻繁に立ち寄っているとは思えない。天井の梅のマークがユニークだ。右写真は左二枚の撮影地点付近の車道。(終り)
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2021年11月20日

《嘉義県の古道》半天古道(梅山郷)

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【写真説明】梅山市街地から東側阿里山方面へ至る車道の一つに嘉義県県道162甲線がある。この道路もそうだが、阿里山山脈の山襞にへばり付く特定の集落とそれらを繋ぐ自動車道を地理的に説明するのは難しい。162甲線は要は梅山市街地と途中半天村を通過し、阿里山山脈中でも著名な風景区に指定されている太平村市街地とを結んでおり、この間県道の延長は約12`、落差が千b程ある。現代の自動車道はカーブを繰り返しながら高度を稼ぐのであるが、「太平三十六弯」(上段左写真)と呼ばれ、カーブ毎に1〜36番迄の茶色の標識が立てられている。半天古道とはこの大規模な九十九折(つづらおり)を突き抜けていくわけだが、別名「汗路古道」と謂われるぐらいに急坂で、半天とは梅山市街地から嘗て半日掛けて辿り着くマイルストーンの地という意味だと思われ、幾つか半天の名を冠した集落が点在する。代表的な地名は半天寮である。今現在は第3弯を最下段起点として第28弯(上段右写真)迄を半天古道、それ以降36弯を経て太平村市街地迄至る歩道を太平古道と称している。半天古道部の総延長は2`ということだ(上段中央写真)だが、とにかく基本は真っ直ぐに上へ上へと階段を登るだけなので、筆者は第17弯に設けられた展望台迄足を延ばしそのまま引き返して来た。車を一番下に停め一番上迄詰めた後引き返して来る勇気は出なかった。下段左写真のように人工スレートへの置き換えが進んでいる(右脇の石組は土地公)ので古撲な雰囲気は消失している。唯一の例外は、古道途中の半天寮村(下段中央写真、同村を代表する鎮天宮)で土地の人に紹介された造紙寮(製紙工房、下段右写真)跡で、その遺構の中に「昭和」の文字を見付けたことだった。(続く)
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2021年11月27日

《嘉義県の古道》半天古道(梅山郷):「嘉義梅山乾隆民番界碑」

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【写真説明】半天古道は殊更に興味を持っていた訳ではないが、何処かで「民番界碑」のことを目にし是非見たいものだと冀っていた。第32弯から県道を離れ然る廟堂へと繋がる道を入り込むと赤地に「民番界碑」と白抜きされた標示板が立っていた(左写真)。そこから山側に入り込むとビニールに碑文をコピーした幟(下掲写真)が掛かっていたが、実際の碑が何処にあるのか俄かには判じ難かった。訪れる人は明らかに少ないと見えて竹が勝手放題に延びている。碑と思しきものは大きな岩であり(中央写真)、碑文は殆ど識別出来ない(右写真)。台湾のサイトで「民番界碑」で検索すると確実にヒットするが、この単語は通称だ。2014年に嘉義県指定古蹟となっているが、筆者が訪ねたのはその二年後ぐらいだ。文化資産局登録名は「嚴禁匠民越界私墾碑」、ウィキペディアには別称例として「梅子坑生番界碑」との付記があるが、観光用語としては、冒頭の件名に記した呼称が通例だ。筆者が興味を持ったのは開拓民である漢人と生番こと台湾原住民との抗争が実在したことを証明する生きた証だからだ。碑文には「乾隆參拾參年參月」(1768年)の銘がある。日本が台湾を領有することになる約130年以前である。碑文の中に「以大山脊分水爲界山前屬民山後屬番」と漢人開拓民と原住民との活動区域の線引きが極めて単純に定義されている。筆者が想像するに「大山脊分水」とは、雲林県と嘉義県の県境に聳える雲嘉大尖山(台湾小百岳、一等三角点、1,305b)に繋がる稜線(分水嶺)を指していると思う。その稜線の西側(山前)が漢人区、東側(山後)を原住民区として線引きしているということになる。(終り)
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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | 《嘉義県の古道》 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする